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賽の目の約束  作者: いち
第2部
21/27

第10話

足音を殺して、倉庫へと近づく。

錆び付いたシャッターが、人ひとり分だけ開いていた。

誘うように、光が外へと漏れている。

乱れた呼吸を押さえながら、その隙間から倉庫の内部を覗き込んだ。


天井の蛍光灯が、まばらについている。

積まれたパレットや木材が壁のように重なり、奥が見えない。

その向こう、反対側のシャッターも、半分ほど開いていた。


音を立てないように、中へと踏み込む。


――音がした。

咄嗟に、木箱の影に滑り込むように隠れる。


何かを叩きつける、鈍い音。

倉庫の中央からだ。


鼓動がうるさい。嫌な予感がする。


身を低くして、木箱の影から影へ移っていく。

音を立てたら見つかってしまう。

はやる気を押さえ、足元に気を配る。


道が狭くて、手をつきながら次の木箱に這い寄る。


――また、鈍い音。

肩が跳ねる。

さっきよりもだいぶ近い。


その後に、金属の引きずられるような、嫌な音。

今度は、男の声がする。

影に身を潜めて、もう一歩。


木箱の隙間から見る。男が、2人立っている。


その下に――ナギが。


床にうつぶせに倒れている。

腕が後ろに回されて、手首にチェーンが巻かれている。

動かない。

まさか。


体に緊張が走り、恐怖で息が止まる。


その時、ナギの体がわずかに揺れた。


「だから……逃げねぇって」

小さく咳き込んだ後、絞り出すような声が聞こえた。


生きてる。

力が抜けて、その場に膝をつく。


だけど、やっぱり嘘だった。

全然、大丈夫じゃない。

どうしよう。

時間はどれくらい経った?

今戻らないと、多分間に合わない。

でも、こんな状況で戻れるわけ――


「サクさん、お疲れ様です」

「用意できました」


男たちの声に混ざった名前に、思考が飛んだ。


ナギは男たちに起こされ、膝をつかされた。

チェーンが擦れる音がする。


ナギが顔を上げ、前方を睨んだ。


その視線の先に、長身の男が立っていた。


あれが、サク。


乱れがない黒いスーツ。後ろに流された金髪。

整った顔。

なのに、怖い。

何かが違う。

多分もう、こっち側じゃない。


サクは革靴の音を響かせながら、ナギに近づいていく。

目の前にかがみ込んだかと思えば、ナギの頭をくしゃくしゃと撫でる。


「ナギ。USB、取り返したんだな。……よくやったじゃねぇか」


そういった直後、その手がナギの髪を掴み、強引に顔を引き寄せた。


「で、報告……間違ってねぇか? ……なぁ、女。落ちたんじゃなかったのか?」


髪を掴まれたまま乱暴に揺すられ、チェーンがジャラジャラと鳴る。


「……っ」

反動で、ナギの声が詰まる。


「……お前、逃がしたな」


サクが手を止めた。ゆっくりと口元が歪む。

「こりゃあ、重大な違反だ。分かってて来たのか?」

「……ああ」

「はぁ?」

サクは、ナギの返事を鼻で笑い飛ばし、放り捨てるように髪を離した。

「……お前、制裁なめてるだろ」


そして煙草をくわえ、手首をひらりと返す。

「やれ」


その一言で、ナギの体が立たされた。

私は、思わず視線を逸らす。


体が打ちつけられる音。

何度も、何度も。


「おい、加減するな」

サクの声が続く。

「……まだ、意識は飛ばすなよ」


恐怖で、肩が震えだす。

耐えきれず、耳を塞いだ。


やっと、音が遠くなる。

自分の心臓の音が、叩きつける音も、声も、かき消していく。


長くいすぎた。

船は、もう行ってる。5分なんて、とっくに過ぎてる。

彼は今、知らない世界の中にいる。

私なんかが来たところで、どうせ何もできなかったんだ。

私はまた、間違えたのか。


頭が真っ白になって。

そのまま、目を閉じた。


『これでいいの?』


意識の奥で声がした。

ハッと目を開き、顔を上げる。


ナギは、男たちに抱えられるように立たされていた。頭がだらりと垂れている。

私の手当てしたブラウスの帯が、赤く滲み、床に垂れていた。


「……悪かった」

苦しそうに息を吐きながら、ナギは言葉を絞り出す。

「もう、逆らわない」


サクは吸っていた煙草を投げ捨てた。

「それでいい。親父の耳に入ったら終わりだからな、お前」

「……ああ」

「そうだ。お前は今まで通り、俺の後ろで隠れて生きてればいいんだよ」


そう言ってナギの顔を上げさせる。

ナギは静かに目を開いた。

真っ直ぐにサクを見る。


「おい。なんだその目は」

「……」

「……そうか。まだ、足りねぇか」


サクの目に、わずかな愉悦が滲んだ。

また、始まる暴力。


もうやめて……このままじゃ、本当に……。


ナギは、目を閉じ、歯を食いしばって耐えている。


私は両手で頭を押さえた。

力を込めた指が食い込んで、震える。


だめだ。助けたいのに、何もできない。

どうすればいい。


『無茶するなよ』

頭の中に、あの時のナギの声が、聞こえる。


『じゃあな』


――いやだ。

ぐしゃりと、髪を掴む。


そうやって、また私を置いていこうとする。

「そんなの、いやだ」


――動け。


脳を突き抜ける声。

顔を上げた。


「考えるんだ」


小さく呟いて、ショルダーバッグを漁る。

辺りを見回し、積まれていた角材と、小さな金属片を掴む。

息を潜め、最短距離まで歩み寄る。


そうだ。

助けたい、じゃない。


――助けろ。


大きく息を吸う。

力いっぱい、金属片を離れた側のシャッターへ投げる。

乾いた音が、倉庫に跳ねた。


視線が一斉にそちらへ向く。


――今だ!!


私は走り出した。床を蹴って、一直線にサクに距離を詰める。


その後ろ頭めがけて、角材を振り抜く。

が、サクが振り向き、顔をかすめて肩に当たった。


外した――でも次!!


そのまま、ポケットのヘアスプレーをサクの顔へ吹きつける。

白い霧が顔に当たり、片目を細めるのが見えた。だが、すぐに蹴り飛ばされる。


体が大きく後ろへ弾かれ、ナギにぶつかった。

押さえていた男たちがよろけ、その手が、わずかに緩む。


――その一瞬。

ナギの足が、男の顎を跳ね上げる。

続けざまに、もう1人の側頭部へ一撃。

2人の体が崩れ落ちた。


――いける。

ナギと目が合った。


ナギが私に、手を伸ばす。

その手に触れようとした時、視界が乱暴に後ろへ引かれた。


「あっ」

反動で声が出る。

背後から回された腕に、私の両手首が掴まれる。

そのまま、背中で強引に封じ込められた。


しまった、サクだ。

力が強くて、全く振りほどけない。


「動くなよ、ナギ」


耳元で、サクの低い声が響く。

ナギの足が、止まった。

サクはそれを一瞥すると、私を見下ろした。


「なんだ?……この女」


頭を掴まれ、無理やり横を向かされた。

私の顔を、刺すように注視している。


「……逃がしたんじゃなかったのか?」

視線がナギへ移る。


ナギは唇を噛み、何も言わない。

ただ、その目が私に、逆らうなと告げている。


それを見たサクの口元が緩んだ。

「なるほどな」


わざとらしく肩をすくめる。

「……いいじゃねえか。ずいぶん懐いてるな、お前に」

髪を掴まれ、強引に後ろへ引かれた。

「大した度胸だ、なあ?」


サクの指が、髪から首へと移る。

冷たい指先が、私の反った首筋に触れた。


「……そんなに、アイツは良かったか?」

耳元に息がかかる。

爪が、ゆっくりと肌を這っていく。

「いや……」

ぞわり、と体が震え出した。


「……触るな」

静かな怒りを含んだナギの声。


サクは、ナギを一瞥した。

「何か言ったか?」

ナギを見たまま、私の耳にジリジリと歯を当ててくる。

何をしてくるか分からない恐怖と悪寒で、声が出ない。


「サク!」

ナギが、一歩前に足を出した。


「……ああ、そうか」

それを見たサクが、小さく息を吐いた。

「お前……そこまで腐ってんのか」


興味を失ったように、私の首から手を離す。

耳元で、ゾッとするほど小さなサクの声が聞こえた。

「……本当にこの女、害だな」


そしておもむろに、後ろに転がる部下を見やる。

「おい、動けるやついねぇのか」


サクの声で、1人がよろよろと膝をついた。


「外せ」

震える手で、ナギの手首のチェーンが外される。

役目を終えたように、部下はその場に崩れ落ちた。

サクは気にも留めていない。


「ナギ。銃出せ」


ナギが、サクを見る。

サクの手の甲が、私の後ろ頭を何度か叩いた。


「この女を殺せ」


「……なに……言ってる」


ナギの動きが止まり、その場に立ち尽くす。

背後で、サクが苛立つようにため息を吐いた。


前触れなく、私の首を乱暴に掴む。

指が喉元に食い込み、じわりと締め上げられる。

「……っ」

体が震える。気が動転して、息が吸えない。


「銃を出せ。聞こえないか?」

無機質な声色で、言葉を繰り返す。


ナギは、強く歯を噛みしめた。

懐から、ゆっくりと銃を取り出す。


「……そうだ。構えろ」

首を掴んだまま、サクは私の体を横に突き出した。

一歩自らの体を引き、銃口の正面から外れる。


「俺の報告ひとつで、お前は親父を敵に回すことになる。意味、分かるよな。

今なら、間に合う。戻れるんだ。逆らわなければいい、それだけだ」


ナギは苦しそうに顔を歪め、言われるまま銃を構えた。

その銃口が、こちらを向いて小さく揺れる。


「ナギ……さん」


絞り出すように名前を口にした途端、指がさらにきつく締まった。

喉が軋み、押し潰される。


苦しい。もう、息が――


視界が霞む。

耳がぼんやりとしてきた。

頭の中が白くなっていく。


「ナギ、ツラそうだ。見てられねぇ。……楽にしてやれよ」


途切れそうな意識の中、ナギと目が合った。


「……ごめん」

ナギの唇が、かすかに動く。


――乾いた銃声。


倉庫内に、反響だけが残る。


「……は?」

後ろから、声が漏れた。


サクが腹を押さえ、ぐらりと体勢を崩す。

首を掴んでいた手が緩んだ。


空気が一気に流れ込む。


崩れかけた体を、ナギの腕が受け止める。

「ツバキ、走れ!」


その声が、私の意識を引き戻した。

体を引き寄せられ、そのまま駆け出す。

背後で、サクが膝をついた。

低いうめき声が、追いかけてくる。


「……お前、何したか、分かってんのか」


その声を振り切るように、ナギに支えられたまま、シャッターの外へ飛び出した。


倉庫を出て、海沿いを抱えられるように走る。

咳きこみながら横目で海を見た。

やはり船は、もういない。


私たちは、積まれたコンテナの影に滑り込んだ。

倒れるように、コンクリートへと座り込む。


足に力が入らない。

腕に支えられたまま、必死に呼吸を繰り返す。

ナギも、息を切らしていた。

顔を見合わせる。


「なんで船、乗ってねぇんだよ」

「そっちこそ、嘘つき――」


強く引き寄せられて、言葉を塞ぐように唇が重なった。


息ができない。

くるしい。

でも、離したくない。

ナギの髪を掴み、引き寄せた。


唇が離れ、目が合う。

「……ばかツバキ」


どちらともなく抱きしめる。

私はただ、ナギの胸で荒い呼吸を繰り返した。

重なる体から伝わってくる、ナギの少し速い心臓の鼓動。


私たち、ボロボロだ。

それでも、生きてる。


ちゃんと熱い。


――おかしいくらい、熱い。


胸が、

焼けるくらいに。



「え……?」


ドクン、と内側で脈が跳ねる。

心臓の鼓動が、次第に強くなっていく。


――いや、違う。これは心臓の音じゃない。

もっと奥で、激しく体の中を打ちつけている。


「なに……これ」

「お前もか」


ナギが私を見る。

押し寄せてくる圧に、頭が割れそうだ。

理解も把握もできず、彼の服を握りしめる。


その時、体の奥から放射状に閃光のような衝撃が走る。

血管の中を弾けるように突き抜ける。


そして、

――私の中に何かが灯った。


ゆっくり目を開く。


静寂が波紋のように体に広がる。

あたたかい。



突然、ナギが体を強張らせた。


足音だ。

弾かれたように顔を上げる。

近い、気づかなかった――


振り返ると、サクが立っていた。

腹を押さえたまま、それでも銃口をこちらへ向ける。

殺意に満ちた目。

背筋が凍る。


血に濡れた口が動いた。


「……もう、いい」


ナギが私にかぶさる。

反射的に目を閉じた。


――鋭い銃声。


「……え」


ナギの声で、目を開く。


私たちの正面で、白い光が揺らいでいた。

その中で、弾が止まっている。

すぐに空気がぐにゃりと歪み、それは空へと弾かれた。


「は?」


サクの声。

間を置かずもう一発。

でも、また同じだ。届かない。

何が起きているのか分からない。

あの白い揺らぎが、すべてを逸らしている。


「なんだ、それ……」


顔を引きつらせて、サクが怯えるように後ずさる。

バランスを崩した体が、そのまま後ろの黒い海へと吸い込まれた。


「サク!」


ナギが腕を伸ばしかけた時――


世界が回った。

景色が歪み、体の輪郭がずれる。


そして、

すべての音が、消えた。



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