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はじめての朝ごはん


 リリィの小さな手が、私の袖をつまんでいる。


 青白い魔力の光が消えた部屋には、さっきまでの騒がしさが嘘のような静けさが戻っていた。


 床には、魔力で吹き飛ばされた積み木や木製の人形が散らばっている。


 壁際に置かれていた小さな机は横倒しになり、窓辺に飾られていた花瓶も床に転がっていた。


 けれど、今は誰もそれを片付けようとはしなかった。


 みんなの視線が、一人の少女に集まっている。


 リリィ。


 金色の髪をした、四歳の女の子。


 先ほどまで激しい魔力を放っていたとは思えないほど、今は静かだった。


 大きな瞳は眠たそうに細められ、長いまつ毛にはまだ涙が残っている。


 私はその顔を見ながら、少しだけ笑った。


【美咲】「やっぱり眠かったんだね」


 返事はない。


 代わりに、リリィの小さな指が私の袖をぎゅっと握った。


 その仕草に、胸の奥がきゅっとなる。


 こんなに小さい子が、ずっと我慢していたのだ。


 眠いことも。


 お腹が空いていることも。


 怖いことも。


 泣きたいことも。


 全部。


 私はしゃがんだまま、リリィと目線を合わせた。


【美咲】「リリィちゃん。お部屋に行って寝ようか」


 リリィはしばらく私の顔を見つめていた。


 そして。


 こくん。


 小さくうなずいた。


 その瞬間だった。


【???】「待ってくれ」


 背後から、低い声がした。


 私は振り返る。


 先ほどから部屋の隅に立っていた黒髪の青年が、こちらへ歩いてきていた。


 黒い外套。


 銀色の紋章。


 整った顔立ち。


 そして、どこか人を寄せ付けない鋭い目。


 彼はリリィを見ると、次に私へ視線を移した。


【???】「君は何者だ?」


【美咲】「え?」


【???】「この施設の職員ではないな」


【美咲】「今日から働く新人です」


【???】「今日から?」


【美咲】「はい」


 青年の眉がわずかに動いた。


【???】「……つまり、初日か」


【美咲】「そうですけど」


【???】「それで、初日にリリィの魔力暴走を止めた?」


【美咲】「止めたと言われても……」


 私は困ってしまった。


 自分では、本当に何もしていない。


【美咲】「眠そうだったので、寝ようって言っただけです」


【???】「それで魔力暴走が収まった」


【美咲】「はい」


【???】「ありえない」


【美咲】「でも、実際に収まりましたよね?」


 青年が黙った。


 確かにその通りだ。


 私も、どうしてこうなったのか分からない。


 ただ、目の前にいる子が苦しそうだった。


 だから、眠らせてあげようと思った。


 それだけなのだ。


 すると、青年の隣にいたマルタ院長が、少し困ったように口を開いた。


【マルタ】「レオン様。説明は後にしていただけませんか?」


【レオン】「……そうですね」


 レオン。


 それが、この青年の名前らしい。


【マルタ】「リリィは限界です。まずは休ませましょう」


【レオン】「分かりました」


 レオンはそう言って、一歩だけ後ろへ下がった。


 けれど、その視線はまだ私から離れない。


 なんとなく居心地が悪い。


 私はリリィの手を取った。


【美咲】「じゃあ、行こうか」


 リリィは無言のまま、私について歩き始めた。


 * * *


 魔力児童保護院には、年齢ごとにいくつかの部屋が用意されている。


 リリィの部屋は、窓から中庭が見える小さな個室だった。


 壁は淡いクリーム色。


 窓際には白いカーテン。


 部屋の中央には、小さな木製のベッドが置かれている。


 枕元には、ぬいぐるみが二つ。


 どちらも少し古びているけれど、大切に使われていることが分かった。


 私はリリィをベッドに座らせた。


【美咲】「靴、脱ごうか」


 リリィはこくんとうなずく。


 小さな靴を脱がせ、ベッドへ横にする。


 掛け布団を胸元までかけると、リリィは目を閉じた。


 そのまま眠るのかと思った。


 けれど。


 数秒後。


 ぱちり。


 目が開いた。


【美咲】「どうしたの?」


 リリィは何も言わない。


 ただ、私の服の裾をつまんだ。


【美咲】「……そばにいたほうがいい?」


 こくん。


 また、うなずいた。


 私はベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろした。


【美咲】「分かった。ここにいるよ」


 それを聞いたリリィは、ようやく安心したように目を閉じた。


 規則正しい寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。


 私は眠ったリリィの顔を見つめながら、そっと息を吐いた。


【美咲】「……かわいいな」


 すると。


 背後から、誰かの気配がした。


 振り返ると、ドアの隙間からマルタ院長がこちらを見ている。


【マルタ】「驚きました」


【美咲】「何がですか?」


【マルタ】「リリィが、あんなに素直に眠るなんて」


【美咲】「いつもは眠らないんですか?」


 マルタ院長は少しだけ表情を曇らせた。


【マルタ】「……眠っても、すぐに目を覚ましてしまいます」


【美咲】「どうして?」


【マルタ】「夜になると、魔力が乱れることがあるのです」


【美咲】「魔力が?」


【マルタ】「はい。悪夢を見たり、強い不安を感じたりすると、魔力が漏れ出してしまいます」


 私は眠っているリリィを見る。


 小さな胸が、ゆっくり上下している。


【美咲】「それなら……ちゃんと眠れるようになれば、魔力も安定するんじゃないですか?」


 マルタ院長は答えなかった。


 ただ、どこか複雑そうな顔でリリィを見つめていた。


 * * *


 リリィが眠ってから、一時間ほど経った。


 私は食堂へ案内された。


 広い部屋だった。


 長い木製のテーブルが四列並び、その上には白いクロスが敷かれている。


 壁際には大きな暖炉。


 天井からは、ガラス玉のような魔石灯がいくつも吊り下げられている。


 窓の外には中庭が広がっていた。


 朝の光が差し込み、濡れた芝生がきらきらと輝いている。


 そして何より。


 いい匂いがする。


【美咲】「……おいしそう」


 テーブルの上には、湯気の立つスープ。


 焼きたてらしいパン。


 果物。


 そして、小さな器に入った卵料理。


 異世界に来てから何も食べていなかった私は、思わずお腹を押さえた。


【マルタ】「朝食は毎日、ここで食べます」


【美咲】「子どもたちも?」


【マルタ】「もちろんです」


【美咲】「よかった」


 そのとき。


 椅子が床を擦る音がした。


 振り返る。


 一人の男の子が、少し離れた席に座っていた。


 茶色の髪。


 細い体。


 少し大きめの服。


 手にはパンを持っている。


 けれど、食べてはいない。


 こちらをじっと見ていた。


【マルタ】「ああ。彼がノアです」


【美咲】「ノアくん?」


 男の子は警戒するように私を見つめた。


【ノア】「……新人?」


【美咲】「うん。今日から働くことになったの」


【ノア】「ふーん」


 ノアは興味がなさそうに視線を逸らした。


 私はそのまま近づいた。


【美咲】「隣、座ってもいい?」


【ノア】「……好きにすれば」


 許可が出たので、私は隣の椅子に座った。


 テーブルの上には、ノアが手をつけていないパンが一つ。


 スープも、ほとんど減っていない。


【美咲】「食べないの?」


【ノア】「いらない」


【美咲】「お腹空いてない?」


【ノア】「空いてない」


 けれど。


 ノアのお腹が、小さく鳴った。


 ぐぅ。


 私とノアの目が合った。


 ノアは顔を真っ赤にした。


【ノア】「……今のは違う」


【美咲】「うん」


【ノア】「お腹が鳴ったんじゃない」


【美咲】「うん」


【ノア】「……絶対に笑うなよ」


【美咲】「笑ってないよ」


 私は笑いをこらえながら答えた。


 ノアはしばらく黙っていた。


 そして、パンを少しだけちぎった。


 口に入れる。


 もぐもぐと噛む。


 もう一口。


 今度は少し大きくちぎった。


 私は何も言わずに見守った。


 そのときだった。


 ノアの周囲に、ごく小さな光が浮かんだ。


 淡い青色。


 蛍のような光が一瞬だけ現れ、すぐに消えた。


 私は目を瞬いた。


【美咲】「……今の、何?」


 ノアの顔が強張った。


【ノア】「見た?」


【美咲】「うん」


【ノア】「……やっぱり」


 ノアは俯いた。


【美咲】「どうしたの?」


【ノア】「気持ち悪いって言われるから」


【美咲】「え?」


【ノア】「僕の魔力、弱いから」


 その言葉に、私は黙った。


 魔力が弱い。


 それが、この世界では悪いことなのだろうか。


【ノア】「魔力が強い子は偉いんだって」


【美咲】「誰に言われたの?」


【ノア】「みんな」


 ノアはパンを見つめた。


【ノア】「僕は、何にもできない」


 その声は小さかった。


 でも。


 その瞬間。


 頭の奥で、再びあの感覚がした。


【観察眼】《観察眼が発動しました》


 視界に淡い文字が浮かぶ。


【観察眼】《対象:ノア・グレン》


【観察眼】《魔力:微弱》


【観察眼】《特記事項:周囲の魔力変動に対する感知能力が非常に高い》


 私は思わずノアを見つめた。


【美咲】「……ノアくん」


【ノア】「何?」


【美咲】「魔力、弱くないよ」


 ノアが顔を上げる。


【ノア】「……嘘」


【美咲】「嘘じゃない」


【ノア】「だって、測定したらいつも一番下だ」


【美咲】「じゃあ、魔力の強さ以外に得意なことがあるのかもしれないよ」


【ノア】「そんなの、ない」


【美咲】「本当に?」


【ノア】「……ない」


【美咲】「じゃあ、これから一緒に探そう」


 ノアは何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ。


 口元が緩んだ。


 * * *


 その日の昼。


 もう一人の子どもが、私の前に現れた。


 小さな女の子だった。


 三歳くらい。


 ふわふわした淡い銀色の髪。


 大きな紫色の瞳。


 そして。


 とにかく眠そうだった。


 彼女は私の前まで来ると、何も言わずに両手を上げた。


【美咲】「……?」


 私は首を傾げた。


【美咲】「抱っこ?」


 女の子は、こくん。


 私はしゃがんで、彼女を抱き上げた。


 軽い。


 あまりにも軽い。


 小さな体を腕に抱えると、女の子は私の肩に頬を乗せた。


【美咲】「名前、教えてくれる?」


 返事はない。


【マルタ】「ミアです」


【美咲】「ミアちゃん?」


【マルタ】「はい。三歳です」


【美咲】「よろしくね、ミアちゃん」


 ミアは私の肩に顔を埋めたまま、少しだけ動いた。


 そして。


 私の髪を指先でつまんだ。


【美咲】「髪、気になる?」


 こくん。


【美咲】「好き?」


 こくん。


 私は思わず笑った。


【美咲】「そっか」


 その瞬間。


 廊下の奥から、レオンが歩いてきた。


 彼は私の腕の中にいるミアを見ると、足を止めた。


【レオン】「……ミアを抱いているのか」


【美咲】「はい」


【レオン】「すぐに降ろしたほうがいい」


【美咲】「どうしてですか?」


【レオン】「その子は魔力測定ができない」


【美咲】「……測定が?」


【レオン】「魔力核が存在しないのか、測定器が反応しないのか。まだ原因が分かっていない」


 私は腕の中のミアを見る。


 ミアは何も気にしていない。


 私の髪をいじりながら、眠そうに瞬きをしている。


【美咲】「でも、普通に元気そうですよ?」


【レオン】「そう見えるだけかもしれない」


【美咲】「レオンさん」


【レオン】「何だ」


【美咲】「子どもって、そんなに危険なものなんですか?」


 レオンが黙った。


 私は続けた。


【美咲】「リリィちゃんも、ノアくんも、ミアちゃんも」


【美咲】「みんな、普通の子どもに見えます」


【レオン】「……普通?」


【美咲】「はい」


【レオン】「彼らは普通ではない」


 レオンの声は冷たかった。


【レオン】「魔力を持つ子どもは、感情一つで周囲を傷つけることがある」


【美咲】「でも」


 私はミアの背中をゆっくり撫でた。


【美咲】「だからって、怖がらせたり我慢させたりしたら、もっと苦しくなるんじゃないですか?」


 レオンの目が細くなる。


【レオン】「……君は、何も知らない」


【美咲】「そうですね」


 私は素直に答えた。


【美咲】「私は、この世界の魔法について何も知りません」


【美咲】「だからこそ、子どもたちのことをちゃんと見たいんです」


 レオンはしばらく私を見ていた。


 やがて、視線をミアへ移す。


 ミアは私の腕の中で、静かに目を閉じていた。


【レオン】「……その子を抱いているとき、何か感じないか?」


【美咲】「何か?」


【レオン】「魔力だ」


 私はミアを見る。


 何も感じない。


 いや。


 正確には――。


 ほんの少しだけ、温かい。


 陽だまりのような、不思議な温かさ。


 けれど、それが魔力なのかどうかは分からなかった。


【美咲】「……温かいです」


 レオンの表情が変わった。


【レオン】「何?」


【美咲】「ミアちゃん、温かいです」


 レオンはしばらく黙っていた。


 そして。


 初めて見るような顔で、ミアを見つめた。


 その視線には、驚きだけではない。


 困惑。


 警戒。


 そして――わずかな期待。


 そんなものが混ざっているように見えた。


 私はその表情を見ながら、ふと思った。


 この施設には。


 私がまだ知らない何かがある。


 * * *


 夕方。


 子どもたちが眠りについたあと。


 私は廊下を一人で歩いていた。


 窓の外は、すっかり暗くなっている。


 昼間は明るかった中庭も、今は青い月明かりに照らされていた。


 遠くで風が木々を揺らしている。


 私は今日一日のことを思い返した。


 リリィ。


 ノア。


 ミア。


 三人とも、全然違う。


 けれど。


 共通していることが一つある。


 みんな、自分のことを「困った子」だと思われている。


 リリィは魔力が強すぎる。


 ノアは魔力が弱すぎる。


 ミアは魔力が測定できない。


 だから。


 この子たちは特別扱いされている。


 でも。


 本当に必要なのは、特別な訓練なのだろうか。


 そんなことを考えながら歩いていると。


 廊下の先から声が聞こえた。


【レオン】「……魔力暴走の発生件数は、今年に入ってから三割増加しています」


 私は足を止めた。


 声の主は、レオンだった。


 扉の向こうから、別の職員の声も聞こえる。


【職員】「それでも、制御訓練を強化するしかありません」


【レオン】「それで改善しているのか?」


【職員】「……」


【レオン】「むしろ悪化している」


 私は、そっと扉の前から離れた。


 胸の奥に、嫌な予感が残った。


 今日。


 私は三人の子どもに出会った。


 そして、その三人とも。


 「魔力」に関して、何かがおかしい。


 リリィの魔力暴走。


 ノアの特殊な感知能力。


 そして、ミアの測定不能な魔力。


 偶然だろうか。


 それとも。


 この保育院そのものが、何か大きな秘密を抱えているのだろうか。


 私はまだ知らない。


 この小さな子どもたちとの出会いが。


 やがて、この国の常識そのものを変えていくことを。


 ただ、この日の夜。


 初めて私は、そう思った。


 ――もっと、この子たちのことを知りたい。


 そして。


 もっと、この世界のことを知りたい、と。

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