パッション~受難曲
オーディションでは歌とダンス、そして演技がまとめて評価される。
今まで何度となく大舞台に立っていながら、こんなに緊張するのは初めてだった。
役を落とすかもしれないなんて思ったことなんか一度もなかった。
裏を返せば、全盛期を過ぎてこんな風にチャレンジすることなんてなかったから当然だ。
「ほら、お前の好きな棘だらけの小さな薔薇だ」
オーディション当日、佐伯はどこからか摘んできた白い小さな薔薇を俺の制服の胸ポケットに挿してくれた。
会場は1週間前に俺が夢見心地で過ごした小講堂だった。
ここに来たとたん、あの日鼻先に触れた岬の髪の感触や、小さく震える肩を抱いた記憶がありありとよみがえってきて――。
自然と笑みがこぼれる始末だった。
胸に挿した薔薇からは、造り物にはないピュアな香りがした。
俺は完璧に『ジュ・トゥ・ヴ』の心境だった。
あいつに恋してる――。
もう否定の仕様もなかった。
昨夜、俺は未練がましくも岬の部屋の前まで行き。
『よかったらオーディションを見に来てくれ』と書いたメモをドアの隙間に滑り込ませていた。
岬は多分読んでもないか、もし読んだとしても来てくれやしないだろう――だけど。
分かっていながらも、俺の心拍数は否応なしに高まった。
もしかしたら奇跡が起こって、岬が俺の歌を聴きに来てくれるんじゃないかと、まだ心のどこかでは期待していたのだ。
俺は鏡の前に立ち、自分の姿がただの入れ物に見えるまでじっと見つめ続けた。
昔、舞台に上がる前によくやったおまじないだ。
この入れ物はおれじゃない。
だからなんでもできるんだって、言い聞かせるんだ。
うまくいけば俺の中に天使が下りてきて、実力以上の力を発揮できる。
俺はそう信じていた。
準備は万端だった。
そう、会場内が異様なざわめきに包まれるまでは――。
「絶対、ミサキ姫だよ」
オーディション開始間際に飛び込んできた数人の生徒が、輪になって騒ぎ出した。
聞こえてきたその名に、俺は自分でも驚くほど敏感に反応した。
岬の姿を探して、飛んで輪の中に入る。
だが、奇跡はそう簡単に起こるもんじゃない。
「結城くん!」
輪の中央にいたのは、紙切れを手にした中田と岩下だった。
「これ、見た?」
「――何?」
俺の全身がなぜかチリチリと震えた。
まるで良くないことが起こった合図のように。
「さっき屋上からばらまかれたんだ。芝生の上が真っ白になるくらいいっぱい!」
俺は無言のまま、震える手で岩下からそいつを引ったくった。
「新聞部の号外だって。これって……ミサキ姫のことだよね?」
散り散りに飛び込んでくる文字と、途切れ途切れ耳に届く言葉。
「ねえ、カストラートって何さ?」
「音楽史の授業でならったじゃん。歴史上の去勢歌手」
野次馬の輪が徐々に大きくなっていた。
室井だ――。
蒼井さんから今月の学校新聞の担当を外され、万が一にも今日俺が賭けに勝った場合を想定して――あいつは先手を打ったんだろう。
記事に岬の名こそ記されていないものの、去年の合唱コンクールで起きた怪異と――。
子供の頃の事故が原因でカストラートになった少年について書いてあった。
去年の合唱コンクールの出来事を知っている人間ならば、これが岬のことだとすぐに見当はつくはずだ。
書庫から無断で持ち出した本を熟読したのだろう。
ご丁寧にもカストラートについての詳しい解説までついていた。
「蒼井さんは……寮長はこのこと知ってるのか?」
背中を冷たい汗が伝っていく。
「知ってるもなにも、きっともう校長室に呼ばれてるよ」
「音楽科の、それも新聞部の不祥事だしね」
中田と岩下の言葉が遠くに聞こえた。
心臓が早鐘のように打ち続け、俺は立っているのもやっとの状態だった。




