④
「何が?」
羽のように軽い前髪がかすかにクマを作った色っぽい目元に落ちる。
岬の声は――乱暴な物言いですら甘く耳に心地よかった。
「だってこれが課題曲だったんだろ?あの日弾いてた――あれから俺がずっとこいつを持ってたから、それで室井に――」
室井なんかに主席の座を奪われてしまったのだ――。
相手があいつなだけに、俺は悔しくていてもたってもいられなかった。
「用がすんだら、楽譜を置いて出て行ってくれ」
岬はベッドサイドに置いてある葡萄の房に手を伸ばし、悪戯に弄んでいる。
そんなはずないのに――。
言葉とは裏腹に、岬の動作のひとつひとつが熱に浮かされ俺を誘っているように見えてしまう。
「でもそれじゃ……俺の気がすまないっていうか……」
正直今の俺は自分のエゴだけで、部屋から出て行くのを拒んでいた。
岬は俺の言葉なんか聞いちゃいない。
突然部屋に押し掛けてきて、帰ろうともしない無神経な男に迷惑しているだけなのに――。
そんなの分かってる――だけど。
「どういうつもりだ?」
俺はむしろ吸い寄せられるように一歩また一歩と岬に近づいていた。
ベッドサイドにぶつかるところまで来て、ようやく我に返る。
気がつけば俺は、羽毛に埋もれるフランス人形のような岬の顔をごく間近に見下ろしていた。
「罪の意識でここにいるなら教えてやる」
岬は小馬鹿にしたように軽く顎を上げ、口元だけで俺を嘲笑った。
「僕は昨日ピアノなんか弾いてない」
「え……?」
「主席争いの試験は2度あるんだ。2度も受ける必要がないから、1次試験を放棄した。それは僕の意志で、君には一切関係ないことだ」
「それは……1度で必ず勝てる自信があるってこと?」
余計なお世話だ。聞こえたろ?
『君には一切関係ない』って言ったんだ。
この可愛い口が――。
「分からないヤツだな」
岬は俺の唇すれすれのところまで近づき、挑発するように囁いた。
「僕に構わないでくれって言わなかった?ストーカーみたいに夜中に現れたと思ったら、今度は泥棒猫みたいに部屋にまで忍び込んでくる。あんたって――」
甘い声音が、これ以上ないほどに俺を蔑み笑う。
「あんたってどうかしてるよ――。僕はあんたみたいに、人の領域に土足で踏みこんでくるヤツが一番嫌いなんだよ」
細い指先が矢のように、俺の胸元に突きつけられる。
嫌われてる。
そんなこととうに分かってるよ。
だけど――。
「――構うなって顔かよ?」
「何?」
俺は立ち去るどころか、岬にかみついていた。
「いつもいつも、これ以上ないほど悲しい顔して俺の前に現れんのはどっちだよ?」
理不尽だ。
俺の言ってることは間違ってる――。
「なんだと……?」
岬はこれ以上ないほど慇懃無礼な侵入者に驚いて目を見開いた。
「お前、本当はピアノ専攻の主席なんかどうでもいいんだろ?俺はあの日お前の歌を聴いたんだ。正直ピアノなんか弾いてたこと、今日の今日まですっかり忘れてたぐらいすごかった……。あんなに歌えるのになんで歌わないんだ?なんでピアノなんかやってんだよ!」
こんなこと言ってはいけないって――。
頭では十分すぎるほど分かっていた。
でもやめられなかった。
俺は歌いたくても思うように歌えない自分にイラついていたのかもしれない。
そこに天から与えられた宝の持ち腐れ。
俺はこいつの才能に嫉妬していたか、あるいは正気を失うほどに魅了されていた――。
「出てけ」
岬はスクッと立ち上がると、ベッドを出て俺の横をすり抜けた。
珊瑚のように赤い唇を噛みしめ、深く息を吐く。
「ごめん……ついっ……」
泣きだすのかと思った――矢先だった。
「出てけ!」
シルクのガウンをまとった天使が――。
振り向きざま思いきり俺を殴った。




