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蛍光灯の下の倫理  作者: たむ


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第五章 後輩という鏡

夕方にはまだ遠い時刻だったが、午後の仕事には、すでに一日の後半の匂いが混じり始めていた。


昼休みを境にして、会社の時間はわずかに質を変える。午前中の緊張が完全に解けるわけではないが、その持続は少しだけ疲労を帯びる。集中は続いているのに、身体の奥では別の速度で倦みが始まっている。健太は画面上の数表を確認しながら、ときどき意識が自分の手元ではなく、少し離れた場所へずれていくのを感じていた。資料の数字は確かにそこにある。確認すべき項目も明確だ。だが、何かを見ている最中に、別の何かを思い出してしまうことがある。午後というのは、そういうふうに記憶が仕事へ割り込んでくる時間でもあった。


村田は、午後に入ってからもしばらく企画書を見直していた。さすがに先ほどまでの張り詰めた様子は少し薄れていたが、それでもまだ、紙の上に残された自分の未熟さを直視している人間の背中をしていた。画面に向かう首筋、椅子へかかる体重の偏り、マウスを持つ右手の癖。人は集中しているとき、年齢より先に、その人のまだ固まっていない部分を見せる。若さというのは顔や声だけではなく、仕事中の沈黙の形にも表れるのかもしれなかった。


健太はふと、自分が入社二年目だった頃のことを思い出そうとした。


思い出せることはある。配属初日に案内されたフロアの広さ。名刺交換のたびに汗ばんでいた指先。上司から送られてきた短いメールの文面を何度も読み返し、そこに怒りが含まれているのではないかと勝手に怯えていたこと。会議で一度だけ発言したあと、その内容よりも声が少し震えたことばかり気にしていたこと。だが、そうした断片はあるのに、その時の自分が何を信じていたかは、もうはっきりとは思い出せない。理想はあったはずだ。期待も、苛立ちも、たぶん相応にあったのだろう。だが、日々の業務の中でそうした感情は少しずつ角を失い、いまの自分のどこに沈んでいるのか分からなくなっていた。


「佐伯さん」


声をかけられて顔を上げると、村田が立っていた。今度は企画書ではなく、社内共有用の報告フォーマットを持っている。


「この書き方で大丈夫ですか。内容はそんなに多くないんですけど、なんか、薄く見えないかなって」


健太はその紙を受け取った。週次の進捗報告だった。簡潔にまとまっていて、必要な情報も入っている。だがたしかに、本人が気にしている通り、見た目としてはやや素朴だった。仕事量の問題ではなく、書きぶりの問題だろう。余計な飾りも誇張もないぶん、自信のなさだけが行間に残っている。


「薄いっていうより、正直なんだと思う」


健太がそう言うと、村田は少し困ったように笑った。


「正直すぎるのって、良くないですよね」


「場合によるかな」


健太は紙を机の上に置きながら言った。


「仕事って、よく見せることも大事だけど、盛りすぎるとあとで自分が困るし」


村田はその言葉をそのまま受け取るように黙っていた。若い社員の相談には、具体的な答えを求めているようでいて、実際には判断の仕方そのものを探っているものがある。どこまで書いていいのか。どこからが言い過ぎなのか。どのくらい自分を前に出してよくて、どのくらい控えるべきなのか。会社には明文化されない感覚のルールがいくつもあって、新しい人間はその輪郭を、日々の細かなやり取りの中から覚えていくしかない。


「これなら大丈夫だと思う。あえて言うなら、事実はこのままで、最後の一文だけ少し前向きにしてもいいかも」


「前向きに、ですか」


「うん。“引き続き対応します”だけじゃなくて、“次回はここまで進めます”って書くとか。未来形にすると、印象が少し変わるから」


村田はすぐにメモを取った。未来形にすると印象が変わる。

その言い方をしたあとで、健太はそれが仕事の報告だけに限らないことに気づいた。人は現在だけを語ると、どうしても自分の小ささをそのまま差し出すことになる。だが、そこへわずかでも次の動きを添えると、同じ事実でも別の意味を持ち始める。仕事とは、つまるところ現在の処理ではなく、次にどう動くかの連続でできているのかもしれない。


村田が席へ戻ったあと、健太はしばらくその背中を見ていた。後輩というものは、ときどき鏡に似ている。ただし現在の自分を映す鏡ではない。もっと前の、いまより輪郭の曖昧だった自分の姿を、不意に反射させる鏡だ。自分ではすでに忘れていた焦りや、説明の仕方のぎこちなさや、相手の評価を必要以上に気にする癖。そうしたものが、後輩の振る舞いの中に見えるとき、人は教えているつもりで実は過去の自分に触れている。


健太にも、昔一人だけ印象に残っている先輩がいた。


厳しい人だった。言い方は柔らかくなかったし、褒めることもほとんどなかった。提出した資料には、毎回びっしりと赤字が入った。主語が曖昧、数字の根拠不足、結論が弱い、視点が相手側に寄っていない。若かった健太は、それを読むたびに自分が全面的に否定されたような気がして、何度か本気でこの仕事に向いていないと思ったことがあった。だが、ある日その先輩が会議後の廊下で、ごく普通の調子でこう言ったことがある。


「赤入れるのは、読めばよくなると思ってるからだよ」


それだけだった。励ましのつもりでもなかったのだろう。けれど、その一言を聞いてから、健太の中で赤字の見え方は少し変わった。直されることは、少なくとも見捨てられてはいないということだった。完全に期待されていない人間には、誰もそこまで手間をかけない。その事実を理解するまでに、健太は思っていたより長い時間を必要とした。


午後のフロアでは、誰かがコピー機の前で紙をそろえる音がしていた。電話の着信は午前より減り、その代わり社内同士の短い確認が増えている。人の声は低く、歩く速度も少しだけ緩んで見える。午後の会社は、朝より人間らしい。疲れが出るからかもしれないし、形式に全力を割く余裕がなくなるからかもしれない。そういう時間帯になると、机の並ぶこの空間も、急に個々人の生活の延長のように見えることがある。誰かは肩を回し、誰かはこっそり甘い菓子を口に入れ、誰かは小さく欠伸をする。仕事という同じ形式の中で、それぞれの身体が別々の仕方で持ちこたえている。


「佐伯さんって、最初からこういうの得意だったんですか」


不意に、村田がそんなことを言った。


「こういうのって?」


「資料の直し方とか、言葉の選び方とかです。なんか、どこを見ればいいか分かってる感じがして」


健太は少しだけ笑った。


「全然。むしろ、昔は何を直されてるのかもよく分かってなかったよ」


「でも、すぐできる人っていますよね」


「いるかもしれないけど、少なくとも俺は違ったかな」


そう答えながら、健太は本当にそうだったかを心の中で確かめる。できたこともあったかもしれない。だが、できなかった記憶の方が強く残っているのは、それだけその頃の自分が毎日何かに引っかかっていたからだろう。若い頃の記憶は、成功よりも戸惑いの方が輪郭を持って残る。うまくいったことは結果として吸収されるが、うまくいかなかったことは感触のまま沈殿する。


「最初は、たぶん誰でも言葉を足しすぎるんだと思う」


健太は画面から少し視線を外したまま言った。


「自分がどれだけ分かってるかを見せたいし、ちゃんと考えてるって思われたいし。でも、仕事の文って、足すより削る方が難しいから」


村田はそれを聞いて静かに頷いた。


「削るのって怖いです」


「分かる。自分の考えまで削ってる気がするからね」


「はい」


「でも、削っても残るものがたぶん、その企画とか、その人の考え方の芯なんだと思う」


言い終えてから、健太は自分のその言葉が、妙に胸に残るのを感じた。削っても残るものが芯。

仕事の話をしているのに、そのまま自分自身のことを問われているようでもあった。毎日、会社の中で少しずつ角を削られ、余計な言い方を削り、感情の出し方を削り、理想の表現を削っていったあとに、なお残っているものは何なのだろう。いまの自分に、その芯と呼べるものがあるのか、健太にはすぐには分からなかった。


村田は少し黙ってから言った。


「僕、入る前は、もっと企画って自由に考えるものだと思ってたんです」


その言い方に、健太は昔の自分の気配をはっきり感じた。


「でも、実際やってみると、自由っていうより、すごい条件の中で考える感じで」


「うん」


「予算とか、相手の部署とか、会議で通るかとか。そういうのばっかり気になって、最初に面白いと思った感じが、自分でどんどん薄くしてる気がして」


健太はすぐには答えなかった。

そういうとき、安易に「そんなことない」と言うのはたぶん違う。実際、薄くなることはあるからだ。組織の中で何かを形にしようとするとき、最初の衝動はしばしば調整の中で痩せていく。誰かの承認を通り、複数の事情と折り合いをつけるうちに、最初の熱は丸められ、扱いやすい形へ変わる。その変化を成熟と呼ぶこともできるし、摩耗と呼ぶこともできる。たぶん、どちらも本当なのだろう。


「薄くなることは、あると思う」


健太はゆっくり言った。


「でも、全部なくなるわけでもないんじゃないかな。残し方を覚えるっていうか」


村田は顔を上げた。


「残し方、ですか」


「うん。全部通そうとすると無理だから、どこを絶対に残したいか決める。あとは多少変わってもいいって思えるようになると、少し楽かも」


自分で話しながら、健太はその言葉が誰に向けたものか分からなくなっていた。村田に言っているのか、昔の自分に言っているのか、あるいはいまの自分に向けて言い聞かせているのか。後輩との会話には、ときどきそういう曖昧な返り方がある。教えるというより、自分の中に沈んでいた考えが相手の問いによってようやく表へ出てくるのだ。


フロアの窓の外では、午後の光が少しずつ角度を変えていた。向かいのビルのガラス面が鈍く光り、雲の影が短く流れていく。しかしその変化は、室内へ入るとほとんど力を失う。蛍光灯の白さの下では、空の機嫌も季節の傾きも、ただ背景の変化としてしか届かない。会社という場所にいると、時間は時計で知るものになり、光で感じるものではなくなっていく。健太はそのことを、長いあいだ当たり前のものとして受け入れてきた。


「佐伯さんって、辞めようと思ったことありますか」


村田は、まるで自分でも思い切った質問だと気づいているような顔でそう言った。


健太は少しだけ考えた。

ない、と答えるのは嘘になる。

ある、と即答するには、その回数も理由も曖昧すぎた。


「何回かは」


と結局言った。


「でも、辞めたいっていうより、別の場所ならもう少しうまくやれるかもって思った感じかな」


「それで、辞めなかったのは」


「たぶん、別の場所に行っても、自分が自分のままなら同じかもしれないってどこかで思ったからかも」


村田は黙っていた。

その黙り方に、納得と不安が同時にあるのが分かった。

若い人間にとって、先輩の言葉は安心にもなるが、ときに未来の輪郭を見せすぎることもある。

健太は自分が、必要以上に諦めに近いことを言ってしまったのではないかと思った。

だが、言い直すのも不自然だった。


「でも」


と健太は少し間を置いて続けた。


「残ったから分かったこともあるよ。向いてるとか向いてないとかだけじゃなくて、自分が何を嫌がるのかとか、どこなら我慢できるのかとか。そういうのは、続けないと見えないこともあるから」


村田はゆっくり頷いた。

それ以上は何も言わなかったが、その頷き方には、言葉そのものというより、言葉の後ろにある時間を受け取ろうとする感じがあった。


後輩と話していると、ときどき不思議な感覚になる。

自分はもう若くないのだと知らされる一方で、まだ完全に固まった大人でもないような気もするのだ。

教えられることが増えた。

だが、それは答えを持ったということではない。

ただ、答えのないまま仕事を続ける方法を少し先に知っている、というだけかもしれなかった。


夕方に近づくにつれて、フロアの音はまた少し変わっていった。

キーボードの音が乾き、電話は減り、代わりに「これ、今日中でしたっけ」といった確認の声が増える。

一日の終わりへ向けて、仕事は再び現実の硬さを帯び始める。

どれを持ち帰り、どれを明日に回し、どれを今日のうちに片づけるか。

その判断の積み重ねが、会社員の夕方をつくる。


村田は再び画面へ向き直り、報告書の最後の一文を直していた。

たぶん、未来形に。

次回はここまで進める、という書き方に。

その小さな修正を見ながら、健太は思う。

後輩は鏡だ。

ただ過去の自分を映すだけではない。

いまの自分が何を失い、何をまだ持っているのかまで、静かに映してしまう鏡だ。


そして鏡というものは、見たいものだけを映してはくれない。

忘れたつもりの未熟さも、言葉にしなかった諦めも、

かつて自分がたしかに持っていたはずの熱も、

同じ平らな面の上に並べて返してくる。


蛍光灯は、その二人のあいだに落ちる沈黙を均等に照らしていた。

誰が教える側で、誰が教わる側か。

そんな区別さえ、あの白い光の下ではしばらく曖昧になる。


人は後輩を育てているつもりで、

実際には、自分がどういうふうにここまで来たのかを、

もう一度見直させられているのかもしれなかった。

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