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魔法より先に、眠りましょう



 子どもが泣いていた。


 激しく降り続く雨の音に混じって聞こえた、か細い泣き声だった。


 私は足を止め、周囲を見回した。


 夜の街は、雨に濡れてぼんやりと滲んでいる。街灯の明かりは水たまりに揺らめき、行き交う車のヘッドライトが白い筋となって視界を横切っていた。


 泣き声は、横断歩道の向こう側から聞こえてくる。


 見ると、傘を落とした小さな女の子が、歩道の端にしゃがみ込んでいた。濡れた髪が頬に張りつき、両手で顔を覆っている。


 信号は赤だった。


 けれど、女の子のすぐそばまで、一台の車が迫っていた。


 私は考えるより先に走り出していた。


【美咲】「大丈夫! 今、行くから!」


 雨で滑る靴底を踏ん張りながら、横断歩道へ駆け込む。


 クラクションが鳴り響いた。


 耳をつんざくような音。


 濡れたアスファルト。


 伸ばした手の先にいる、泣きじゃくる女の子。


 そして――。


 視界を焼くような、眩しい光。


 それが、私の記憶の最後だった。


 * * *


【美咲】「……つまり、私は死んだんですね」


 そう尋ねると、目の前にいる女性は、あっさりとうなずいた。


【女神】「はい」


 そこは、どこまでも真っ白な空間だった。


 床も壁も天井もない。遠近感すら曖昧で、どこを見ても白い景色が続いている。けれど、不思議と目が痛くなることはなかった。


 音もない。


 風もない。


 それなのに、なぜか息苦しさは感じなかった。


 女性は、白い長衣の裾を整えながら、穏やかな笑みを浮かべている。長い銀色の髪が、光の中で淡く輝いていた。


【美咲】「すみません」


【女神】「何がですか?」


【美咲】「いえ……なんというか。神様って、もっと感動的なことを言うのかなと思っていたので」


 私がそう言うと、女性は少しだけ目を細めた。


【女神】「期待に添えず、申し訳ありません」


【美咲】「いえ、こちらこそすみません」


 反射的に頭を下げてから、私は小さく息を吐いた。


 死んだ。


 その事実は、思っていたよりも現実味がなかった。


 ついさっきまで、私は日本で働いていた。二十七歳。都内の会社に勤める、ごく普通の会社員だった。


 仕事帰りに雨に降られ、コンビニで夕食を買って帰るはずだった。


 それなのに、今はもう、戻る場所がない。


【女神】「あなたをここへ呼んだ理由は、一つです」


 女性の声が、静かな空間に響いた。


【女神】「あなたには、別の世界で生きてもらいます」


【美咲】「別の世界……」


【女神】「はい」


 あまりにも自然に告げられたため、私は一瞬、聞き間違いかと思った。


【女神】「あなたには、その世界で新しい人生を始めてもらいます」


 私はしばらく黙り込んだ。


 死んだことも、異世界へ行くことも、まだ完全には理解できていない。


 けれど、もう一度生きられるのなら。


 今度は、少し違う生き方ができるのだろうか。


【美咲】「……何か、特別な力はもらえるんですか?」


【女神】「一つだけ」


【美咲】「一つだけ?」


【女神】「《観察眼》です」


 女性が右手を軽く掲げると、淡い光の粒が指先からこぼれ落ちた。


【美咲】「具体的に何ができるんですか?」


 私が尋ねると、女性は少しだけ首を傾けた。


【女神】「やってみれば、わかります」


【美咲】「……それだけですか?」


【女神】「それだけです」


 あまりにもあっさりした答えに、私は思わず苦笑した。


【美咲】「ずいぶん曖昧ですね」


【女神】「力というものは、使う人によって形を変えるものですから」


 女性は、静かに微笑んだ。


【女神】「あなたには、子どもたちと生きてもらいます」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった。


 日本で働いていた頃、私はいつも誰かの顔色をうかがっていた。


 上司が忙しそうなら声をかけない。


 同僚が疲れていれば仕事を引き受ける。


 家族から連絡が来れば、どれだけ疲れていてもすぐに返信する。


 誰かの役に立てることは嬉しかった。


 けれど、自分が疲れていることには、いつも気づかないふりをしていた。


【女神】「今度は、あなた自身も大切にできる人生を」


 女性の声が、遠くから聞こえた。


 次の瞬間、白い世界が光に包まれた。


 * * *


【美咲】「……大きい」


 ルミナリア王国。


 王都の中心に建つ巨大な建物を見上げながら、私は思わず呟いた。


 高くそびえる石造りの壁には、蔦のような銀色の装飾が絡みついている。正門の両脇には青い炎を灯した街灯が並び、風が吹くたびに炎の先端が細く揺れていた。


 建物の中央には、空へ伸びる時計塔がある。


 文字盤には見慣れない記号が刻まれているのに、なぜか時間だけは理解できた。


 門の上には、金色の文字が掲げられている。


 ――魔力児童保護院。


 私は手元の書類に視線を落とした。


 今日から、ここで働くことになっている。


【美咲】「本当に、ここで働くんだ……」


 異世界。


 魔法。


 そして、子どもたち。


 最後だけは、日本にいた頃と変わらない。


 私は胸の前で両手を握り、ゆっくりと深呼吸した。


 冷たい朝の空気が肺に入り、少しだけ気持ちが落ち着く。


 門をくぐると、石畳の向こうに広い中庭が見えた。色とりどりの花が咲き、噴水の水が陽光を受けてきらめいている。


 その奥にある建物の扉が開き、一人の女性が姿を現した。


 五十代くらいだろうか。


 栗色の髪をきっちりとまとめ、深い緑色のローブを身につけている。柔らかな表情をしているが、背筋はまっすぐで、歩き方には迷いがなかった。


【マルタ】「新人の方ですね?」


【美咲】「はい!」


 私は慌てて頭を下げた。


【美咲】「本日からお世話になります。美咲と申します」


【マルタ】「ミサキさんですね。私は院長のマルタです。こちらこそ、今日からよろしくお願いします」


 マルタ院長は、私の顔をじっと見たあと、穏やかに微笑んだ。


【マルタ】「長旅で疲れているでしょうが、さっそく子どもたちのいる部屋へ案内します」


【美咲】「はい、お願いします」


 建物の中へ入ると、外から見た以上に広いことがわかった。


 高い天井には、いくつもの魔石灯が浮かんでいる。淡い黄色の光が廊下を照らし、壁に掛けられた絵画や、子どもたちが描いたらしい色鮮やかな絵を浮かび上がらせていた。


 遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。


 その声に混じって、何かが弾けるような音も聞こえた。


 私は足を止めた。


【美咲】「今の音は……?」


 マルタ院長の表情が、わずかに曇る。


【マルタ】「また、魔力が乱れたようです」


 院長はそう言うと、長いスカートの裾をつまみ上げて走り出した。


【マルタ】「こちらです!」


【美咲】「は、はい!」


 私も慌てて後を追った。


 廊下の奥から、激しい物音が響いてくる。


 ガシャーン!


 何かが割れる音。


 続いて、複数の声が重なった。


【職員】「ノア!」


【ノア】「違う! 僕じゃない!」


【職員】「リリィ、魔力を抑えて!」


 扉が開け放たれた部屋の中央で、青白い光が渦を巻いていた。


 光は床から天井まで伸び、細い稲妻のような筋を何本も走らせている。棚に並んでいた木製の玩具が宙に浮き、窓ガラスが小刻みに震えていた。


 その中心に、一人の女の子が立っている。


 四歳くらいだろうか。


 金色の髪は肩のあたりで揺れ、白いドレスの裾が魔力の風に煽られている。小さな両手は胸の前で固く握られ、指先は青白く震えていた。


 女の子は、泣いていた。


 けれど、声を上げてはいない。


 涙だけが大きな瞳からこぼれ、頬を伝って落ちている。


【職員】「泣いてはいけません!」


 部屋の隅にいた職員が叫んだ。


【職員】「魔力が乱れます!」


【職員】「リリィ、深呼吸をしなさい!」


 別の職員が声をかける。


 しかし、その言葉を聞くたびに、女の子の肩はさらに強く震えた。


 青白い光が、いっそう激しく膨らむ。


【リリィ】「……っ、ぅ……」


 女の子は唇を噛み、必死に泣くのをこらえていた。


 私は、その姿から目を離せなかった。


 頬は赤い。


 目の下には薄い影がある。


 何度も瞬きをしているのに、涙は止まらない。


 そして、足元がわずかにふらついていた。


 その瞬間、頭の奥で何かがカチリとはまった。


【観察眼】《観察眼が発動しました》


【美咲】「……え?」


 視界の中央に、淡い光の文字が浮かび上がる。


【観察眼】《対象:リリィ・アルヴァ》


【観察眼】《状態:強い緊張》


 それ以上の文字は、浮かばなかった。


 私は息をのんだ。


 何が見えたのか。


 なぜ、今この力が発動したのか。


 わからない。


 ただ、目の前の女の子が苦しんでいることだけは、はっきりと伝わってきた。


 小さな目。


 赤く腫れた頬。


 震える指。


 何度も繰り返される瞬き。


 そして、眠気に耐えるように重たそうに下がるまぶた。


【美咲】「……この子」


 気づけば、声が出ていた。


【美咲】「眠いんじゃないですか?」


 部屋の中から、音が消えた。


 青白い光だけが、低い唸り声を上げながら渦巻いている。


【マルタ】「…………は?」


 マルタ院長が、呆然とした声を漏らした。


 近くにいた研究員らしき男性も、手にしていた杖を下ろしたまま固まっている。


 部屋の隅にいた黒髪の青年だけが、無言で私を見つめていた。


 けれど、リリィ本人は違った。


 ほんの少しだけ顔を上げ、涙に濡れた瞳で私を見た。


【美咲】「お腹も空いていると思います」


 私は続けた。


【職員】「しかし、今は魔力制御の時間で――」


 職員の一人が戸惑ったように言う。


【美咲】「だからじゃないですか?」


【職員】「……何?」


【美咲】「眠くて、お腹も空いていて、怖い場所にいるのに、魔力を抑えろと言われたら……苦しくなると思います」


 自分でも、ずいぶん大胆なことを言っていると思った。


 けれど、リリィの顔を見ていると、黙ってはいられなかった。


 私はゆっくりと女の子の前にしゃがみ込んだ。


 青白い光が肌を撫で、髪の先が風に揺れる。


 怖がらせないように、できるだけ穏やかな声を出した。


【美咲】「リリィちゃん」


 女の子の肩が、ぴくりと動いた。


【美咲】「眠い?」


 リリィは答えなかった。


 ただ、重たそうなまぶたを何度も瞬かせている。


【美咲】「お腹、空いた?」


 しばらくしてから。


 本当に小さく、リリィがうなずいた。


 その動きは、見落としてしまいそうなほどかすかだった。


【美咲】「そっか」


 私は微笑んだ。


【美咲】「じゃあ、魔法の練習はあとにしよう。少し食べて、それから寝ようか」


【リリィ】「……っ」


 リリィの唇が、わずかに震えた。


 次の瞬間。


 部屋中を満たしていた青白い光が、ふっと消えた。


 浮かんでいた玩具が床に落ちる。


 窓ガラスの震えも止まり、静寂が部屋を包み込んだ。


 誰も、すぐには言葉を発しなかった。


 リリィはその場に立ったまま、眠そうに目をこすっている。


 私は、彼女が倒れないようにそっと手を差し出した。


【美咲】「歩ける?」


 リリィは答えなかった。


 代わりに、私の袖を小さな指でつまんだ。


 その指先は、まだ少し震えていた。


 ただ一人。


 部屋の隅にいた黒髪の青年だけが、鋭い視線を私に向けていた。


 年齢は二十代後半くらいだろうか。


 黒い外套の襟元には、銀色の紋章が刻まれている。整った顔立ちをしているが、表情は硬く、冷たい印象を与えていた。


【青年】「……今のは」


 低い声が、静まり返った部屋に響いた。


【青年】「魔法を使ったのか?」


【美咲】「え?」


 私は振り返った。


 青年は、私ではなく、リリィの周囲に残る魔力の痕跡を見つめている。


【青年】「君だ」


 彼はゆっくりと視線を上げた。


【青年】「何をした?」


【美咲】「何をしたって……」


 私は首を傾げた。


【美咲】「何もしていません」


【青年】「そんなはずはない」


 青年の声には、確信があった。


【青年】「魔力暴走が、あれほど急に収まるなどありえない」


【美咲】「でも、本当に何もしていません」


【青年】「では、なぜ魔力が消えた?」


 問い詰めるような視線を向けられ、私は困ってしまった。


 何もしていない。


 本当に、ただ眠るように言っただけだ。


【美咲】「……眠くなったから、じゃないですか?」


 青年が黙った。


 部屋の中に、気まずい沈黙が落ちる。


 私は隣に立つリリィを見た。


 彼女はもう、目を半分閉じている。


 今にもその場で眠ってしまいそうだった。


【美咲】「とりあえず、この子を寝かせてもいいですか?」


 私が尋ねると、マルタ院長はしばらく何も言わなかった。


 やがて、信じられないものを見るような顔で、ぽつりと呟く。


【マルタ】「……魔力暴走が、止まった……?」


 私はまだ知らなかった。


 この日。


 たった一人の少女を眠らせたことが。


 千年続いた、この国の魔法教育を変える。


 その最初の一歩になることを。

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