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「一体どこ行っちゃったんだかね」


こんな才能、こんな表現力。


この頃の俺ならシュザンヌ役にも一発合格だっただろう。


「客観的に聴いてみてどう?」


「俺の声?」


「才能あるボーイソプラノをだよ。さっきよりも岬くんの声質に近いと思わない?」


「そう言われれば……」


伸びやかでおさえることのできない少年の声は、包みこむようなカウンターテナーの歌声とは異なり、時に矢のように突きささる。


自然の法則に従って生命力にあふれ、与えられた物をただ享受して歌う。


それは一重に、少年期だけに贈られる神からの賜物ギフトに他ならない。


「もしかしたら岬は声変わりしていないってこと?」


「ソプラニスト。たまにそういう神の悪戯が起こるよね」


「ソプラニスト……」


聞いたことがある。


世界でも数人といわれる稀少な男性ソプラノ――特異な体質で変声期がなく、地声からして女性のそれと変わらない歌手がいるって。


「じゃあ次はソプラニストのアヴェ・マリア?」


当然そう来ると思った。


だけど、蒼井さんは静かに首を横に振った。


「違うの?」


エンジェル・ジョージが歌い終わると、蒼井さんは意を決したように言った。



「ソプラニストの歌声は大好きで、昔からよく聴いてたんだ。だから岬くんの声とは違うって、コンクールのその日に思った。1年弱時間が経っても、あの時の自分の耳はたしかだったと僕は信じてる」


「それじゃあ岬は、カウンターテナーでもボーイソプラノでも、ソプラニストでもないってこと?」


蒼井さんの横顔が、心持ち強張って見えた。


「レコード?」


蒼井さんが取り出したのは、今時めったにお目にかかれないレコードプレーヤーと1枚のドーナツ盤だった。


「これを入手するのにちょっとてまどってね――だいぶ昔のものだから」


針を落とす前に、蒼井さんは俺を真っ直ぐに見つめた。


「本当はこれを真っ先に聴かせたかったんだ――準備はいい?」


ドキドキする――。


俺が頷くと蒼井さんは古めかしいレコードにそっと針を落とした。


チリチリと焼けるようなノイズ音が少し耳障りだ。


いくら古いものとはいえ、録音状態が悪すぎる。


だが、第一声を聴いたとたん――。


「なんだ……これ……!」


全感覚が耳に集中した。


得体の知れないものと対峙し身構える獣のように、俺の全身が総毛立った。


狂気的な歌声に混ざりこむノイズが、不安定な気分により一層拍車をかける。


俺は思わず自分の体を両手で抱いていた。


心がかき乱される、この感じ――。



「似てる……岬の声に似てる」


俺は独り言のように呟いた。


彼――そう呼んでいいのだろうか――の独特の歌唱法は神に対する畏怖の念さえ抱かせた。


あり得ない高音が耳の奥深く浸食し――心を揺さぶりかき乱すのだ。


拒否反応と渇望が同時にやってくる――この感じ。


「これは、何?」


蒼井さんは震える俺の側に来て、そっと肩に手を置いた。


彼の手もかすかに震えているのが分かった。


「これが、もうこの世にあってはならない声だよ」


この世にあってはならない声――。


この間も蒼井さんは岬の声を例えてそう言った。


同じ物だと言うのだろうか?


苦しみや悲しみを包括して反射するような歌声に、俺は思わず耳を塞いだ。


岬の歌声を聴いた時と同じ反応をしてしまいそうな自分が怖かった。


俺はただでさえ緩んだ今日の涙腺から、涙がこぼれないように固く目を閉じた。


真っ暗闇の中――まるで命を燃やすように歌いあげる。


だからこんなにも悲しいのか。


俺はこの悲しい歌声が、岬と同質の物だと思いたくなかったのかもしれない。


だがおそらく――岬の歌声にここまで近いものは、これ以外にない気がした。


「結城くん、大丈夫?」


歌が終わっても、俺は放心したように呆然と宙を見つめたままだった。


蒼井さんはそんな俺を心配し、レコードを止めると慌てて部屋の照明をつけ直した。


「蒼井さん、こないだも言ってたよね?もうこの世にあってはならない声って――」


俺は再びレコードに針を落としたい衝動にかられ、激しく頭を振った。


「これは一体何なの?」


「岬くんの声は……これに似ていた?」


「分からない……岬の声はもっと伸びやかだった気もする。でも歌唱法はまったく同じだ。今まで聴いたこともない独特な。――それに」


「それに?」


「溢れる悲しみ……これは何?」


頭がどうにかなってしまいそうだった。


あの夜、岬の歌を聴いた日から。


俺は魅了され、取りつかれたように感情を抑えられなくなっていた。


「これは……20世紀初頭唯一録音が残された、最後のカストラートの声だ」


蒼井さんの言葉に俺は息を飲んだ。


「カストラート……」


「カストラートはかつてヨーロッパで女性が歌うことを禁じられていた時代ソプラノの代わりを務め、16世紀からはオペラでも活躍した去勢歌手のことだ。彼らは非常に広い音域を持ち、その声は聴く者すべてを魅了したと言われている。だがもう、この世にあってはならない者だ――」


「岬が……カストラート?」


白亜の学院で見つけた天使は黒い羽飾りを被り――。


今俺の前にその正体を現そうとしていた。



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