③
「まさかそんなことになってるなんて想像すらしなかったし、すごく自然にアレンジしてあったから、僕もはじめは岬くんが調子悪いのかなぐらいにしか思わなかった。そのまま曲はすすんでゆき、本来彼が2度目のソロパートを歌うはずだった箇所にさしかかった時だ」
蒼井さんが目を閉じた。
深く物思いにふけった顔でしばらく沈黙する。
「岬恵介は突然、尋常じゃない声を上げた――まるで肉食獣の産声みたいな鋭い叫び声。人間の喉を通して出てくる限り、あんな音は出ないと思った。彼に恥をかかせてやろうと意気込んでいた連中の歌声が一瞬にしてかき消された。そしてピアノがやんだ――」
ガラスの破片が、突き刺さるような歌声――。
「彼は大きな目に強い光を宿して観客席を見渡した。まるで自分に向けられた理不尽な敵意へ復讐するように、天を仰いで胸を張り、そして歌い始めたんだ」
俺は身震いする。
あの声を知っているから――。
「アカペラの彼の声だけが会場内に響き渡った。僕は座っていられなくなって席を立った。食い入るように彼を見つめ、本当にその声が彼のものなのか確かめたよ。会場にいたみんなが金縛りにでもあったように凍りついていた。彼が容赦なく歌声を響かせると、どこからともなく泣き声が聞こえてきた――」
俺も泣いた――あんなの初めてだった。
「来賓のご婦人方が至る所で悲鳴を上げ始めたが、彼の声はどんな女性の悲鳴よりも高かった。カウンターテナーの歌声だって?あれは違う。絶対にそんなものじゃなかった」
蒼井さんは長い指を組み合わせたまま、顔をおおった。
そして、言った。
「ねえ結城くん、君も僕と同じものを聴いたのなら分かるだろう?僕は、あの声はもうこの世にあってはならないものだと――そう思ったよ」
「――この世にあってはならない……声?」
聴く者の正気を失わせ、虜にする岬の歌声。
俺は幻覚を見る。
岬の薔薇のような唇が大きく裂け、そこに広がる天界に、人々は丸飲みにされる。
「少なくとも、カウンターテナーなんて大嘘だ。あれは普通の男性の声とはまったく異なるものだった」
普通の男と違う――どこかで聞いた言葉だった。
「――それで室井は岬を?」
俺はピンときた。
そうだ。俺が初めて岬に出会ったあの日、室井も俺に向かってそう言ったんだ。
蒼井さんが深く頷いた。
「岬くんの歌の後、会場は失神者が続出する大騒動となった。救急車が呼ばれ、合唱コンクールはその時点で中止された。医師の見解はね、集団ヒステリーで彼の歌とは無関係だってことだったけど、僕は納得できなかった」
蒼井さんは自嘲気に笑った。
「それで、後日個人的に彼に取材を申し込んだんだ。事を大きくするつもりはなかったから、内々に行うつもりだったんだけど――室井くんに知られてしまった」
「それで新聞部で取材を?」
「ああ。でも断られたよ。それどころか僕は校長直々に呼び出されて、お父様のご意向で岬くんはピアノ専攻に移籍することになったから、合唱コンクールの日の話は今後一切公言しないようにって。取材なんてもってのほかだと釘を刺される始末だった」
理事長である父親の権力で、うやむやにされてしまったのか。
「でもずっと胸に引っかかってる――」
蒼井さんは声をひそめ、俺に向かって告白する。
「あの歌声がなんだったのか。僕は別に、岬くんの秘密を暴きたてようなんてこれっぽっちも思っていないよ。室井くんやほかの部員が暴挙に出ないように常に目を光らせていたつもりだしね。あくまで、個人的に知りたいだけなんだ――」
彼もまた、岬の歌声に魅了されてしまった1人なのかもしれない。
もしそうなら蒼井さんが熱心に俺の後を追ってきた理由も分かる気がした。
「だから教えてくれないか?君が聴いた岬恵介の歌声がどんなものだったか――」
蒼井さんの言う、もうこの世にあってはならない声――。
それがなんなのか俺も知りたい。
でも――。
「蒼井さん、約束して。あいつのこと絶対新聞記事になんかしないって。分かんないけど、なんかそんなこと絶対しちゃいけない気がするんだ」
岬が俺に向かって楽譜を投げつけた時の、あの悲しい目――。
今思い出しても胸が痛んだ。
俺が歌を聴いてしまったことで、あいつを深く傷つけた気がしていた。
「約束するよ。僕は決して彼を傷つけたりしない」
俺の心をどこまでも見透かすように、蒼井さんは優しくそう言った。
俺が数日前の出来事を一部始終話終えるまで、蒼井さんは一言も発さず辛抱強く聞いてくれた。
俺の話は――蒼井さんが言うところの稚拙な表現どころか――自分でもイライラするほど的を得ないものだった。
あの夜見た光景は今でも目に焼きついているし、あの時聴いた歌声は決して数日経ったぐらいで忘れてしまえるものではない。
だけど言葉にしようとすると、スルスルと逃げて行ってしまう。
本当に雲をつかむような話だった。
「アヴェ・マリアか……」
冷めてしまったコーヒーを下げながら、蒼井さんは夢想するように呟いた。
「シューベルト?」
「ううん、バッハの平均律の」
「いいね。ちょうどいい」
俺が答えると、蒼井さんは子供みたいに浮足立ってデスクの前まで駆けて行った。




