第二十二話(一巻最終話)
学校。
すでに文昭が襲撃されてから一週間と少しが経過している。
公園の一件は何者かが火薬や油を使って悪戯をしたものとして、小さく記事になったていどであった。なにしろまともな物証もなければ目撃者もいない。ついでに犯人は普通ではない手段で全員逃走済みとなると、さすがの日本警察もお手上げであったようだ。
新たな焼死事件は発生しておらず、焼影の始末は成功したと思ってよいだろう。
篠崎も、周囲の気遣いが分かるのか無理にではあっても少しは笑えるようになってきている。
仇は討った、などといえるわけもなく。多くの人は謎の死を迎えた家族・友人・知人を思って、また涙を流すことになるのだろうが。
それでも、これ以上の犠牲を出すことは防ぐことができた。
そう思いたいところだった。
「力があっても、できないことなんていくらでもあらぁな……」
小さく呟く文昭の隣には、武敏が立っている。
「それはそうでしょう。御仏とて万生一切を救うとはいわれていません。ましてや人の身。できることなどたかがしれています」
いつもの笑みを浮かべてはいるが、目には真摯な光を宿している。
その言葉は、これまでよりもはるかに重く、真情がこもっていた。
「私達はできることをやったし、最善をつくした。そう思えるだけで十分だと思うけど?」
「な~んにもできないことの方が多いもんね~」
いつのまにか奈々子と麻魅もそばに来ていて、言葉をはさむ。
実際問題、できることは増えても行えることは限られている。自分は一人しかいないし、手の届く範囲は有限だ。
しかし、その範囲内でできることをしない理由にはならない。
皆が少しずつ積みあげた結果、不完全でも幸せがあるいまができたのだから。
四人の視線の先では、篠崎が静かに友人と話をしていた。
現実で丸一日普通にすごして休み、負傷や疲労を全快させた四人は、翌日またリアルの大江戸へとやって来た。
いまいるのは大江村の裏山。千覚寺の敷地内に設けられた墓場だ。
区画が切ってはあるものの、なにも存在していない。
当然の話で、村と称してはいるものの、庄屋の株を持つ文久の家と住民の麻の家、麻の手下の女中以下猫招の従業員が寮がわりにしている長屋、一応は作ってある田畑と馬と牛・鶏がいる厩舎。
後は裏山の階段を登った先に千覚寺と大江村晴明神社が並んで建っているだけなのだ。
住民の死者などいようはずもなく、当然ながら墓もない。
その一角で皆に見守られながら、円海が石を彫っていた。
呪刻をおこなうために霊力を宿した鑿と鎚。
硬い音を響かせて、一打ち一打ち、丹念に彫りこんでゆく。
唱えるのは地蔵経。いまや最も信頼性の高い経文だ。
石に刻みあげられているのは地蔵尊をあらわす梵字を中心とした封印の図。
通常なら石化した妖怪の核に札を貼り付けるのが一般的だが、その封が解かれたなどという話はいくらでも聞くので、今回は却下。
石に直接刻みこみ、さらに防護の術をかけることで、印が欠損することすらありえないようにしておく。
そのうえで、そちらを裏とし、表にも文字を刻む。
『燭陰惨禍慰霊ノ碑』
死して石と化した身に、その罪を刻む。
死体に鞭打つような話ではあるが、万が一にも復活されてはたまったものではないし、大妖の残骸は呪術の触媒として狙われることがあるので、処置は念入りにせねばならない。
彫りあがり、無粋ながら敷いていたビニールシートを使って破片を丁寧に集め、聖別された布でくるみ、地に埋める。
その上に、完成した碑を安置した。
「どんな悪人でも死ねば仏ってのが仏教の教え、神道なら八百万の神の一柱にもなるんだろうが、まぁこんなもんかな」
「そうですね。できることといったらこのていど」
「いいんじゃない~?」
「では」
七重の呼びかけで、四人が同時に合掌する。
亡くなった方の冥福を祈って。
大江戸城本丸・御用部屋。
ここは将軍の下で幕府の諸政務を司る老中の執務室にあたる。
老中は常置の役職ではあるが確たる定員はなく、現在は四名が置かれ、月番制で職務にあたり、重要案件は合議によって決するのを通例としていた。現在この御用部屋につめているのは当番の松平侍従輝尚と、日も明けぬ内から急遽登城していた本多中務大輔忠義の二名。昨晩、大川口で起きた騒動で慌しかった城内が昼前の現在ようやく沈静化したのは、この二人が的確に指示を出し、対応したからであった。
もっとも、誰もが正確なところを知っていたわけではない。戦場の陸側には幻影の結界が張られており、遠目には月明かりに照らされた街の風景を望むことしかできなかった。ただ時折、押さえ切れない爆発の光や、この世のものとも思えぬ轟音が轟き、人々を恐れさせたのみ。
忠義の月番であった半月ほど前から大江戸中、特に海沿いの町火消しに警戒態勢を取らせ、南北奉行所の町方と町役人にも避難誘導の用意をさせていたが、昨晩に円海の護法鬼が自宅で夕餉をしたためていた忠義をおとない、大川口に大妖が迫っていることを警告。これを受けた忠義は自らすぐさま登城すると同時に処方へ使いを出し、大川周辺から民人を避難させたため、直接に騒動を目にした者もない。
物見高い江戸っ子の中には色気を出した者もないではなかったが、近辺に荒れ狂う風と、感じれば背筋が凍り、吐き気をもよおす強烈な妖気にあてられ、誰一人現場までたどりつくことなく終わっている。
音が止み、一夜が明けたところで奉行所の与力・同心が大川口の吟味にあたったが、速報の内容は凄まじいものであった。
さながら大筒を執拗に撃ちこみ続けたかのような有様で、両岸の護岸は崩れ、町屋は半壊。幸いにして永代橋は多少の焦げ跡がついたていどだが、現場にほど近い越前福井藩下屋敷にも被害が出ているという。
これが街中でおこなわれていたらと思うと、声もない。
本多忠義は忠正の嫡男ですでに家督をし、父の引退後二年の間を空けて、実力をもって幕閣の重鎮たる老中へ就任。息子二人娘一人を持つ、四十絡みの恰幅のよい大男だ。父祖伝来の骨太な体格に脂がのって、縦にも横にも大きい。武術の腕前もなかなかのものだがそこは太平の世、福福しい温顔に似合った能吏としての評価が高い。
今回の騒動に対する処置も、その評価があったればこそすんなり通ったといえる。
「侍従殿。ではこたびの件は先の申し合わせのとおりということで」
「心得ました。下に各大名屋敷からの使者があらかた集まったとのよし。月番の私めから説明するということで」
「お願いもうしあげます」
軽く頭を下げて松平輝尚を見送った忠義は、小さく息をついた。
同役ではあるが本来、忠義は輝尚の目上にあたる。彼の家は松平の姓を冠してはいるものの、褒美として姓をたまわると称して家の名を奪う一種の同化政策を受けたのであって、将軍連枝の末というわけではない。仕えはじめたのも神家が天下をとってからのことで、徳川が松平であり東海の田舎領主にすぎなかった頃から仕える、いわゆる三河以来の家柄である本多家とは格が異なる。
また官位においても中務大輔は正五位上で侍従は従五位下。朝廷が政務をとっていた頃であれば同じ中務省の上官と下官であり、いまやほとんど名誉としての官位ではあるものの、公卿が開く公式の歌会に出るなどということになれば格式もあつかいも変わってくる。
年齢・実務についてはほとんど同じではあるが、やはりいささかの先輩。考えの浅い者、威圧によってことを進める者であれば、たとえこちらが頼む側であっても強気で押すところである。
忠義はそこをあえて下手に出、ことを穏便に進めることができる男であった。無論、卑屈にもならなければ舐められもしない。背景をしっかりとふまえた上で「堂々と下手に出る」。
相手の感情への配慮であり、情報という実利をあわせて、自分の望む展開を無理なくおこなわせる、官僚としての処し方の一つである。
さて、話が終わる機を見計らっていたものか、部屋の外に気配が現れる。
「本多様」
「笹木か」
笹木弥一郎信貞。現在の妖改方の長官を務める男であり、幕府の常備軍たる御先手組・組頭の一人である。
表向きは妖言詮議、すなわち無責任な流言飛語や騒乱の誘発を目的とした諸事批判、公序良俗を乱す出版物などを取締るという、なんとも冴えないうえに嫌われる地味な役目、と一般には見られているのだが、その担当が町奉行所のように役方――すなわち文官ではなく、火付け盗賊改方などと同じ番方――武官となっている時点で、分かる者にはおよそ内実が知れる。
つまりは戦闘を前提とした御役目、御府内はもとより周辺諸州をまたにかけた妖怪がらみの事件・事象をあつかう幕府方の対妖怪組織であるのだ。
「こたびの一件の詮議、いかにいたしましょうや」
声は、いささか硬いものだ。
「いかに、とは?」
それに対し、忠義は泰然として応じる。
「御指示に従って府内にて騒動に乗じんとする妖を警戒し、いささかのモノを始末もいたしましたが、肝心のところには触れられておりませぬ。将軍家お膝元を騒がせたやからについては」
「笹木」
与えられた命への不満が早くした口を、忠義はなにげなく名をつぶやくことで黙らせる。
口調は穏やかであるが、そこには有無をいわせぬ迫力があった。
妖改方も無能ではない。遠見の術で離れた場所から状況を確認はしていたのだろう。相対した片方は残っている、と。
忠義には屋敷から伝言が届けられ、敵を撃滅し、一行は無事戻ったと知らされている。
双方のため、手出しをさせるつもりはない。
「昨晩の騒動は玉薬(黒色火薬)と大筒玉(大砲の弾)をあつかっていた商人が、本来は安全のため分散して運ぶべき荷を横着してまとめたために事故を起こし、船上にて連続した爆発となったものだ。主らの役目は、今後これを基にした根拠のない流言飛語があれば取り締まるにある。目を光らせておくのはかまわぬが、即座に動こうとは気が早いな」
言外に「昨晩の件は妖怪の仕業とはしない。詮索無用」と言い切られた笹木の表情が襖の向こうで強張る。
それを気配で察しつつも、忠義は動かない。
「しかし、それでは……」
反駁には不満と困惑が混じる。
先には疑いつつも掴みきれていなかった怨霊の大量発生を上から指摘され、これを狩るのはともかく、別の者がそれを行うのについて邪魔立てせぬよう命じられた。府内全域に式神が蠢くのを傍観しろというのはかなり無茶な話であり、役立たずといわれたにも等しい。
そこに来てこれである。役目に自負があるほど承服しがたいものがあるのは察せられる。利権や縄張りを守りたい役人の私欲といった面は、あまりない。それがまぁ、救いではある。
「のう、笹木よ。別段御役目ということもないのに命の危険をおかしてまでも大江戸の危機に働いてくるる者、その心意気はなんと思うな」
ずらしはしたがつながりがあるものと分かる話題にしかし、信貞は首をかしげる。
いくつか思いつくものもないではないが、これと定めるには情報がたりない。
「己の命がおびやかされたということもある。しかし同時に、この街が、街に生きる人々が好きなのだそうだ。彼らといられることは有難く、それを守ることは己の利だ。義務としておこなわれるものと並んで、そういう働きがあって初めて世の中が成り立つ、とな」
警吏の働きは民人の協力があるかないかで結果に雲泥の差がある。お上が正しく、自分達を守ってくれていると思えばこそそうなるのであって、報いることもなければ守ることもないお役所仕事に終始していると、後ろから刺されることさえありうる。
仮にも改方。そのあたりは身にしみていた。
「それにの、現場は酷い有様だそうな。大筒をつるべ打ちにでもせねば、ああはなるまいと町方についていった先手組の者が申しておった。それほどのことに、主らは応じられるか?」
妖改方は役目上、応分の能力は有している。
だが、ここまで大規模かつ直接的な破壊の力がふるわれる事態に対応できるかと問われれば、難しいというしかない。
彼らの技の多くは手で触れられぬ悪霊を払ったり、妖力で普通では刃が立たぬ強靭さを得た妖怪を斬ることがかなうよう、刀に力を与えるといったものだ。無論のこといざという時の切り札はあるが、普段から用いないのはそれなりに危険もあるからで、さらにここまでの事態となると、その切り札ですら通じると断言はできない。
「しかし、それでは危険な力を見過ごすことにはなりはしませぬか?」
自分達には対処できない大きな力。それを退けるさらに大きな力。そんなものが幕府の統制下にないまま放置されるというのは、治安担当者にとっては悪夢だろう。ある意味筋は通っている。
「ふむ」
忠義は、わずかの思案の後に言葉を続ける。
「例えばじゃ、大江戸の三方に空き家を買い、風の強い日に中へ油をまき、導火線をもちいて同時に火がつく仕掛けを作る。こうすれば御城下を焼き払うことができよう。わしならできる。
で、お主。わしを火盗賊改メに突き出すか?」
そんなわけがない。
即座にそう返そうとして、口を噤む。
「世の中に確かなものなど滅多にあるものではない。人を従えておると思うのも錯覚よ。いざとなれば人はどんなあくどいことでもする。しかもそれが正しいおこないだと信じさえする。自分を騙してまでな。
巨大な力に怯えるのは正しいが、それに惑わされ、いま味方であるものを我から敵にするのは愚の骨頂。頭立つ役目の者は心遣いに気を配れども、肝は太くあらねばならん。癖のある者共を束ねておる御主のこと、少し考えれば分かろう?」
妖怪に抗する力は神道・陰陽道・修験道・仏道などいくつか存在するが、組織だったものは宗教勢力が多く、幕府の役目で自在に人を使うというわけには、なかなかいかない。畢竟、改方の人員は本流からはずれたはぐれや、毒をもって毒を制すがごとき妖怪がらみの者ということになる。
御用聞きは町奉行同心が役目の探索のために犯罪者の中で改心した者や、弱味をにぎったうえで目こぼしをした者を密偵として使ったのが
はじまりだが、その初期の頃に近い水準の者がいまだに多いといえば、おおよそ知れよう。
力はあっても人格は偏屈・ならず者・ごろつきといったあつかい難い連中を束ねなければならない妖改方の長官としては、思い当たる節が多すぎたのだろう。納得する気配が感じられる。
「分かったらゆけ。元々恩人ではあるが、こたびのことでまた借りができてしもうたのでな。どうやって返すか、頭が痛い。夜半からつめきっておるから、一度下がってよく眠ってから考えねばならん」
忠義の周囲から、気配が消えた。老中が恩人とまでいう相手には、さすがに手出し無用と思ったのでもあろう。
幕府の中枢にあってよいい意味で有能な忠義が、私情を持って公の判断をすることはない。今回の件も、昨今監視に油断があると見て軍備を整えようと蠢動しているいくつかの外様を締め上げるのに利用するという一面を持つ。また、己の信ずるとおりに政務をおこなうためには表の立場だけでなく、隠然たる影響力というものが必要になる。ある面における巨大な戦力に己のみが伝手を持つことは、時に大きく益する。なればこそ気も使うのだ。
深く息をついた忠義は、父への報告と休息のため、間を置かず下城した。
「そうかえ、磯撫での浜一が死んだかえ」
手下の報告を受けた猩猩狒の伝衛門は、本所にある自宅の奥座敷で大したことでもないというように呟いた。
「ならば、黒江町の縄張りを引き締めねばなるめぇのう」
次の言葉も自明のことを淡々とのべただけ、という感じだ。
大江戸の暗黒街。それも妖怪絡みの、俗に表・裏というさらにその奥、「闇」と称される部分で勢力図が変わる。そのことを告げるというのに、だ。
元々伝衛門は人と妖がほどほどに付き合っていくのをよしとしている。それは決して単なる平和愛好ということではなく、下手に探ろうとする素人、欲をかいて触れでものことに触れようとする裏の住人に、静かに消えてもらうことを含んでいる。
妖怪の中には人食いをせねば生きていかれぬ者もあり、それらが己の正体・所在をしっかりと隠し、いらないところから必要な分だけを獲るという最低限の節度を守るのであれば、黙認してもかまわないとさえ思っている。逆に言えば、この不文律を破る者は仕置きすべき、となる。
その意味で、磯撫で浜一は限りなく黒に近かった。己の力量を過信し、人を獲物としか見ず、その傲慢ゆえに情報の管理もゆるみがちで、下の者が楽しむために殺すのを黙認していた。今回の騒動で消えてくれたのはいっそ手間がはぶけたといえる。生き残った連中もさぞ大人しくなっていることだろう。小頭と主立つもの十人ばかりを送りこめば、十分乗っ取れるはずだ。
「しかし、大江様には借りができるばかりじゃぁのう。今度また、なにか持ってあがらねばなんねぇ」
むしろそっちが問題だと嘆息する伝衛門に、手下が少しばかり驚いた顔をする。
「頭が、そこまで気を使われるんで?」
そういってしまったのも、ゆえなきことではない。
妙見寺の元締め、猩猩狒の頭、伝衛門。表向きはさほど大きくもない船宿の隠居、裏にあっては本所・深川など大江戸東側の盛り場を仕切る香具師の元締め、闇にもぐれば配下数百ともいわれる御府内有数の廻り組の頭。人型の小さな姿からは想像もつかぬが、知る人ぞ知るその威勢は大変なもので、町奉行所や改方でもうかつな手出しはできないといわれる。
ゆえに、そのしわくちゃの顔の中に埋もれるようにしてある小さな目をわずかに見開き、眼光鋭く睨みつけられた手下は、震え上がった。
その矮躯が本性の巨体をも超えて膨れあったような気さえする。
「わっしゃぁな、先生に知恵を借りにいったんじゃ。ところが、ことが大きすぎて手前ぇの尻も拭けやしねぇとくる。それをなにもいわずに引き受けて、とんでもない化け物を潰してくださった。それをさも当然でございという慣れきった顔をしてみろ、あちらは呆れるていどでも、わっし自身の格が下がる。格下の雑魚の行く末がどうなるか、生焼け魚になった浜一がとっくと証立てているではねぇか」
己をしっかと持っていれば、下げるべき頭を下げたところで舐められることはなく、むしろ敬される。その場しのぎで卑屈に下げた頭は、いわしのそれほども役に立たない。
人品・品格というのは武器であって、それが一切目にはいらぬ愚物外道相手以外、うかつに値を下げるべきものではない。下げるのは失言一つで十分だが、上げる方は一朝一夕にはいかないのだから。
そもそも伝衛門は他の組頭同様、大江戸の闇を知るそれと知られた大店などから、安全を守る代償としてみかじめ料を頂戴している。特に依頼者のない困り者の始末をする時の手当てなどはそこから出すわけだが、今回の燭陰退治に値をつけたなら、千両が万両でも足りるまい。
それだけ借りは大きいといえる。
「だからなぁ、先生のところに余計なちょっかいをかけようとする馬鹿にゃぁとっくといい含めて帰らせろ。あちらに迷惑をかけるのは、わっしの顔に泥を塗るってぇことだとなぁ。それでも懲りねぇヤツは、かまわねぇから沈めちまえ。縄張り内の引き締め、黒江町の取りこみ、しばらかぁ忙しいぞ。手前ぇも尻で座布団あっためてるひまがあったら、外でも回ってこいやぁおい」
必要があったとはいえ、これまで限られた範囲の付き合いしかなかった文久達は、一躍大江戸の闇社会で有名となってしまった。その本質や勘所をわきまえぬままに馬鹿が手を出せば、不愉快に思うのは当然のこと。頼った側としてはすこぶるまずい。
静かではあるが凄味の声で叱りつけられた手下は、慌てて部屋を飛び出していった。
戸締りをして寺を後にし、村境の地蔵尊像にお参りして大江戸へ向かう。
このあたりには当然ながら昨晩の大騒ぎの影響などなく、のどかなものだ。
すでに朝飯前の一仕事を終えて休んでいる農家の人々の姿が、濃さを増した緑の中に遠目でうかがえる。
「事態が片付いても強制送還とか、こちらにはいれなくなるということはなかったわね」
ゆっくりと歩きながら、七重が呟く。
燭陰の一件が完全に終わった後、そうなる可能性も考えていたのだが、いまも問題なくリアルの大江戸へと向かえている。
「御褒美みたいなもんなのか、まだまだやっかいごとが続くってことなのか、微妙な線だな」
わずかに眉をしかめる文久。しかしそれほど嫌そうということもない。
「まぁ、これっきりで放置というのもなんでしょうからね」
相変わらずの僧形ですたすたと道をゆく円海は、正面を向いたまま感覚を広げる。
周囲。姿はないが、いくつかの視線・気配が感じられた。
あるていど情報を持っている連中の手先が、様子をうかがっているものと見える。
昨日あれだけの戦いをやっておきながら、すでに全快してぴんぴんしている姿に驚きを隠し切れないようだ。
弱っている内に、などと不埒なことを考えたやからは、背筋を寒くさせていることだろう。
そういう連中に見せつけるために、わざわざ一度戻って全快して来たのだから、そうでなくては困るのだが。
まぁあの戦いを遠望していた者なら、そしてその一行がいる場所を知りえる者なら、気になろうというものではある。
強大な竜は恐ろしいが、その竜を屠る英雄はどうなのか。
邪悪な魔王は恐ろしいが、それを凌駕する勇者はどうなのか。
勝手に怯え、勝手に牙を剥こうとする者もあるだろう。
隙がないことを示せば、あるていどの抑えは期待できる。
こういった後の始末を丸投げして帰還というのも、かなり迷惑な話ではあろう。
その意味では、こうして現状が続いていることは当然なのかもしれない。
もっとも、嫌な感じの視線はなく、予想よりかなり静かだなという思いはある。
御老体達のおかげか、どうか。
「しかしほんと、なんで俺たちだったかね?」
首をかしげたのは、これが最初ではない。
文久達は、キャラクターデータ的には最強クラスの存在ではある。
最上位のレア武装も、一応は持っている。
しかし、別に大江戸・百鬼夜行最強の廃人プレイヤーというわけではない。
課金の嵐で頂点を極める廃神様では、さらにない。
MMORPGを極めるにはキャラクターデータだけではなく、プレイヤーのリアルスキル、果てはリアルラックや現金まで必要だ。
同レベルのキャラクターであれば、ものがVRだけにプレイヤーの技量が勝敗を大きく左右する。これを養うには、才能もあるかもしれないが、相応の時間が必要だ。
同じボスモンスターを倒しても、レアアイテムが出る者と出ない者がいる。裏パラメータで幸運度があるとか当たりIDがあるとかいう噂もよく流れるが、数値操作でないならそれをつかみとるのもリアルラックだ。
また、大江戸・百鬼夜行はRMT=リアル・マネー・トレード、すなわち現実の金銭でアイテムを売り買いすることは禁じられているし、運営ががっついて課金要素を乱立させてもいないが、最強を目指すならやはりそれなりの金額がかかる。
普通の現役高校生でゲームができる時間は限られ、家が湯水のように小遣いをわたすような資産家でもなければ、デイトレードで一発当てたわけでもない、比較的まったりとゲームを楽しんでいた文昭達は、多少は運がよく優秀ではあっても、最強ではなかった。
「むしろ、最強の存在じゃない方が良かったのかもしれないわね」
風を小さく操って言葉は聞こえないようにしているために、目があると知っても平気で話す七重は、少し考えてから口を開いた。
「下手にゲームで完璧な人間だと、リアルとの落差についていけないかもしれない。特にプログラム制御の大物狩りをやりこんでいる人はゲームならではの癖、特殊行動後の動きの遅延とかを計算して、技の先行入力なんかを多用するでしょ?
リアルでそれは通用しないもの。いっそゲームで最強ではないからこそ、リアルならではの戦術とか工夫する人の方が、よかったのかもね」
「なるほどなぁ……」
最初にこちらへ来て、行き来ができることを確認したら、次にはすぐ武術が使えるか否かを確かめた自分を思い出し、頷く文久。
「ねぇねぇ、そういえば今日、なに食べたい~?」
不意に、これから猫招にいって昼餉をしたためるつもりの一行に、麻が尋ねる。
話題に乗って気分を切り替えた文久が、思いついて手を叩く。
「初夏か……鮎喰うか、鮎」
「いいわね」
「風物詩ですねぇ」
他二人も乗り気のようだ。
「ん~ 文ちゃん、自分で釣ってくる?」
実はこの男、手妻は釣り師。
「釣り師の文さん」などと呼ばれ、本所・深川界隈では遊び人兼気分しだいで魚の卸売りをする妙な男として知る人ぞ知る存在であったりする。猫招にも時々獲物を持ってきて、お勧め品として卸すこともあれば、捌いてもらって自分で食べることもある。
ちなみに文久が所有するただ二つだけの等級天下逸品、片割れは釣竿の「太公望」だったりする。
「いまからかよ! 昼時終わっちまうぜ」
手妻:女将からの無茶振りに、文句をつける。
「え~、文ちゃんなら雲に乗って一っ飛びでいって、釣ってこれるじゃん。四万十川あたりで」
「しかも四国かよ! 無茶いうな! 遠いし! 目立ちすぎるわ!!」
がーっとばかりに文久が掴み掛かるふりをすると、きゃ~っと嬌声をあげて麻が逃げる。
追って走るのはもちろん悪ふざけだ。
「やれやれ」
「ほほえましいですねぇ」
そんな二人を見つめるコンビの様子は、さながら熟年夫婦である。
これを見たなら、馬鹿も毒気を抜かれるであろう。
すべて世はこともなし。
大江戸の奇妙な物語は、まだ続く。




