③
「でもな、ジョージ。シュザンヌだってユトリロが画家として成功してからは、何かと世話を焼くようになったんだぞ」
俺を気遣ってか、佐伯は気まずそうに言って、ユトリロの画集を取り上げた。
「バーカ。それフォローになってねえよ」
現金なところまで似ていると言われてるようなもんだ。
「ところで肝心のサティはいつ出てくんだよ?」
俺はそれとなく話題を変えた。
しんみりしている場合ではなかったし、悲劇はもともと性に合わない。
「よし、話を戻そう。シュザンヌとサティが交際したのはわずか半年間だ。つきあい出した日と別れた日が分かってるだけであとのことは本人たちしか知らない。だから俺が出した芝居の原案も、2人の恋愛についてはすべて創作だ」
佐伯は家庭教師の口ぶりに戻って話を続けた。
「たったひとつ分かっているのはな、シュザンヌと別れたサティが、その後1度も恋愛できないまま生涯を送ったってことだけだ――」
「それは……彼女のせいなのか?」
俺の素朴な問いかけに、佐伯はニヤリと笑った。
「キレイな薔薇には棘があるっていうだろ?お前も気をつけろ」
「な、なんで俺が……」
ロートレックの描いたシュザンヌは微笑むことなく遠くを見つめている。
まるで誰かさんのように――。
俺ははたと気づいた。佐伯は遠回しに、岬のことを指して話しているのだ。
殴られた傷はキレイに治ったものの。
あの日から俺の心には、サティが負った痛手と多分同質の――虚無感が巣食っていた。
「ジョージ、何悩んでる?おおよそお姫さんのことだって察しはつくが、今のまんまのお前じゃとてもシュザンヌにはなれないぞ」
佐伯ははっきりとそう言った。
「なんだよ。意味分かんねーし!」
図星をつかれ、気まずくなった俺は席を立った。
本棚にピシリとそろった本の背表紙を、邪悪な天使に遭遇したあの日と同じように、ひとつひとつなぞりながら書庫の中を歩いた。
「言ったろ?ジョージ。シュザンヌは情熱的でエネルギーの塊みたいな女だ。その源は真正直な恋愛感情さ。今のお前みたいに腐った顔してたら、いくら歌がまともに歌えるようになったって、誰がシュザンヌ・ヴァラモンに適役だと思う?」
こいつ、色々と手の込んだマネをして。
つまるところ俺に言いたかったのはそれなのだ――。
「馬鹿言えよ!それなら男子校でシュザンヌに適役の人間の方がむしろ怖いだろ?」
俺は声を荒げた。
が、どこか言い訳じみている。
どうして追い詰められているのか自分でも分からない。
でも、自分の言葉より佐伯の言葉の方が真実味がある気がして、イラついた。
「だいたいな、お前は役柄と私生活を混同させ過ぎなんだよ。だからこの前だって……」
背中を向けたまま、空虚な言葉を重ねる俺に向かって、佐伯は澄んだ声で言った。
「俺にとってサティは真実だし、佐伯悠人も真実だ。どちらにも迷いはないぞ」
俺は振りかえって自信に満ち溢れる佐伯を睨みつける。
迷いはないだって?
そんなことお前の歌声を聴けば痛いぐらいに分かるさ――。
俺だって本当はそう言いたい。
「俺だって――ん?」
本の背表紙を撫でていた指先が、急に宙をかいた。
本棚の一部にぽっかり空洞ができていたのだ。
音楽史の棚から、本が何冊かまとめて抜け落ちていた。
部屋には俺と佐伯以外、誰もいないはずだった。
「ここの本、貸し出しもしてるのか?」
「ん?」
突拍子もない俺の質問に、眉をひそめて佐伯が近づいてきた。
「ここ、ごっそり本がなくなってるから」
「いいや。ここの資料は持ち出し禁止のはずだぞ」
佐伯は俺の隣に並ぶと、上の段から数えるようにして本を見てゆく。
「16世紀~18世紀……ヨーロッパ……教会音楽……」
「何が抜けてるか分かんの?」
驚く俺に、変人は当然のように頷く。
「去年は睡眠障害がひどくてな。毎晩ここに来て本を読んでたんだ。端から順に」
「だからって覚えてないだろ、フツー」
「余の辞書にフツーという文字はない」
本のタイトルをぶつぶつ呟き続け、やがて長い指先が空洞の前でピタリと止まる。
佐伯は記憶をたどるように目を閉じると。
「――カストラートの本だ」
ポンと手を打って、スッキリした顔で言った。
「なんだって?」
突然佐伯の口から飛び出した言葉に、俺の心拍数が跳ね上がった。
「カストラートだ。14世紀から19世紀までヨーロッパ各地に存在した去勢歌手」
「そうじゃなくて、なんでそんな本がなくなってるんだよ!」
「俺が知るもんか。どうしたジョージ?顔が変だぞ」
「顔じゃねえ、顔色だ!」
俺は心底動揺していた。
蒼井さんだろうか?と思ったが――彼が貸出禁止の書物をごっそり持ちだすような非常識な人間だとはとても思えなかった。
だとすれば誰だ?
「佐伯ごめん、俺ちょっと用事……っ!」
イヤな予感がした。
「なんだ?待てよ、ジョージ!」
佐伯は走り出そうとする俺の襟首をつかんだ。
「顔はともかく顔色が悪いのはおかしいだろう?」
いぶかしげに俺を見つめる。
「悪い、行かなきゃ……」
「おいおい日曜日は休息日だぞ。走るな」
佐伯の手を振り切って、俺は走り出した。
おおよそ姫さんのところだろ、と口には出さずとも佐伯はそう思っていたに違いない。
俺はようやく理解した。
これがシュザンヌの情熱、真正直な恋愛感情。
誰も止められやしない。
思いついたら走り出さずにはいられないのだ。
それは自分自身で、もうどうすることもできないものなんだ――。




