④
あれから1週間たった日曜の今日――。
ピアノ専攻の主席を競う2次試験は、学院の小講堂で行われているはずだった。
蒼井さんと俺以外に、岬の秘密に気づいた人間がいるとすれば――あいつしか考えられなかった。
岬を執拗に追い回していた室井が、きっと俺たちと同じ結論に達したのだろう。
だとしたら今日、目の敵にしている岬を前にして、あいつが大人しくしているとは思えなかった。
寮を出て、俺は一目散に小講堂へと向かった。
道すがら楽譜を手にした数人の講師たちとすれ違う。
みなが一様に岬の演奏を褒めちぎっているのが聞こえてきた。
どうやら岬の言ったとおり、一度の試験で決着は着いたようだった。
ホッとする半面、不安の種はより大きくなっていた。
あのプライドの塊のような室井が岬に敗れた今、岬の秘密を握ったあいつがどんな行動に出るか、おおよその見当はついた。
現代のカストラート――絶好のスクープだ。
――予感は、的中した。
「辞退して声楽専攻に戻れよ!」
小講堂の入口に立った俺の目に飛び込んできたのは、舞台の上で岬に詰め寄る室井の姿だった。
「あんたは特別な人間なんだからさ、歌わなきゃ。そうだろ?お姫様」
蛇のうろこのようにかさついて邪念のある声が響く。
俺は開け放たれたままの扉から、そっと小講堂に入り込んだ。
「俺と口をきく気はないって顔だな?いいだろう。涼しい顔してられるのも今のうちだ」
岬は淡々と楽譜をたたむと、細い指先で神経質そうにピアノのカバーを下ろした。
まるでそこに存在していないかのような静寂。
俺の視界に可憐なその姿さえ映っていなければ、まるっきり室井の1人芝居のように見えただろう。
「お前が何者かようやく分かったんだ。正直驚いたよ。どうりで普通じゃないはずだ。お前の秘密、次の学校新聞で取り上げたらどうなるかな?」
そう言うと、室井はカバンの中から1冊の本を取り出した。
「カストラート……」
掲げられた本を見て、岬はごく小声で呟いた。
「なんだ。玉はついてなくても、口はきけるんじゃないか」
室井が人の神経を逆撫でする甲高い声で笑った。
予期した通りのへどが出そうな展開を、俺はただ見守ることしかできなかった。
けど、もしも今――。
俺が飛び出して室井の野郎を叩きのめしたとしても、より一層岬を傷つけてしまうだけな気がした。
「お前のこと調べさせてもらったよ。子供の頃に悲惨な事故にあったんだってな?いいよ、説明しなくても。俺だって鬼じゃない。あんな悲劇を今さら語れとは言わないさ。とにかくお前は、子供の時分に下半身がちぎれるほどの大事故にあった。違うか?」
岬が何を考えているのか分からない。
青い顔でうつむいたまま、相変わらず複雑な表情をして立ちつくすだけだ。
「おまえがカストラートになったのは、その後遺症なんだろ?」
室井はなおも岬に詰め寄ってゆく。
いつの間にか、俺は固く拳を握っていた。
「――僕がピアノ専攻の主席を辞退すれば、丸く収まる話か?」
やがて岬は静かに顔を上げ、そう言った。
「馬鹿だな、お姫様。まだ雲の上にいるつもりか?」
室井の声にいっそうの悪意がこもる。
「人には言論の自由ってもんがあるんだぜ」
「自由……?」
岬の子供みたいな横顔が儚く呟く。
「そうさ。そんな女々しい取引はしない」
「なら……僕はどうしたらいい?」
「そうだな。お前が声楽専攻に戻ってみんなの前で化け物の声を披露するって言うんなら考えてやるよ」
もう一言あったら――俺は2人の前に飛び出していたに違いない。
だけど岬は
「それはできない――」
今までにない強い口調で答えた。
「どうして?親父に頼めば声楽専攻に戻るのなんて朝飯前だろ?親父の力がありゃ、なんだってできんだろ?」
室井は調子に乗っていて気づいていない――。
岬の目に異様にギラギラする光が宿るのを――。




