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「――それで殴られたの?」


熱いココアが胃の中におさまると、少し落ち着いた。


「俺が悪いと思う?だって本当のことだよ。あいつの歌はあいつにしか歌えない特別な物なのに……なんでピアノなんか専攻してんだよって思ったら、つい」


「結城くん」


蒼井さんは呆れたような笑みを浮かべ、諭すように俺の名を呼んだ。


「人には誰でも、触れられたくないウィークポイントがあるんだよ」


「ウィークポイント?だって岬のは利点でしかないじゃん!」


それは都合のいい言い訳だった。


俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだ。


あの夜、俺が音楽室で歌を聴いてしまった時も、あいつはものすごく辛そうな顔をして去って行った。


だから――そこに触れてはいけないことぐらい分かっていたはずなのに。


「でも……どうしてか分かんないよ」


歌えない俺からすれば、あの驚異的な歌声は利点でこそあれ、弱点になり得るはずのないものだった。


岬の歌声は人を感動させ、虜にする。


なのになぜあいつはそれを封印しているんだろう。


岬の悲しい顔を思い出す度、殴られた傷よりも胸が痛んで仕方なかった。


「蒼井さん、岬の声を検証しよう」


俺は気を取り直して、蒼井さんを促した。


「大丈夫なの?」


「知りたいんだ。岬の声の正体を――」


知らなきゃ――たとえ傷は癒えても、胸の痛みは治まりそうになかった。


「分かった。じゃ、はじめよう」


言うと蒼井さんは部屋の照明を落とした。


「どうして?」


間接照明だけが灯された部屋に、家具の大きな影が伸びた。


「聴覚だけに集中するためさ。リラックスして」


たしかに暗くなった部屋は、静けさの密度を増したような気がした。


「今から3曲流すから、岬くんの声質と同じ物があったら教えて」


蒼井さんはステレオの横に立って、CDをセットした。


再生ボタンを押し、緊張する俺を見つめる。


「アヴェ・マリア?」


伴奏でバッハのアヴェ・マリアだと分かった。


あの夜、岬が歌っていたのと同じ曲。


俺は耳を澄まして記憶を辿った。


柔らかく聴きやすい歌声。


これは岬の声というより、そう、教会で歌っていた佐伯の声質に近い――。


「どう?岬くんの歌声に似てる?」


「全然違う」


これは間違いなくカウンターテナーの歌声。


高音はどこまでもソフトに膨らみ、裏声で歌う苦しさなど微塵も感じさせない。


訓練され、洗練され、コントロールされた妙技――。


「こんな落ち着いたもんじゃなかった」


あの日俺が聴いた岬の歌声は、カウンターテナーのそれとはむしろ真逆のように思えた。


俺は首を横に振った。


あの夜の岬の声――。


花が咲くような柔らかさとはかけ離れた、割れて突き刺さる高音は、似ているようでいて対極だ――。


「これはカウンターテナーでしょ?」


俺がそう言うと、蒼井さんは満足そうに頷いた。


「そう、合唱コンクールの日まで、岬くんの歌声はまさにこれだった」


「佐伯がマネしたって言ってたのもこれだ」


「悠人は役者だからね。コピーするのが本当に上手いんだ」


蒼井さんは笑ってCDを取り替える。


「じゃあ次も聴いてみて」


もう一度、アヴェ・マリアの伴奏が始まる。


「また?」


「いいから聴いて」


人差し指を口元にあて俺を黙らせると、蒼井さんは目を閉じた。


流れてきたのはカウンターテナーより不安定な、だがより透明感のある歌声だった。


しばらく耳を澄まして聴いていると、その声に聴き覚えがあることに気がつく。


「ちょっと、これ……」


蒼井さんがニヤリとした。


聴き覚えがあって当然。


それは俺自身の歌声だった。


かつてエンジェル・ジョージと呼ばれていた頃、人気にあやかって出した今や絶版のCDアルバム。


「なんでこんなの持ってんですか?」


「言ったろ?僕は君のファンだったって。子供ながらに恐ろしい表現力だね」


将来のマエストロはタクトを振るように体を揺らした。




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