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失敗してもいい


 翌朝。


 私は食堂へ向かう廊下を歩いていた。


 窓から差し込む朝の光が、長い廊下の床に細長い影を作っている。


 昨日までなら、ただ綺麗だと思っていただろう。


 けれど今は。


 窓辺に置かれた魔道具。


 壁に刻まれた魔法陣。


 子どもたちが通り過ぎるたびに淡く揺れる照明。


 そういったものを見るたびに、私は考えてしまう。


 この世界の魔法は、本当に私が思っているようなものなのだろうか。


 魔力が強い。


 魔力が弱い。


 魔力が多い。


 魔力が少ない。


 それだけで、その人の価値が決まるような世界。


 昨日、レオンが言っていた。


 魔力暴走を起こす子どもは、ここ五年で増え続けている。


 偶然なのだろうか。


 それとも。


 何か理由があるのだろうか。


 そんなことを考えていると。


 食堂の扉が見えてきた。


 その前で、私は足を止めた。


 扉の隙間から、小さな声が聞こえる。


【リリィ】「……ごめんなさい」


 私は眉を寄せた。


 扉を少しだけ開ける。


 中には、リリィがいた。


 テーブルの前に立っている。


 その足元には、割れた食器。


 白い皿が、床の上でいくつかの欠片になっていた。


 その隣には、若い職員が立っている。


【職員】「リリィ様、昨日も申し上げましたよね」


【リリィ】「……はい」


【職員】「食器は丁寧に扱ってください」


【リリィ】「……ごめんなさい」


【職員】「あなたほどの魔力をお持ちなら、これくらい簡単に――」


 そこで、職員の言葉が止まった。


 私が扉のところに立っていることに気づいたからだ。


【美咲】「おはようございます」


【職員】「……おはようございます」


 職員は少し気まずそうに頭を下げた。


 私は床を見る。


 割れた皿。


 そのすぐ近くには、スープの跡が残っている。


 私はリリィの手を見る。


 指先が震えている。


 呼吸が浅い。


 そして。


 周囲の魔力が、ほんの少しだけ揺れている。


【美咲】「リリィちゃん」


【リリィ】「……はい」


【美咲】「怪我してない?」


【リリィ】「……してません」


【美咲】「よかった」


 私はしゃがんで、床に落ちた皿の欠片を見た。


【美咲】「これ、どうしたの?」


【リリィ】「……持とうとして」


【美咲】「うん」


【リリィ】「手が……滑って」


【美咲】「そっか」


 私は頷いた。


 それだけだった。


 怒らない。


 責めない。


 ただ、起きたことを聞く。


【美咲】「じゃあ、次はどうしようか」


【リリィ】「……」


【美咲】「落としちゃったら、拾えばいいよ」


【リリィ】「……怒らないの?」


【美咲】「どうして怒るの?」


 リリィが私を見る。


 紫がかった瞳が、不安そうに揺れている。


【リリィ】「……お皿、割ったから」


【美咲】「お皿はまた買えるよ」


【リリィ】「……でも」


【美咲】「リリィちゃんの手は、一つしかないでしょ?」


 リリィは黙った。


 私は笑う。


【美咲】「だから、怪我してないなら、それでいいの」


 その瞬間。


 リリィの周囲に漂っていた魔力が、少しだけ静かになった。


 やっぱり。


 この子は「失敗したこと」より。


 失敗したときに怒られることを恐れている。


 私はそう確信した。


 * * *


 朝食のあと。


 私はマルタ院長の部屋へ向かった。


 扉をノックする。


【マルタ】「どうぞ」


【美咲】「失礼します」


 部屋に入ると、マルタ院長は机の前に座っていた。


 壁一面の本棚。


 古い魔導書。


 子どもたちの記録がまとめられた分厚いファイル。


 その中には、魔力測定の結果が並んでいる。


 私は少し迷った。


【美咲】「院長」


【マルタ】「はい」


【美咲】「リリィちゃんについて、教えてもらえませんか?」


 マルタ院長の手が止まった。


【マルタ】「……リリィですか?」


【美咲】「はい」


【マルタ】「何かありましたか?」


【美咲】「今朝、お皿を割ってしまって」


【マルタ】「……なるほど」


【美咲】「そのとき、すごく怯えていました」


 マルタ院長はしばらく黙っていた。


 そして。


 一冊のファイルを取り出した。


 表紙には。


 『リリィ・アルヴァ』


 そう書かれている。


【マルタ】「リリィ様は、三歳の頃から魔力測定の数値が非常に高かったんです」


【美咲】「三歳から?」


【マルタ】「ええ」


 マルタ院長はページをめくった。


【マルタ】「四歳になった頃には、同年代の平均を大きく上回っていました」


【美咲】「だから、天才だと言われた?」


【マルタ】「はい」


 ページには、細かな記録が並んでいる。


 魔力値。


 魔法適性。


 制御能力。


 成長率。


 そのほとんどに、優秀を示す評価がつけられていた。


【マルタ】「侯爵家のお嬢様ですから、周囲の期待も大きかったのでしょう」


【美咲】「……期待」


【マルタ】「将来は宮廷魔導師に」


【美咲】「四歳なのに?」


【マルタ】「この国では、珍しいことではありません」


 私はファイルを見る。


 そこには、リリィが受けた訓練の記録まであった。


 魔法文字。


 魔法陣。


 詠唱。


 魔力制御。


 礼儀作法。


 集中訓練。


 毎日のように続く訓練。


【美咲】「……休みは?」


 マルタ院長が黙った。


【美咲】「院長?」


【マルタ】「……ほとんどありません」


 胸が詰まった。


【美咲】「どうして?」


【マルタ】「リリィ様自身が嫌がったわけではありません」


【美咲】「でも」


【マルタ】「周囲が、彼女にはできると思っていたのです」


 私はファイルの一ページを見つめた。


 そこには、小さな文字で記録が残されている。


 ――魔法制御訓練、成功。


 ――詠唱暗記、成功。


 ――魔力操作、成功。


 ――失敗、一回。


 その一行だけ。


 赤い線で囲まれていた。


【美咲】「……失敗だけ、目立つように書かれてる」


【マルタ】「ええ」


【美咲】「成功は当たり前で、失敗だけが問題になる」


【マルタ】「……そういう環境でした」


 私は黙った。


 胸の奥が、少し苦しくなる。


 日本にいた頃の自分を思い出した。


 仕事で失敗しないように。


 誰かに迷惑をかけないように。


 怒られないように。


 ちゃんとしなければ。


 そんなことばかり考えていた。


 できたことより。


 できなかったことばかり覚えている。


 私はリリィの気持ちが、少しだけ分かった気がした。


【美咲】「だから、あの子は失敗を怖がるんですね」


【マルタ】「……はい」


【美咲】「でも、それって魔力にも影響しますよね?」


 マルタ院長が顔を上げた。


【マルタ】「どういう意味ですか?」


【美咲】「失敗したら怒られる。怒られたくない。だから緊張する。緊張すると魔力が乱れる」


 私は昨日のことを思い返した。


【美咲】「昨日、リリィちゃんが絵を描いたときもそうでした」


【マルタ】「……」


【美咲】「筆を持つ手が震えていました。でも、『汚していい』って言ったら魔力が落ち着いた」


【マルタ】「……魔力が?」


【美咲】「はい」


 私は自分の手を見る。


【美咲】「もしかしたら、この子の魔力暴走は、魔力が強いから起きてるんじゃないのかもしれません」


 部屋が静まり返った。


 窓の外で、小鳥が鳴いている。


【マルタ】「……ですが」


【美咲】「はい」


【マルタ】「魔力が強い子ほど、暴走の危険が高いというのは、昔から――」


【美咲】「本当に、それだけでしょうか?」


 マルタ院長は答えなかった。


 * * *


 午後。


 子どもたちは魔法の基礎訓練を受ける時間だった。


 私は少し離れたところから見学していた。


 広い訓練室。


 床には円形の魔法陣がいくつも描かれている。


 子どもたちは一人ずつ、その中心に立っていた。


【教官】「では、魔力を一定に保ってください」


 リリィが魔法陣の中央へ立つ。


 小さな手を胸の前に置く。


【教官】「リリィ様。昨日より魔力の出力が高くなっています」


【リリィ】「……はい」


【教官】「制御してください」


【リリィ】「はい」


 リリィの周囲に、淡い光が集まる。


 最初は安定していた。


 けれど。


 教官が一歩近づいた。


【教官】「もっと弱く」


【リリィ】「……はい」


 光が小さくなる。


【教官】「違います。弱くしすぎです」


【リリィ】「……はい」


 リリィの指先が震える。


【教官】「一定に」


【リリィ】「……はい」


 光が揺れる。


 教官の眉間に皺が寄った。


【教官】「リリィ様」


【リリィ】「……」


【教官】「失敗しないでください」


 その瞬間。


 空気が震えた。


 バンッ!


 魔法陣から光が弾ける。


 リリィが小さく息を呑んだ。


【リリィ】「……ごめんなさい!」


 私はすぐに駆け出した。


【美咲】「リリィちゃん!」


 魔力が暴れている。


 昨日より小さい。


 けれど、確実に乱れている。


【教官】「下がってください!」


【美咲】「大丈夫です!」


【教官】「危険です!」


【美咲】「リリィちゃん!」


 私は魔法陣の外から声をかける。


【美咲】「こっち見て!」


 リリィが顔を上げる。


 目には涙が溜まっていた。


【美咲】「大丈夫」


【リリィ】「……でも」


【美咲】「失敗したね」


【リリィ】「……っ」


【美咲】「うん。失敗した」


 リリィの瞳が大きく揺れる。


【美咲】「でも、それでいいよ」


【リリィ】「……いいの?」


【美咲】「うん」


 魔力の揺れが、少しだけ弱くなる。


【美咲】「もう一回やろう」


【リリィ】「……また?」


【美咲】「今度は、失敗してもいい」


 リリィの目から、一粒の涙が落ちた。


【リリィ】「……泣いても?」


【美咲】「うん」


【リリィ】「……怒らない?」


【美咲】「怒らないよ」


 リリィは小さく息を吐いた。


 すると。


 荒れていた魔力が、ゆっくりと落ち着いていった。


 光が消えていく。


 床の魔法陣も静かになった。


 私は、その様子を見ながら確信した。


 この子の魔力を暴れさせているもの。


 それは。


 魔力そのものではない。


 恐怖だ。


 失敗する恐怖。


 怒られる恐怖。


 期待に応えられない恐怖。


 それらが、魔力を揺らしている。


 そして。


 そのことに気づいている人は、この世界にはまだほとんどいない。


 * * *


 訓練室を出たあと。


 廊下には、レオンが立っていた。


【レオン】「……君は、本当に変わったことをするな」


【美咲】「何がですか?」


【レオン】「暴走した子どもに、失敗していいと言った」


【美咲】「だって、本当のことですから」


【レオン】「この国では、魔力制御に失敗することは危険なことだ」


【美咲】「それは分かります」


【レオン】「ならば、なぜ?」


 私は少し考えた。


【美咲】「失敗を怖がっている状態で、さらに『失敗するな』って言ったら、もっと怖くなるからです」


【レオン】「……」


【美咲】「怖いときに、怖がるなって言われても無理ですよ」


 レオンは黙って私を見る。


 その目は、以前より少しだけ変わっていた。


 疑っている。


 でも。


 否定しているわけではない。


【レオン】「……君の言うことには、興味深い点がある」


【美咲】「お?」


【レオン】「ここ五年、魔力暴走は増えている」


【美咲】「はい」


【レオン】「しかし、子どもたちの平均魔力量が、それほど大きく増えているわけではない」


【美咲】「……え?」


【レオン】「つまり、魔力の量だけでは説明がつかない」


 私は目を見開いた。


【美咲】「じゃあ……」


【レオン】「私も、そこを調べている」


 レオンは懐から小さな記録帳を取り出した。


【レオン】「五年間の暴走記録だ」


【美咲】「見てもいいんですか?」


【レオン】「君なら何か気づくかもしれない」


【美咲】「私なら?」


【レオン】「君は、魔力そのものより、人間を見ている」


 思わず言葉を失った。


 レオンは記録帳を私へ渡す。


【レオン】「だから聞きたい」


【美咲】「……何を?」


【レオン】「魔力暴走が起きる直前、子どもたちは何を感じている?」


 私は記録帳を受け取った。


 ページを開く。


 そこには、たくさんの子どもたちの名前と、暴走した日時、魔力量、魔法属性が並んでいる。


 けれど。


 私は、その中に一つだけ気になる項目を見つけた。


 ――暴走直前の状況。


 叱責。


 訓練。


 試験。


 失敗。


 親との面会。


 魔力測定。


 私はページをめくる。


 また。


 ページをめくる。


 また。


 そこに並んでいるのは。


 魔法の失敗ではなかった。


 子どもたちの感情を大きく揺らす出来事だった。


 私は、ゆっくりと顔を上げる。


【美咲】「レオンさん」


【レオン】「何だ?」


【美咲】「これ……」


【レオン】「気づいたか」


【美咲】「はい」


 私は記録帳を強く握った。


【美咲】「魔力暴走って……」


 その先の言葉が、なかなか出てこなかった。


 けれど。


 胸の奥では、もう一つの可能性が形になり始めていた。


 魔力が暴れるから、子どもたちが苦しんでいる。


 そうではない。


 もしかしたら。


 子どもたちが苦しんでいるから、魔力が暴れているのではないか。


 窓の外では、夕暮れの風が吹いていた。


 中庭の花が揺れる。


 その花のそばで。


 ミアがこちらを見ていた。


 銀色の光を、指先にまとわせながら。


【ミア】「……かなしい」


 小さな声だった。


 私は振り返る。


【美咲】「ミアちゃん?」


 ミアは花を見つめたまま。


 もう一度、呟いた。


【ミア】「……お花も、かなしい」


 その瞬間。


 花の周囲に。


 淡い銀色の光が、ふわりと広がった。

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