カストラート
週明けの校内には、すでに俺と室井の対決の噂が大々的に広まっていた。
ご丁寧にもエンジェル・ジョージの復活に大金を賭けたという輩から、道を歩く度エールが贈られた。
だが、それどころではなかった。
「中田、岩下!助けてくれ!!」
俺は変人に追われていた。
「だからやめた方がいいって言ったじゃない」
教室に転がり込んできた俺を、2人は呆れ顔で眺めているだけだった。
「佐伯がっ…!佐伯が!」
目の色を変えた、変人の生まれ変わりの変人が、俺を狙って教室に飛び込んでくる。
「シュザンヌ!なぜ逃げるんだ!」
今朝、朝食の席で俺がシュザンヌ役のオーディションを受けると告白したとたん、佐伯の様子がおかしくなった。
「佐伯くんは天才だから、役に入り込みすぎると時々ああなっちゃうんだ」
岩下が無邪気に笑う。
「君のこと、本気で恋人のシュザンヌ・ヴァラドンだと思ってる」
「てめぇ、そういうことは先に教えとけよ!」
もし昨日、部屋で2人きりの時に佐伯に話していたら――考えただけでもぞっとする。
「シュザンヌ!見つけたぞ。愛しい君と片時も離れていられるものか!」
後ろからでかい影が俺に覆いかぶさる。
「佐伯っ!やめろっー!」
羽交い絞めにするように、佐伯は馬鹿力で俺を抱きすくめた。
「おまえっ……マジで殺すからな!!」
情けなくも力ではかなわず、俺はみんなの見てる前で教室の床に押し倒されてしまう。
「そんなに恥ずかしがるな、シュザンヌ。さあ愛し合おう?」
「やめろっつってんだろ!この変態!!」
俺のリボンタイに手をかける変質者の急所を、俺は女みたいに蹴り上げた。
「愛してるんだ!シュザーンヌ!なぜ逃げる?」
「逃げるわ!アホ!!」
こいつ――もはや痛みも感じないのか。
「つかまえたぞー」
それどころか床を這って逃げ回る俺の足首をつかんで、必死の形相で引き戻す。
「いやぁぁぁぁぁ!」
俺は学校中に響き渡るような悲鳴を上げていた。
次の瞬間。
「シュザ……」
獣のように俺に覆いかぶさっていた佐伯が。
「ンヌ……」
突然ピクリとも動かなくなった。
「……寝た、のか?」
どうやら興奮しすぎて例のカタプレキシーショックに陥ったらしい。
「おお、股間が痛い。その上猛烈に眠い……」
その隙に俺は中田と岩下に助け起こされた。
「2度と起きあがんな!」
一発蹴り飛ばしてやると、変人は教室の隅まで転がって、虫のように丸くなった。
「ねえ、それより結城くん聞いた?」
ようやく席に着いた汗だくの俺に、中田が声をひそめて話しかけてきた。
「何?」
「室井くんのこと。ほら、おととい彼が去り際に明日はピアノの試験だって言ってたじゃない?日曜日に試験っておかしいと思ったんだ」
「ああ、そういや……」
「この学院で日曜日に行われる試験はたったひとつ。主席の生徒に挑戦するための試験だよ」
岩下が訳知り顔で話に割り込んできた。
「主席の生徒に?」
ピアノ専攻の現主席といったら――岬じゃないか。
俺の心臓がドクリと跳ね上がった。
「競争相手のいる方が全体のレベルが上がるっていうのがうちの校長の方針でね。一定の条件さえ満たせば現主席の生徒にチャレンジできるんだ。審査員の先生が現主席の演奏と挑戦者の演奏を聴き比べて、よりふさわしい方を選ぶってわけ」
おしゃべりな岩下が矢継ぎ早に喋り続ける。
「ボクシングで言ったらさ、チャンピオンベルトをかけた闘いだよね。そりゃ主席の生徒だって必死で死守するから、滅多なことじゃクリアできないんだけど。でも室井くんてああ見えて優秀だからさ――」
その続きはなんとなく聞きたくなかったが、中田が岩下のあとを継ぐ。
「どうやら勝ったらしいんだ。信じられないよ、相手はあのミサキ姫だぜ?」
岬が室井に負けた――もしかしたら。
「課題曲は……何だった?」
もしかしたら俺のせいかもしれない――。
「結城くん?」
俺には思い当たる節があった。
「課題曲だよ……!」
かすかに声が震えた。
「ショパンの――幻想即興曲じゃない?」
俺のカバンの中に、しまわれたままの楽譜――。
「そうだけど。ちょっと、結城くんっ!」
それだけ聞くと、俺はわき目もふらず教室を飛び出していた――。




