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蛍光灯の下の倫理  作者: たむ


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7/10

第七章 理不尽の形

昼休みが終わると、オフィスの空気はもう一度だけ自分を引き締める。


午後の始まりには、朝のような新しさはない。あるのは、すでに一日を半分ほど使ってしまった身体と、まだ終わっていない仕事の束だけだ。食堂で緩んだ思考は、席に戻ると再び画面の光に回収される。健太は椅子に座り、開きっぱなしだった表計算ファイルを見直した。数字は変わっていない。変わっていないのに、昼前に見たときとは少し違う重さを持っているように思える。人は同じものを、時刻によって別のものとして受け取る。


フロアのどこかで電話が鳴った。誰かがすぐに取り、少し高めの声で応対を始める。昼休みのあとしばらくは、オフィス全体がまだ完全に速度を取り戻していない。キーボードの音も、歩く足音も、どこか慎重だ。だが、その慎重さは長く続かない。十五分もすれば、午前から持ち越された確認事項や、午後になって新しく発生した依頼が、人の思考を再び平常の雑然とした流れへ引き戻していく。


健太がメールを数本処理していると、部長の席の方で少しだけ声が大きくなった。

怒鳴るほどではない。

しかし、普段より一段硬い声の調子が、フロアの空気を薄く振るわせた。


顔を上げると、営業部から来たらしい男が立っていた。年齢は四十代前半くらい、紺のスーツに、少し急いで歩いてきたような熱をまだ身体に残している。部長は椅子に座ったまま、机上の資料を指先で押さえ、短く何かを返していた。距離があるので内容までは聞き取れない。だが、こういう場面では言葉そのものより、声と姿勢の方が多くを語る。立ったままの相手と座ったままの部長。その位置関係だけで、すでに話の重心はどこにあるか見えてしまう。


村田も気づいたらしく、画面から目だけを上げていた。

健太はすぐ視線を戻した。

こういう場面では、見ないこともまた職場の礼儀の一つだ。

明らかに空気が揺れていても、関係のない人間はそれに気づかないふりをする。

助けになれない場所で注目することは、たいてい善意より野次馬に近づく。


しばらくして営業部の男が去り、部長は深くはない息を一つついてから席を立った。

そしてフロアの奥にある小さな打ち合わせスペースへ向かいながら、健太に声をかけた。


「佐伯、ちょっといいか」


「はい」


健太はノートとペンを持って立ち上がった。

こういう呼ばれ方には種類がある。

確認だけで済む軽いもの。

説明を求められるもの。

そして、すでに決まった何かを引き受けるためのもの。

今回がどれかは、歩いている部長の背中からだいたい分かった。


打ち合わせスペースには簡単な丸テーブルと椅子が二脚あるだけだった。

会議室ほど閉じておらず、フロアほど開いてもいない。

大事すぎる話はしないが、気軽な雑談でもない。

会社には、そういう中途半端な場所がいくつもある。

おそらく重要なのは、その中途半端さなのだ。

完全に密室にすると話が重くなりすぎるし、開けすぎると誰も本音を出さない。


部長は座るなり、先ほど営業部から来ていた件を簡潔に話した。

先方の案件で、想定していた資料作成の範囲が急に広がったらしい。

しかも締切は明日の午前中。

当初営業側で詰めるはずだった情報整理が十分に終わっておらず、その不足分を企画側で補えないか、という話だった。


「補えないか、って」


健太は思わず繰り返した。


「実質、こっちでやれってことですよね」


部長はその言い方を否定も肯定もしなかった。


「向こうも向こうで詰まってるのは分かる。ただ、明日の打ち合わせには出さないとまずいらしい」


健太は黙った。

理屈は分かる。

だが分かることと、納得できることは違う。

もともとの役割分担が曖昧なまま進み、締切の直前になって足りない部分だけがこちらへ流れてくる。

会社では珍しくもない。

珍しくないからこそ、理不尽は理不尽として大きな事件にならず、そのまま日常の形へ吸収される。


「どこまで必要なんですか」


「市場整理と想定ターゲットの再定義。あと、先方への説明資料として一枚、背景整理を足したい」


健太は頭の中で必要な作業量をざっと計算した。

できない量ではない。

だが、今抱えている仕事に自然に上乗せできる量でもなかった。

しかも明日の午前中となれば、今日の夕方から夜にかけて片をつけるしかない。


「村田にも手伝ってもらう形でいい」


部長が言った。


「もともと関連データ見てたし、本人にも勉強になる」


その「勉強になる」という言い方に、健太はわずかに引っかかる。

会社では、負荷が若い社員へ回るとき、しばしばそれは成長の機会として言い換えられる。

もちろん嘘ではない。

実際、修羅場で学ぶことは多い。

だが、学びであることと、単にしわ寄せを引き受けることは両立してしまう。

その二つを区別しないまま話が進むとき、人は少しずつ理不尽に慣れていく。


「分かりました」


と健太は言った。

他に言いようがなかった。


席へ戻る途中、彼は自分の足音が少しだけ硬くなっているのを感じた。

怒っているのか、呆れているのか、自分でもよく分からない。

ただ、こういう話を受けたあとの身体には、いつも薄い乾きのようなものが残る。

何かを飲み込んだのに、まだ喉の奥に引っかかっている感覚だ。


村田がこちらを見た。

健太は席に座り、声を低くして言う。


「ちょっと案件増えた」


村田の表情がわずかに強張る。


「急ぎですか」


「明日の午前まで」


「明日ですか」


その短い返答の中に、若い人間らしい率直な驚きがあった。

まだ、その種の急な変更に完全には慣れていない声だ。

健太はその声に、少しだけ救われるような気もした。

本来、驚くべきことに驚く感覚は失わない方がいい。

ただ会社にいると、その感覚は役に立たない場面も多い。

驚いても締切は延びないし、理不尽だと指摘しても作業は減らない。


「営業側で詰めきれなかった分がこっちに来た。市場整理とターゲットの見直し」


村田は数秒黙ってから言った。


「……最初からこっちの仕事だったわけじゃないんですよね」


「うん」


「でも、やるんですね」


健太はその言い方に、第五章や第六章で交わした会話の続きを見た気がした。

全部に納得しなくていい。

仕事は納得できないことがある状態のまま続く。

昼休みにはそう話した。

そして今、その言葉の具体的な実物が、目の前に来ている。


「やるしかない、が近いかな」


健太は答えた。


村田はそれ以上何も言わなかった。

ただ、画面を閉じ、メモ帳を引き寄せた。

その動作の素直さに、健太は少しだけ痛むような気持ちになった。

若い人間は、理不尽を受け入れるのが早い。

柔らかいからだ。

だが柔らかいものは、形を変えやすい代わりに、どんな癖で曲がったかがあとから分かりにくい。


二人で資料フォルダと過去案件を洗い直し、使えそうなデータを拾い始める。

市場整理は、一見すると数字の問題に見えるが、実際には切り取り方の問題だ。

何を市場と呼ぶか。

どの範囲までを競合とみなすか。

どういう前提を置けば先方に都合よく見え、どう置けば保守的に見えるか。

数字は客観の顔をしているが、並べ方ひとつで意味は変わる。

仕事の理不尽は、しばしばこういうところにも潜んでいる。

誰かが作れなかった都合のいい筋道を、別の誰かがあとから整える。

しかもその作業は、客観性の名を借りて行われる。


「この比較対象、前の案件で使ってたやつですけど」


村田が画面を見ながら言う。


「今回の方が条件違いますよね」


「違うね」


「でも、流用した方が早いですよね」


健太は少し考えた。

こういう判断が、一番疲れる。

厳密にやれば時間が足りない。

流用すれば通るかもしれないが、後で粗さになる。

現実の仕事は、いつも正しさと締切のあいだで形を選ばされる。


「骨格だけ使おう。数字は合わせ直す」


村田は頷いた。


その頷きの中に、多少の不満と、判断を引き受けてもらった安堵が同時にあるのが分かった。

若い頃は、曖昧な判断が苦手だ。

白か黒か、正しいか誤りかで線を引きたがる。

だが会社にいると、その線では処理できないことばかり増える。

骨格だけ使う。

全部流用ではない。

全部作り直しでもない。

そういう中途半端な判断が、現実の多くを支えている。


午後三時を過ぎると、フロアの空気は再び乾いてきた。

疲労と焦りが混ざる時刻だった。

誰かが自動販売機から缶コーヒーを持ち帰り、誰かが伸びをしながら会議室へ向かう。

理不尽な仕事ほど、空腹や眠気といった単純な身体の反応と一緒にやってくる。

人間は純粋に論理だけで不満を抱くわけではない。

疲れているときほど、曖昧な依頼は不当なものとして重くのしかかる。

それは単なる未熟さではなく、身体を持つ労働の自然な感覚なのだろう。


途中で営業の担当者から追加のメールが入った。

前提条件が少し変わったので、この観点も入れてほしい、とある。

健太はその文面を読んで、思わず口の中だけで小さく息を吐いた。

まだ増えるのか、という感覚。

理不尽には特徴がある。

それはたいてい、一度で終わらない。

飲み込んだと思った頃に、別の形でまた増える。

しかも追加される要求は、いつも「ついでに」とか「念のため」とか、軽い接続詞を伴って現れる。

その軽さが、引き受ける側の重さと釣り合っていない。


村田が画面を覗き込んだ。


「増えました?」


「増えた」


「……こういうのって、断れないんですか」


健太はすぐには答えなかった。

断れないわけではない。

だが、断ることで生じる面倒と、引き受けることで生じる負荷を、その場で秤にかけたとき、多くの場合、現場は後者を選ぶ。

その選択を弱さと呼ぶのは簡単だが、実際には関係性やタイミングや、今後の協力のしやすさまで含めた計算がある。

組織の中での断り方は、単なる意思ではなく技術なのだ。

そしてその技術は、若い人間にはまだ持ちにくい。


「断れるときもある。でも今回は、断るための説明の方が時間かかる気がする」


村田は苦い顔をした。

その顔を見て、健太は少しだけ救われた。

少なくとも、これは理不尽だと感じていいのだ。

感覚としてそう思うことまで失ってしまったら、仕事はただの受け身になる。


四時を過ぎると、部長が途中経過を見に来た。

資料の下書きをざっと見て、「うん、この方向で」と短く言う。

その確認自体は必要だ。

だが健太は、その一言のためにこちらが抱えた数時間の重さを思う。

もちろん部長にも部長の事情がある。

上から落ちてくるものを、別の形にして下へ渡す役割。

彼自身もまた、別の理不尽の中にいるのだろう。

会社の理不尽は、単純に上が悪くて下が被害者、という構図だけではできていない。

多くの場合、それは階段状に連なっている。

上から下へ、少しずつ形を変えながら流れていく。


「村田、こういうの経験しとくといいから」


部長が軽く言った。


村田は「はい」と答えた。

声は素直だったが、顔は無表情に近かった。

その表情の薄さに、健太は少しだけ心配を覚える。

人は理不尽に直面したとき、怒るか、戸惑うか、黙るかのどれかを選ぶ。

黙ることが一番社会的には無難だ。

だが、その無難さの中で何が沈んでいくのかは、外から見えにくい。


部長が去ったあと、村田がぽつりと言った。


「経験って、便利な言葉ですね」


健太は一瞬だけ笑いそうになり、同時にその通りだと思った。

経験。勉強。成長。

会社には、負荷を意味づけるための言葉がいくつもある。

それらは嘘ではない。

だが、それだけでもない。

言葉はしばしば、現実の角を削って受け入れやすくする。

理不尽は、そのままでは飲み込みにくいから、学びという名前を与えられる。


「便利だね」


と健太は言った。


「でも、全部が嘘ってわけでもない」


村田はキーボードを打ちながら、「そこが厄介ですね」と返した。


本当にそうだ、と健太は思う。

完全に間違っているのなら反発できる。

完全に正しいのなら納得できる。

厄介なのは、その中間だ。

理不尽でありながら、どこかでは役に立つ。

搾取に近いのに、学びでもある。

その曖昧さがあるから、人ははっきり怒りきれない。

怒りきれないまま引き受け、そのうち自分もまた誰かに同じ言葉を使う側へ回るかもしれない。


夕方の光は窓の外で少し赤みを帯び始めていた。

だがフロアの中では、蛍光灯が相変わらず同じ白さで机を照らしている。

自然の光は、時間とともに変わる。

疲れていることにも、今日が終わりに近づいていることにも、どこかで寄り添う。

しかし蛍光灯は違う。

午後三時も、五時も、ほとんど同じ顔で光る。

その無関心さが、会社の倫理に似ていると健太は思う。

個々の感情には深入りしないまま、作業だけは見えるようにする。

救いではないが、手元は照らす。

冷たいが、その冷たさの中でしか進まない仕事もある。


六時前、ようやく資料の骨格が整った。

市場整理の表、想定ターゲット、背景説明の一枚。

完璧ではない。

だが明日の午前の打ち合わせには耐える形になっている。

健太は椅子にもたれ、目を閉じたい衝動を少しだけ抑えた。


「とりあえず、ここまでかな」


村田も小さく息を吐いた。


「なんか、今日は普通にやってた仕事より、こっちの方が印象に残りそうです」


「そういう日もある」


「理不尽って、もっと大きいものだと思ってました」


健太はその言葉に、静かに頷いた。


「大きいのもあるけど、たぶん仕事の理不尽って、こういう小さいのの積み重ねなんだと思う」


誰かが詰めきれなかったもの。

曖昧なまま渡された役割。

断れないタイミング。

学びと言い換えられる負荷。

それらは一つ一つなら大事件ではない。

だからこそ日常になる。

日常になることで、人はそれを仕方のないものとして抱え込んでいく。


理不尽の形は、もっと尖ったものだと思っていた。

怒鳴り声や露骨な命令や、明らかな不当評価のような。

だが実際には、それはもっと滑らかで、もっと整った顔をしている。

協力、調整、経験、今だけ、念のため。

そうした言葉の中に包まれて、理不尽は机の上へやってくる。


蛍光灯は、その資料の束を黙って照らしていた。

誰の側にも立たず、誰の不満も慰めず、

ただ、整えられた表と箇条書きの上に均質な白さを落としている。


理不尽というのは、

つまり、正しく見える形に整えられた負荷のことなのかもしれなかった。

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