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蛍光灯の下の倫理  作者: たむ


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第六章 昼休みの社会

正午の少し前から、フロアには目に見えないほど薄い緩みが生まれ始める。


誰かが時計を見たわけでも、休憩の合図が鳴ったわけでもないのに、人の集中には食事の時刻を予感する習性があるのだろう。キーボードを打つ手が一瞬だけ止まり、メールの返信が次の十分へ持ち越され、会議室の予約表の隙間が意識される。仕事は続いている。だが、その続き方の底に、もうすぐ中断が挟まることを知っている身体の気配が混じる。健太は画面の右下に表示された時刻を見て、そろそろ食堂が混み始める頃だと思った。


「佐伯さん、行きますか」


村田がそう声をかけてきた。午前から午後にかけて何度か言葉を交わしてきたせいか、朝よりも少しだけ距離の縮まった声だった。健太は保存中のファイルを閉じ、「うん」と答えて立ち上がった。社員食堂へ向かう人の流れは、通勤電車ほど明確な圧力を持たない。それでも、同じ時間に同じ方向へ歩いていく人々の群れには、小さな社会の縮図のようなものがある。部署の近い者同士、年齢の近い者同士、役職の近い者同士が、目に見えない引力で自然に集まる。人は自由に昼を過ごしているようでいて、案外きれいに組織の輪郭の中へ収まっている。


食堂は地下にあった。階段を下りると、湯気と調味料と洗剤の匂いが混じった独特の空気が鼻に触れる。大鍋で煮られた汁物の匂い、揚げ物の油、白飯の熱、それに食器が触れ合う乾いた音。働く場所としてのオフィスが光と紙と画面でできているとすれば、社員食堂は匂いと音と身体でできている。健太はこの場所が嫌いではなかった。好きだとまでは言えないが、少なくともフロアよりは人間の体温に近いと思うことがある。仕事の話をしていても、食べ物を前にすると言葉の硬さが少し崩れるからだ。


列に並び、定食のトレイを受け取る。今日のメニューは鯖の味噌煮、から揚げ、カレー、日替わりの丼、それにいくつかの小鉢だった。健太は鯖の味噌煮を選び、村田はカレーにした。料理の選び方にも、その人のその日の疲労や考え方が少しだけ出る。重いものを食べる人、無難なものを選ぶ人、何も考えず日替わりにする人。昼食の選択には自由があるようでいて、その自由もまた午後の仕事に回収される。食べたあとに眠くならないか、急いで食べられるか、午後の会議に匂いが残らないか。そうした小さな計算が、人の食欲の奥にいつもある。


窓際の席が空いていたので、二人はそこに座った。地下の食堂にある窓は、中庭へ向いた小さなものだった。空はほとんど見えず、代わりにコンクリートの壁と、申し訳程度に植えられた低木が見える。外と繋がっていることだけを証明するための窓だ、と健太は思った。本当に風景を見るためのものではない。それでも人は、窓があるだけで少し安心する。完全に閉じた場所で食事をするより、向こう側に空気が続いていると分かる方が、身体が緩むのかもしれなかった。


周囲の席では、すでにいくつもの会話が始まっていた。

営業部らしい男たちが数字の話をし、総務の女性たちが社内制度の変更について話し、少し離れた席では若い社員たちが週末の予定を笑いながら共有している。社員食堂には、会社の中で許可されている私語の上限のようなものがある。オフィスでは仕事の延長としてしか発せられない言葉が、ここでは半分ほど生活へ戻る。その半分の戻り方が、健太には興味深かった。誰も完全に会社の外の顔にはならない。かといって、完全に仕事のままでもない。昼休みの会話は、その中間に浮かぶ薄い膜の上で行われる。


村田はカレーを一口食べてから、少し迷うようにして言った。


「会議って、慣れるもんですかね」


その問いが、午前中の続きであることはすぐに分かった。

健太は味噌の甘い鯖をほぐしながら、少し考える。


「慣れるっていうか、分かってくる感じかな」


「何がですか」


「この会議は何を決める場なのか、逆に何も決めない場なのか、とか」


村田は目を上げた。


「何も決めない場、あるんですか」


「あるよ。けっこうある」


そう言うと、村田は苦笑した。だが、その苦笑いには冗談を面白がる感じより、現実を初めて具体的な形で受け取った戸惑いがあった。


「でも、それって何のためにやるんですか」


健太は少しだけ周囲を見た。近くの席では、別部署の中堅社員らしき二人が声を潜めて上司の話をしている。奥の方では、誰かが「結局あれ、うち持ちですよね」と言って笑っていた。社員食堂では、会社への文句ですら、どこか儀式めいた軽さを帯びることがある。怒っているのに、本気で怒りきることはしない。その加減が、ここでは一つの作法になっている。


「確認のためじゃないかな」


健太は答えた。


「何を決めるかっていうより、誰がどう考えてるかを確認するための会議。意見が違っても、とりあえず同じ机に乗せるっていうか」


村田はしばらく黙っていた。

カレーのスプーンを持つ手が止まり、考えながら食べているのが分かる。

若い人間は、たいてい最初、会議にもっと明快な機能があると思っている。議論して、結論を出す場所。だが組織の中の会議は、しばしば結論より先に関係の整理をしている。誰が賛成で、誰が慎重で、誰が責任を持ちたくなくて、誰が話を早く畳みたがっているか。その配置を可視化する。それだけでも会議は成立する。成立してしまう。


「なんか、面倒ですね」


村田が言った。


「面倒だよ」


健太はあっさり答えた。

その率直さが可笑しかったのか、村田は少し笑った。

こういう場所では、きれいごとより、少しだけ正直な言葉の方が人を安心させることがある。


「でも、面倒なことをやらないと進まないんだろうなっていうのも、ちょっと分かる」


「うん」


「みんな勝手なこと考えてますもんね」


その言い方に、健太は少し驚いた。

新人の目にも、もうそこは見えているのかと思ったのだ。

組織は一枚岩のように見えて、実際にはさまざまな事情と温度を抱えた人間の集合にすぎない。

昼休みの食堂ほど、その事実がよく見える場所もなかった。


少し離れた席から、大きめの笑い声が聞こえた。

経理の誰かが、部長の口癖を真似しているらしい。周囲がそれに小さく受けている。オフィスの中では名前に役職がついている人間も、食堂では話の種になる。むしろ役職があるからこそ、ここで半ば匿名の冗談として消費されるのかもしれない。健太は社員食堂を、小さな裏通りのように感じることがある。表通りではきちんとした顔をしている人間たちが、ここでは少しだけ本音をこぼす。愚痴、皮肉、噂話、疲労の申告。どれも本気で爆発するほどではないが、抑え続けていたらどこかに沈殿してしまうものばかりだった。


「佐伯さんって、昼、みんなと話すの嫌じゃないですか」


村田が急にそんなことを言った。


「嫌っていうか、日によるかな」


「僕、ちょっと疲れるんですよね。休憩なのに、休んでる感じしないときがあって」


健太は頷いた。

その感覚はよく分かる。

昼休みは自由時間であるはずなのに、実際にはそこにも軽い社交が求められる。

一人で食べるより、誰かと食べた方が感じがいいと思われることもある。

逆に、いつも誰かといるのもまた疲れる。

会社の人間関係は、業務時間だけでは完結しない。

食堂での席、帰り道のエレベーター、喫煙所、給湯スペース。

そうした半端な場所での会話が、職場の空気を案外大きく決めている。


「休憩って、身体より頭の休憩の方が難しいんだよね」


健太がそう言うと、村田は「分かります」とすぐに返した。


「食べてても、午後のこと考えちゃうし」


「考えるね」


「あと、午前中に言われたこととか」


「それも」


二人は少し笑った。

仕事の話をしながら仕事から離れようとする、その矛盾が妙に可笑しかった。

だが実際、会社員の昼休みはそういうものなのだろう。

完全には切れない。

切れないまま、一時間だけ呼吸の浅さを変える。


隣の席に、営業の中堅社員二人が座った。

片方がトレイを置くなり、「あれ結局、うちで拾うことになるんだろ」と言い、もう片方が苦笑する。話題はたぶん案件の押し付け合いだ。こういう会話は食堂のいたるところで繰り返されている。部署の境界、責任の所在、誰がどこまで面倒を見るか。会社とは、業務そのものより、そうした境界線の調整に多くの時間を費やす場所なのかもしれなかった。そして昼休みの会話は、その調整の裏面を露出させる。オフィスでは「連携」や「最適化」といった語で言い換えられるものが、ここではもっと単純な文句として現れる。


「やっぱり、みんな不満あるんですね」


村田が小声で言う。


「あるよ」


「でも、辞めないんですね」


その問いは、第五章で交わした話の続きでもあるように聞こえた。

健太は味噌汁をひと口飲み、少しぬるくなった温度を舌で確かめる。


「不満があるのと、辞めるのは別だからね」


「そうなんですか」


「たぶん、不満がない仕事の方が少ないんじゃないかな」


村田は納得しきれない顔をしていた。

若い頃は、不満の存在がそのまま間違いの証明に見えることがある。

この場所は違うんじゃないか、もっと自分に合う働き方があるんじゃないか、と思うのは自然なことだ。

実際、その直感が正しい場合もある。

だが同時に、不満というものは場所を変えれば消えるほど単純でもない。

仕事をする限り、理想と現実のずれは形を変えてついてくる。

健太はそれを知っているが、それを「知っている」という形のまま若い人間へ渡すことの難しさも知っていた。


「仕事って、たぶん“納得できないことがある状態”のまま続けるものなんだと思う」


口に出してから、その言い方は少し冷たかったかもしれないと健太は思った。

しかし村田は意外にも、真面目にその言葉を受け止めていた。


「全部納得しなくていいってことですか」


「たぶんね。全部に納得してたら、逆に危ない気もするし」


「危ない」


「うん。自分のやってることとか、会社のやり方とかに、疑問が一個もなくなる方が、ちょっと怖い」


村田はゆっくり頷いた。

その頷き方には、安心と不安の両方が含まれていた。

疑問を持っていていい。

だが、その疑問は消えないかもしれない。

そういう現実の受け取り方だった。


食堂の奥では、食器を下げる音が増えてきた。

早く食べ終えた人たちが、もうフロアへ戻り始めている。

昼休みは短い。

短いからこそ、そこに現れる会話は濃い。

本音というほど深くはないが、業務時間の表面を少しだけ剥がした程度の温度。

その温度の中で、人は自分の職場を測っている。

どこまで愚痴を言っていいか。

誰の前なら少し本音を出せるか。

どの言葉が翌日まで尾を引くか。

食堂は、ただ食べる場所ではなく、会社の空気を学習する場所でもあるのだった。


「佐伯さんは、何が一番嫌ですか」


村田の問いは、昼休みの終わり際らしく少し率直だった。


「何がって」


「仕事でです。会議とか、残業とか、人間関係とか、いろいろあるじゃないですか」


健太は少し考えた。

嫌なものはいくつも浮かぶ。

意味のない確認作業。

責任の曖昧な仕事。

誰も決めないまま全員が様子を見る時間。

けれど、そのどれもが会社には当たり前に存在していて、いまさら一つだけを特別な悪として切り出すのも違う気がした。


「自分が何をやってるのか、分からなくなる時間かな」


と言うと、村田は意外そうな顔をした。


「忙しいとかじゃなくて?」


「忙しいのも嫌だけど、忙しいだけならまだいいんだよ。何のためにやってるのか分からないまま、ただ処理だけ増えていく感じが、一番きついかも」


村田は少し黙った。

それから、小さく「それは、嫌ですね」と言った。


その一言が妙に静かに胸へ落ちた。

嫌ですね。

それは単なる同意以上に、若い人間がまだその状態を完全には知らないことの証明にも聞こえた。

知らないから、想像して嫌だと思える。

慣れてしまう前の健全な反応だと、健太は思った。


昼休みの終わりを告げる明確なベルはない。

それでも皆、時計を見て同じようなタイミングで立ち上がる。

トレイを返却口へ運び、コップを重ね、手を軽く拭き、またフロアへ戻る。

その一連の動きは、通勤とも会議とも違う、会社員の別の儀式だった。

食べることで一度個人へ戻り、戻りきらないまま再び組織へ入っていく。


返却口へ向かう列に並びながら、健太は周囲の顔を見た。

笑っている者もいれば、無表情の者もいる。

午後の予定を気にしている者、スマートフォンを見ながら片手でトレイを持つ者、誰かとの会話の続きを惜しむように歩く者。

そのどれもが、仕事の一部ではないはずなのに、仕事の延長でもある。

会社とは、業務そのものだけではなく、こうした中間の時間によって支えられているのだろう。


フロアへ戻るエレベーターの中で、誰もあまり喋らなかった。

食べ終えた直後の満腹と、午後へ戻る前の短い停止。

その沈黙は、会議室の沈黙とも通勤電車の沈黙とも違う。

もう一度仕事の顔を取り戻すための、わずかな準備のような沈黙だった。


エレベーターの扉が開き、冷えたオフィスの空気がまた頬に触れる。

蛍光灯の白さが戻ってくる。

食堂の匂いも、人の体温も、少しずつそこから剥がれていく。

だが完全には消えない。

昼休みの会話は、午後のフロアのどこかに薄く残り続ける。

文句も、笑いも、誰かの素直な不安も。


昼休みの社会とは、

会社の裏側というより、

会社が本当は何でできているかを短時間だけ露出させる場所なのかもしれなかった。

役職でも理念でもなく、

疲れた身体、食欲、愚痴、遠慮、少しの冗談。

そういうものの上に、午後の仕事もまた積み上がっていく。

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