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賽の目の約束  作者: いち
第1部
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第8話

どのくらい眠っていたのだろう。

目が覚めた時、体はまだ寝台の上にあった。

数回瞬きをして、感覚を確かめる。


呼吸も苦しくないし、眠る前よりも私の魔力は増えていた。

きっと、エンデは私が眠っている間も、治療を続けていたのだろう。


ゆっくりと上体を起こしてみた。

どうやら、だいぶ動けるようになっている。


高い位置の小窓から差し込む光が、細く床を照らしている。

夕方だ。

赤色の光が伸びた壁際に、私の剣が立てかけてあった。

壊されていなかったんだ。


視線を移した先、同じ部屋の少し離れたところに、エンデがいる。

背もたれのある少し大きな椅子に腰かけていた。

いつも着ている外套を脱いでいて、見慣れない軽装だった。

陽光に少し似た赤みがかったランプの光で、本を読んでいる。


頁をめくる音だけが響く。

他に気配は何もない。

そういえば、この城でエンデ以外の存在を見たことは、一度もなかった。


「起きたか」

顔を上げないままエンデが言った。


私は視線を自分の足先へと向ける。

「……ここには、誰もいないのですね」

「力の無い者など必要ない」


エンデはそれだけ返すと、椅子から立ち上がった。

こちらへと歩きながら、重そうな本を寝台近くの机に置き、私を見る。


「……もう少しだな」

魔力のことを言っているのだろう。

この魔王ともなれば、目視で分かるのか。


私を少し眺めた後、顎で示された。

仰向けになれ、と言っているようだ。

少しだけ迷って、従う。


エンデは昨日の簡素な椅子を、再び寝台の横に引き寄せ、腰かけた。

ふわりと、黒蜜にも似た香壇の甘い香りが漂う。


右手の袖をたくし上げ、昨晩と同じように手のひらを衣の中の肌にあてた。

細い指が触れて、思わず目を閉じる。

「あの、もう動けます」

「そうか」

エンデは答えたが、特に治療を止めるつもりはないようだった。


また体の中に、あの静かな流れを感じる。

ひんやりとした手が私の肌の温度になじんで。

ゆるやかな時間とともに異物感をほどいていく。


高い窓からの斜陽は、いつしか白い月明かりへと変わっていた。

不思議なほど穏やかな時間に、心地よささえ感じる。


相反する力が静かに溶け合い、広がる凪。


戦いの時に覚えた感覚に、似ている気がする。

確か、エンデも妙だと言っていた。


「剣を交えた時と、似ていませんか」

「……そのようだな」


けれど、一度こちらに向けられた視線は、すぐに手元へと戻される。


それ以降言葉は返ってこない。

思ったほどの反応がなくて、なんとなく腹が立つ。

むっとして、エンデの顔を見た。


柔らかなランプの光に浮かぶ、整った輪郭。

白い肌を、漆黒の長髪が流れている。


長いまつ毛に縁どられた、闇色の瞳。


気付かなかった。

この人、こんなに……。


――だめだ。これ以上は。


思考を振り払うように、慌てて視線をずらす。

だけど、その首元、黒色の襟の間に――


赤い線。


私の付けた細い傷。


「え……」


消してない。

なんで、消していないの……?


「何も言うな」


言葉になる前の気配を、エンデは遮った。

視線を伏せたまま。


あんな傷、消すことなんて容易いはずなのに。

どうしてまだ……


その時――しずくのように落ちてきた、可能性。


鼓動が跳ね上がる。

頬が、熱くなる。


まさか……

あり得ない。


そんなはずはない。

何を考えてるんだ、私は。


「……もう、本当に動けますから」

触れている手を振り払い、視線も合わさずに強引に立ち上がる。


「……そうか」

エンデが、私の後ろで小さく呟いた。


違うに決まってる。

そうじゃないと……。


無理やりに歩こうとする足元はおぼつかない。

それでも足を動かす。


「戦わなければ」


反芻して、心を正して。

そう、剣を取ればこんな考えなんて、消える。

だから……


しかし、数歩目であっけなく足がもつれる。

咄嗟に机へ手をついた。

どうにか転倒は避けたが、机が傾き、置かれていた分厚い本が滑り落ちた。


ぐしゃり、と嫌な音。


本は表紙が外れ、数枚の紙が散らばった。

エンデが読んでいた本だった。


「あ……」

反射的に出そうになった言葉を、寸前で止める。


エンデは何も言わずこちらへ来て、しゃがみ込んだ。

私も拾おうと手を伸ばしたが、エンデから制されてしまった。


紙の返る音。

散らばった頁が、まとめられていく。


ふいに、1枚の頁を見て、その指先が止まった。


顔が見えない。


エンデの見ている紙に書いてある文字は読めなくて、何が書いてあるのか分からない。


長い髪がひと束、またひと束と肩から流れ、床へと垂れてゆく。


「……その本」


耐えきれずに漏れた私の声に、エンデの肩がわずかに動く。


「……直りそうですか」


少しの間が空いて、耳慣れない声色がした。

「……いいんだ」


エンデは背を向けたまま立ち上がり、崩れた本を机に置く。


そして背中で長い息を吐き、

肩を小さく下ろして、振り返った。


「貴様はいつも急ぎすぎだな」


まっすぐに、私を見ている。



――知らない。


やわらいだ黒い瞳。

ゆるやかに弧を描いた口元。


そんな顔を、私は知らない。


鼓動が早く鳴る。

目が、離せない。


体の中に注がれて溶けた、エンデの気配。

心地よかったのに、意識してざわめいてしまう。


エンデが、目を合わせたまま私の前へと歩む。


机の上の小箱から髪飾りを取り出し、私の髪に触れる。

指先でそっと髪を分け、そのまま留めた。


それは私を戦いへと立ち上がらせてくれた、白いカメリアの髪飾りだった。


髪から指が離れる。

エンデと視線が重なった。


「……また、あなたと、戦わないと」

「ああ」


視線が、離れない。


「……なのに、どうして?」


喉が震える。


「いつも、私を殺さない」


言葉が、こぼれる。


「お願い、こたえて……」


エンデは私の瞳を見つめ、しばらくして目を伏せた。

「……乱れるからだ」


消えそうな声の後、もう一度、視線が重なる。

止まりかけた唇が、わずかに動いた。


「乱れるんだ……俺が」


胸の奥で、何かが音を立てる。

押し殺していたはずの思いが、押し寄せてくる。

うまく名付けられない衝動が、私を動かす。


気づけば、指が伸びていた。

エンデの首に触れる。


彼の温度。

こんなにも、熱い。


エンデは、拒まず、ただ私を見つめていた。


「……理解できません」


息が震える。

それでも指先は離れず、赤い線をなぞる。


「……触れていれば、もう、乱れませんか」


次の瞬間、腕が引かれた。

強く抱き寄せられる。


一瞬で消えた距離。

息が、止まりそう。


彼の体温が、鼓動が、伝わってくる。

抱きしめる腕が強くて。

でも、やさしくて。

耳にあたる息遣いが、わずかに震えている。


知りたい。

エンデを見上げる。


息が触れるほど近い距離で、彼の瞳が揺れていた。

隠しきれない熱が滲んでいる。


心臓が強く打つ。

胸が苦しい。


それでも、私はあなたを知りたい。

この気持ちを、確かめたい。


彼の唇に触れた。


――もう、止めるすべなどなかった。


呼吸が混ざっては、離れる。

重ねるごとに深く。深く。彼の香りに溺れる。

服を掴み、それでも足りずに背中に腕を伸ばす。


もっと、知りたい。


体が触れるたびに混ざり合う光と闇が、透明な光になってきらめく。

硝子の破片のようにちかちかと光って、乱反射する。


夜の中、私たちの境界は溶けてゆく。

もう何も見えない。

どこまでも満たされていく、体と心。

おそろしい。

でも、ずっと、このままがいい。


もう、あなたの体温しか、わからない――





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