⑤
「それがお前に与えられた自由だろ?」
それが、決定打だった――。
いやらしい室井の笑い声が、急に呼吸を止めたようにくぐもった。
「――自由だとっ!!」
俺は自分の目を疑った。
痛烈な声音で叫んだ岬は室井に飛びかかると、激しく首を絞めあげた。
奇襲攻撃にひるんだ室井はピアノの前に倒れ込む。
「君の言うとおりかもしれないよ。たとえ僕が君を殺しても、きっと心神喪失で片がつく」
馬乗りになったまま、岬は両手に力を込め続けた。
室井の手足が宙をかいた。
髪を振り乱し、天使は凶暴な魔物へと豹変する。
まずい――。
俺は一目散にステージめがけて走った。
室井は殺されてもしょうがない悪党だが、みすみす岬を殺人犯にするわけにはいかなかった。
それにしても――俺は座席をいくつか飛び越えステージに駆け上がる。
なんだってこいつはいつも俺の予想を上回る暴挙に出るんだ。
今度ばかりは俺も本気だった。
俺は後ろから全力で岬の体を取り押さえた。
「やめろ岬!ホントに死んじまうぞ!」
室井から引き離そうとする俺を振り返り、岬は狂犬のように吠えた。
鼓膜が破裂しそうな声で叫び続け、何かに取りつかれたように暴れ出す。
「見ただろ?これがこいつの正体だ!」
室井は咳込みながらステージを後ずさると、どうにか体を起こし。
青ざめたまま、壊れた楽器のように唸りたてる岬に悪態をついた。
「お前、早く出てけ!」
岬に振り回されながらも、俺は室井を怒鳴りつけた。
岬の声は治まらない。
理由もなく泣き続ける赤ん坊のようなエネルギーで、俺の全身の力を奪ってゆく。
「化け物め!」
室井はむしろこの状況を待っていたかのように興奮して叫んだ。
「うるせえ!とにかく今は消えろ!」
俺の声は轟音にも似た岬の叫び声にかき消され、室井に届いているかも分からない。
「あんまり騒ぐとせっかくの声が潰れちまうぞ、カストラート!」
室井はふらつく体を2つに折って本とカバンを拾い上げると、ようやくステージを下りた。
俺は後ろから抱え込むようにして、岬の体を抱いていた。
どれぐらい――そうしていただろうか。
室井が去るとしばらくして岬の声は止んだ。
まだ呼吸の荒い岬の体を抱きしめたまま、俺は動けないでいた。
話しかけたら、きっとこうしてはいられない。
手を放したら、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖かった。
小柄な体はバネのように俊敏で力強い。
それなのに壊れそうに柔らかくて、あたたかい。
どうしたらいいのか、分からない――。
どうしてあげればいいのかも分からないまま、俺はそうしてただ座っていた。
だがもう何を言われても、たとえ殴られたってこの手を放したくない、そう思っていた。
「また……あんたか……」
かすれた声が耳に届くより先に、震える呼吸が岬の背中から俺の心臓に伝わった。
岬の中から溢れだす悲しみが波紋して、俺の胸をざわつかせる。
「俺、お前のこと記事になんかさせないから……」
岬にとってこの状況は本意ではないだろう。
だがもはや、俺の手から逃れる力も残っていないほど、岬は憔悴しきっていた。
かすかに天窓から差す秋の日差しが、石造りの小講堂に降り注ぎ反射する。
平和な日曜の午後の光が、傷ついた俺たちを優しく包みこんでいた。
「もう、無理だよ」
俺は言った。
もうこの真正直な感情を止められやしなかった。
ワガママだって、自分勝手だって、押しつけがましくたって。
「俺もう、岬のこと放ってはおけない」
日の光がごく自然に降り注ぐように、出会ってからずっと、俺はこいつのことばかり――。
「あんたみたいな人間が、一番嫌いだ」
俺の腕の中で振りむいて、岬は囁いた。
滲んだ瞳は虚ろなまま一番嫌いな人間を視界に取りこんでいた。
「分かってる。でも残念だけど俺は嫌いになれない。けなされても、殴られても、人を殺そうとしているところに出くわしても、だ」
俺が笑うと、開きかけた口を閉じ、岬は顔を背けてしまった。
「俺、室井と賭けをしてんだ。文化祭の舞台である役を勝ち取れるかどうか。俺、お前のために必ず勝って、記事を差し押さえてやる。約束するよ」
俺は無理矢理指をつないで岬に指切りさせた。
岬は迷惑そうに手を振り払ったけど、その後も、俺の腕の中から立ち去ろうとはしなかった。




