⑤
「――それで殴られたの?」
熱いココアが胃の中におさまると、少し落ち着いた。
「俺が悪いと思う?だって本当のことだよ。あいつの歌はあいつにしか歌えない特別な物なのに……なんでピアノなんか専攻してんだよって思ったら、つい」
「結城くん」
蒼井さんは呆れたような笑みを浮かべ、諭すように俺の名を呼んだ。
「人には誰でも、触れられたくないウィークポイントがあるんだよ」
「ウィークポイント?だって岬のは利点でしかないじゃん!」
それは都合のいい言い訳だった。
俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだ。
あの夜、俺が音楽室で歌を聴いてしまった時も、あいつはものすごく辛そうな顔をして去って行った。
だから――そこに触れてはいけないことぐらい分かっていたはずなのに。
「でも……どうしてか分かんないよ」
歌えない俺からすれば、あの驚異的な歌声は利点でこそあれ、弱点になり得るはずのないものだった。
岬の歌声は人を感動させ、虜にする。
なのになぜあいつはそれを封印しているんだろう。
岬の悲しい顔を思い出す度、殴られた傷よりも胸が痛んで仕方なかった。
「蒼井さん、岬の声を検証しよう」
俺は気を取り直して、蒼井さんを促した。
「大丈夫なの?」
「知りたいんだ。岬の声の正体を――」
知らなきゃ――たとえ傷は癒えても、胸の痛みは治まりそうになかった。
「分かった。じゃ、はじめよう」
言うと蒼井さんは部屋の照明を落とした。
「どうして?」
間接照明だけが灯された部屋に、家具の大きな影が伸びた。
「聴覚だけに集中するためさ。リラックスして」
たしかに暗くなった部屋は、静けさの密度を増したような気がした。
「今から3曲流すから、岬くんの声質と同じ物があったら教えて」
蒼井さんはステレオの横に立って、CDをセットした。
再生ボタンを押し、緊張する俺を見つめる。
「アヴェ・マリア?」
伴奏でバッハのアヴェ・マリアだと分かった。
あの夜、岬が歌っていたのと同じ曲。
俺は耳を澄まして記憶を辿った。
柔らかく聴きやすい歌声。
これは岬の声というより、そう、教会で歌っていた佐伯の声質に近い――。
「どう?岬くんの歌声に似てる?」
「全然違う」
これは間違いなくカウンターテナーの歌声。
高音はどこまでもソフトに膨らみ、裏声で歌う苦しさなど微塵も感じさせない。
訓練され、洗練され、コントロールされた妙技――。
「こんな落ち着いたもんじゃなかった」
あの日俺が聴いた岬の歌声は、カウンターテナーのそれとはむしろ真逆のように思えた。
俺は首を横に振った。
あの夜の岬の声――。
花が咲くような柔らかさとはかけ離れた、割れて突き刺さる高音は、似ているようでいて対極だ――。
「これはカウンターテナーでしょ?」
俺がそう言うと、蒼井さんは満足そうに頷いた。
「そう、合唱コンクールの日まで、岬くんの歌声はまさにこれだった」
「佐伯がマネしたって言ってたのもこれだ」
「悠人は役者だからね。コピーするのが本当に上手いんだ」
蒼井さんは笑ってCDを取り替える。
「じゃあ次も聴いてみて」
もう一度、アヴェ・マリアの伴奏が始まる。
「また?」
「いいから聴いて」
人差し指を口元にあて俺を黙らせると、蒼井さんは目を閉じた。
流れてきたのはカウンターテナーより不安定な、だがより透明感のある歌声だった。
しばらく耳を澄まして聴いていると、その声に聴き覚えがあることに気がつく。
「ちょっと、これ……」
蒼井さんがニヤリとした。
聴き覚えがあって当然。
それは俺自身の歌声だった。
かつてエンジェル・ジョージと呼ばれていた頃、人気にあやかって出した今や絶版のCDアルバム。
「なんでこんなの持ってんですか?」
「言ったろ?僕は君のファンだったって。子供ながらに恐ろしい表現力だね」
将来のマエストロはタクトを振るように体を揺らした。




