泣いたあとの魔力
訓練室には、静寂が戻っていた。
ついさっきまで床を震わせていた魔力の奔流は、もうない。
魔法陣の上に残っているのは、淡い光の粒だけだった。
それも時間が経つにつれて、一つ、また一つと消えていく。
私は床に座り込んでいるユナの前にしゃがんだ。
【美咲】「ユナちゃん」
【ユナ】「……」
返事はない。
けれど、さっきまで耳を塞いでいた両手は下がっている。
肩の震えも、少しずつ収まっていた。
【美咲】「疲れたね」
【ユナ】「……うん」
【美咲】「じゃあ、今日はもう頑張らなくていいよ」
ユナは小さく頷いた。
その様子を、周囲の大人たちは黙って見つめている。
誰も動かなかった。
たぶん。
どうしていいのか分からないのだ。
私も分からない。
でも。
少なくとも今は。
この子をもう一度、魔法陣の上に立たせる必要なんてない。
【美咲】「ユナちゃん、お水飲む?」
【ユナ】「……飲みたい」
【美咲】「分かった」
私は立ち上がった。
その瞬間。
【レオン】「待ってくれ」
レオンの声がした。
振り返る。
レオンは手に魔力測定器を持っていた。
【レオン】「その前に、もう一度だけ測定したい」
ユナの身体が強張った。
私はすぐに気づいた。
【美咲】「……今ですか?」
【レオン】「ああ。暴走前後の数値を比較したい」
【美咲】「でも、この子は今、怖がってます」
【レオン】「分かっている」
【美咲】「だったら」
【レオン】「だからこそ、必要なんだ」
レオンの表情は真剣だった。
【レオン】「暴走後に魔力が安定した原因を、できるだけ正確に記録したい」
【美咲】「……」
研究者として言っているのだと分かる。
この瞬間を逃したくないのだろう。
私だって知りたい。
知りたいけれど。
目の前のユナは、まだ涙の跡を頬に残している。
【美咲】「レオンさん」
【レオン】「何だ?」
【美咲】「研究のためなら、今この子に我慢させてもいいんですか?」
レオンが黙った。
【美咲】「この子が怖がってるのに、『ちょっとだけだから』って測るのは……昨日までと同じじゃないですか?」
その言葉に。
レオンの目がわずかに揺れた。
数秒。
誰も喋らない。
やがて。
【レオン】「……そうだな」
レオンは測定器を下ろした。
【レオン】「私が焦っていた」
【美咲】「……」
【レオン】「すまない」
その言葉は。
ユナに向けられたものだった。
【ユナ】「……」
ユナはレオンを見たあと。
私の服の裾を小さく握った。
私はその手を包むように握った。
【美咲】「じゃあ、今日はお休みにしましょう」
【レオン】「ああ」
レオンは頷いた。
けれど。
その横顔には。
研究者としての強い興味が残っていた。
* * *
ユナを休養室へ連れていったあと。
私は記録を書いていた。
――午前十一時四十二分。
――魔力暴走発生。
――強い恐怖反応。
――「失敗してもいい」と声をかけたところ、魔力の変動が一時的に停止。
――泣いたあと、魔力値が安定。
ペンを走らせながら。
私はふと手を止めた。
【美咲】「……泣いたあと」
その言葉を見つめる。
泣いたから魔力が安定した。
でも。
本当に「泣いたこと」が原因なのだろうか。
それとも。
泣いても怒られなかったこと。
怖いと言っても受け入れてもらえたこと。
頑張らなくてもいいと言われたこと。
そっちが重要なのではないだろうか。
私は記録の下に、新しい項目を書き足した。
――安心。
そして、その横に。
小さく丸をつけた。
* * *
昼食の時間。
ユナは休養室で眠っている。
私は食堂へ戻った。
ノアとリリィは、いつもの席に座っていた。
【ノア】「美咲!」
【美咲】「どうしたの?」
【ノア】「今日、遅かったね」
【美咲】「ちょっとお仕事してたの」
【ノア】「お仕事?」
【美咲】「うん」
私は椅子に座る。
すると。
【ノア】「ユナ、大丈夫?」
私は少し驚いた。
【美咲】「知ってたの?」
【ノア】「うん。すごい音したから」
【リリィ】「……怖かった」
リリィが小さく呟いた。
私は二人を見る。
【美咲】「大丈夫だよ。ユナちゃんは今、寝てる」
【ノア】「魔力、止まった?」
【美咲】「うん」
【ノア】「どうやって?」
私は答えようとして。
ふと。
ノアの顔を見た。
【美咲】「……ノアくんは、どう思う?」
【ノア】「僕?」
【美咲】「うん」
ノアは少し考えた。
【ノア】「ユナちゃん、怖かったんじゃない?」
【美咲】「どうしてそう思ったの?」
【ノア】「だって、魔力が変だったから」
【美咲】「魔力で分かるの?」
【ノア】「……うん」
ノアは少し恥ずかしそうに俯いた。
【ノア】「僕、魔力は弱いけど……人の魔力は、なんとなく分かる」
私は息を呑んだ。
昨日。
レオンと話していたことを思い出す。
ノアは魔力が弱い。
だから才能がない。
そう評価されている。
でも。
もしかしたら。
この子には、この子にしかできないことがある。
【美咲】「ノアくん」
【ノア】「なに?」
【美咲】「それって、すごいことだよ」
【ノア】「……でも、魔力弱いよ?」
【美咲】「うん」
【ノア】「魔法もあんまり使えない」
【美咲】「うん」
【ノア】「じゃあ、すごくないよ」
ノアは寂しそうに笑った。
私は胸が痛くなった。
【美咲】「じゃあ、質問」
【ノア】「?」
【美咲】「人の魔力が変わったことに気づける人って、この中に何人いるかな?」
【ノア】「……」
【美咲】「私は気づけないこともあるよ」
【ノア】「美咲も?」
【美咲】「うん」
【ノア】「……レオンさんは?」
【美咲】「レオンさんも、魔道具を使わないと分からないことがある」
ノアが目を丸くした。
【美咲】「だから、ノアくんにしかできないことがあるんじゃないかな」
【ノア】「……僕にしか?」
【美咲】「うん」
ノアはしばらく黙っていた。
そして。
【ノア】「……じゃあ、僕、ユナちゃんの魔力見ててもいい?」
【美咲】「もちろん」
ノアの表情が。
ほんの少しだけ明るくなった。
* * *
午後。
ユナはまだ眠っていた。
休養室の窓からは、柔らかな日差しが差し込んでいる。
ベッドの横には、ノアが座っていた。
私は少し離れた椅子に座り、二人を見守っている。
ノアはユナの寝顔をじっと見ていた。
【ノア】「……小さくなってる」
【美咲】「何が?」
【ノア】「魔力」
【美咲】「分かるの?」
【ノア】「うん」
ノアは自分の胸元を指差した。
【ノア】「さっきは、ここが痛いくらい大きかった」
【美咲】「胸が?」
【ノア】「うん。でも今は……」
ノアは目を細める。
【ノア】「ふわふわしてる」
【美咲】「ふわふわ?」
【ノア】「うん。怖くない感じ」
私は記録用紙を取り出した。
ノアの言葉を、そのまま書き留める。
すると。
ベッドの上で、ユナが身じろぎした。
【ユナ】「……ん」
【美咲】「ユナちゃん?」
ユナがゆっくり目を開ける。
【ユナ】「……ここ、どこ?」
【美咲】「休養室だよ」
【ユナ】「……魔法の練習は?」
【美咲】「今日はお休み」
【ユナ】「……怒られる?」
【美咲】「怒られないよ」
ユナは少し安心したように目を閉じた。
【ユナ】「……よかった」
その瞬間。
ノアが顔を上げた。
【ノア】「……今」
【美咲】「どうしたの?」
【ノア】「魔力、もっと小さくなった」
私はユナを見る。
特に変化はない。
けれど。
私の《観察眼》が反応した。
――対象:ユナ・ベル
――精神状態:安心
――魔力:安定
そして。
その下に。
昨日までは表示されなかった項目が浮かんだ。
――感情と魔力の同期率:上昇
私は息を止めた。
【美咲】「……同期率?」
初めて見る表示だった。
私は目を凝らす。
けれど。
それ以上の説明は出てこない。
【美咲】「何これ……」
【ノア】「美咲?」
【美咲】「ううん。なんでもない」
私は表示を閉じた。
けれど。
頭の中には、その言葉が残っていた。
感情と魔力。
同期。
やっぱり。
ただの偶然ではない。
* * *
夕方。
研究室にはレオンがいた。
私は今日の記録をすべて渡した。
レオンは黙って目を通していく。
【レオン】「……ユナの魔力は、泣いたあとに安定した」
【美咲】「正確には、泣くことを許されたあとです」
【レオン】「そうだな」
【美咲】「それから、安心したときにも魔力が安定しました」
【レオン】「……」
レオンは記録を見つめる。
【レオン】「興味深い」
【美咲】「またそれ言ってますね」
【レオン】「研究者だからな」
【美咲】「便利な言葉ですね」
レオンは少しだけ笑った。
今度は。
私にも分かった。
【美咲】「やっぱり笑ってる」
【レオン】「……」
【美咲】「認めましたね?」
【レオン】「君は細かいな」
【美咲】「観察してるんですよ」
【レオン】「なるほど」
レオンは記録を机に置いた。
【レオン】「一つ、仮説がある」
【美咲】「何ですか?」
【レオン】「魔力は感情によって変化するだけではない」
【美咲】「……」
【レオン】「感情が変化した結果、魔力の性質そのものが変わっている可能性がある」
【美咲】「性質?」
【レオン】「例えば、恐怖を感じたときの魔力と、安心しているときの魔力。同じ量でも、反応が違う」
私はノアの言葉を思い出した。
――大きい。
――痛い。
――ふわふわしてる。
【美咲】「ノアくんも、そう言ってました」
【レオン】「ノアが?」
【美咲】「はい。ユナちゃんの魔力を『ふわふわしてる』って」
レオンが考え込む。
【レオン】「……やはり」
【美咲】「何か思いつきました?」
【レオン】「いや。まだ何とも言えない」
レオンはそう言いながら。
記録用紙の一番下に目を止めた。
そこには私が書いた一文がある。
――安心させることで、魔力が安定した。
【レオン】「美咲」
【美咲】「はい」
【レオン】「君は、このことをどう思う?」
【美咲】「どうって?」
【レオン】「もし本当に、感情が魔力を左右しているのなら」
レオンは窓の外を見る。
夕暮れの空が、赤く染まっていた。
【レオン】「今までの魔力教育は、根本から見直す必要がある」
私は黙った。
【美咲】「……ですよね」
【レオン】「だが、証拠が足りない」
【美咲】「だったら」
私は立ち上がった。
【美咲】「集めましょう」
【レオン】「何を?」
【美咲】「証拠です」
レオンがこちらを見る。
【美咲】「子どもたちを守るために必要なら、ちゃんと証明しましょう」
レオンはしばらく私を見つめていた。
そして。
【レオン】「……分かった」
静かに頷いた。
【レオン】「共同研究だ」
【美咲】「共同研究?」
【レオン】「私と君で、この現象を調べる」
【美咲】「……私、本当に研究者じゃないですよ?」
【レオン】「君は子どもを見る」
【美咲】「はい」
【レオン】「私は魔力を見る」
レオンは記録用紙を二つに分けた。
【レオン】「ならば、二人で一つのものを見ればいい」
私はその言葉を聞いて。
なぜだか少しだけ嬉しくなった。
異世界に来てから。
何も分からないことばかりだった。
魔法も。
この国の常識も。
自分自身のことさえ。
でも。
初めて。
この世界で、一緒に考えてくれる人ができた気がした。
* * *
その夜。
子どもたちが眠ったあと。
私は一人で中庭に出た。
夜風が頬を撫でる。
昼間の騒ぎが嘘のように静かだった。
花壇の前にしゃがむ。
すると。
少し離れたところから、足音が聞こえた。
【ミア】「……みさき」
【美咲】「ミアちゃん?」
振り返る。
ミアが裸足のまま立っていた。
【美咲】「どうしたの? 寝てたんじゃないの?」
【ミア】「……おきた」
【美咲】「そっか」
ミアは私の隣まで歩いてくる。
そして。
花壇を見つめた。
【ミア】「……きょう」
【美咲】「うん?」
【ミア】「ユナ、いっぱいないてた」
【美咲】「そうだね」
【ミア】「かなしかった」
【美咲】「うん」
ミアはしばらく黙った。
それから。
小さな手を花へ伸ばす。
指先に、銀色の光が灯った。
ふわり。
花びらが揺れる。
【ミア】「……もう、かなしくないよ」
銀色の光が。
夜の花壇を淡く照らした。
私はその光を見つめる。
すると。
胸の奥で。
何かが繋がったような感覚がした。
リリィ。
ノア。
ユナ。
そして。
ミア。
この子たちは。
それぞれ違う。
魔力の量も。
性格も。
境遇も。
でも。
もしかしたら。
共通しているのは。
「魔力の強さ」ではなく。
魔力と感情の距離なのかもしれない。
私はミアの銀色の光を見ながら。
静かに息を吐いた。
この世界には。
まだ誰も知らない魔法の仕組みがある。
そして。
その鍵を握っているのは。
大人たちではなく。
この小さな子どもたちなのかもしれなかった。




