②
何年もミュージカルの世界から離れていた退化は目に余るものがあった。
ソルフェージュを基礎からやり直し、発声練習と体力作り。
ダンスのレッスンも受けながら通常の授業もどうにかこなした。
過酷だった。
「オーディションは来週だぞ。寝てる時間なんてない!」
こんなになるまでどうして俺に相談しなかったんだと、自分の奇行の数々を棚に上げ、正気に戻った佐伯は何かと俺の世話を焼きたがった。
「良く言うよ。お前の発作のせいで3日もロスしたんだぞ!」
まあ半分は八つ当たり。
正確に言えば、カストラートの1件があった日から3日間、俺は蒼井さんの部屋に入り浸って、狂ったようにあのレコードに聴き入っていたのだ。
さすがの蒼井さんも見るに見かねてこの件はオーディションの後にしよう、と渋る俺からレコードを取り上げてしまった。
「まあ、まかせろ。俺がいるからにはキツネザルなんかにデカい顔はさせないぞ。絶対お前を勝たせてやるからな!」
スポ根のコーチのように、佐伯は嫌がる俺から無理矢理パジャマをはぎ取った。
そうして連れてこられたのは――。
岬と一番最初に出会った書庫だった。
「お前に、シュザンヌ・ヴァラモンのことを教えてやる」
佐伯は長身を生かして、天井まで届きそうな書庫から資料を集め始めた。
「画集?」
俺を机に縛り付け、家庭教師のように椅子の背もたれに手をかけて寄り添う。
てっきり音楽関係の資料を集めてきたのかと思ったら、並べられたのはすべて画集だった。
「これがロートレックの描いたシュザンヌ。こっちがルノワールで、それがドガだ」
俺はそれぞれ違う顔した女の絵を眺める。
自分で言うのはなんだが、美術の才能なんかこれっぽっちも持ち合わせがない。
一度説明されたぐらいじゃ覚えられなかった。
「シュザンヌ・ヴァラモン自身も画家だ。これが自画像――。シュザンヌは身長155cmにも満たない小柄な女性だったが、情熱とエネルギーにあふれ、才能ある画家たちを次々虜にした魔性の女だ。奔放に恋をし、18歳で父親の分からない子供を産む。後のモーリス・ユトリロだ」
佐伯がまた違う画集を開いた。
俺は急いで表紙を確認し、それがユトリロの絵であることをようやく認識する。
「若く美しかったシュザンヌは息子を産んでからもなお女として生きるのをやめなかった。そして自分の芸術の追及も。当時でいや相当なビッチだ。それでも男たちは彼女に惹かれ続けた」
佐伯は口笛を鳴らす。
「大金持ちのポール・ジームスという男と結婚し、ようやく落ち着いたかに見えたが、彼女は家庭に収まるような女じゃなかった。あろうことかシュザンヌは、息子の親友で息子より3つも年下の青年と恋に堕ちて夫を捨てた」
「うそだろ」
「いーや。そんな奔放な母親に振り回され続けたユトリロは可哀相に17の頃からアル中だ。それでも、息子を顧みることなく、彼女は愛と自分の求める芸術のためだけに生きた」
ユトリロの絵はこうしていろんな画集と一緒に並べてみると、華やかさにかけ、本当に地味だった。
俺は佐伯の知識といつになく明朗な語り口に感心しながら、ユトリロの絵を見つめていた。
そのうちシュザンヌ・ヴァラモンに、アル人の面影が重なった――。
「ああ、分かる。俺の母親も愛と自分の求める芸術のために俺を捨てた」
俺から天使の歌声が失われることを一番恐れていたのは他でもない、母親だった。
それで、俺の変声期を待つことなく――あの人は男と逃げて行った。




