第9話
指定の岸壁に着くと、沖から船影が近づいてきていた。
エンジン音はなく、波に揺られながら岸壁へと寄る。
街灯の下に、小さな漁船が姿を見せた。
甲板に立っていた男が、船の上からロープを岸壁に渡して繋ぎ止めていく。
軋む音がして、船体が横付けに止まった。
船の中から背の高い女が出てきた。
「あんたか」
薄暗くてはっきりしないけれど、40代ぐらいだろうか。
黒い髪の毛を1本に後ろでまとめ、つなぎのような服を着ていた。
大股で岸壁に降り立った彼女に、私は小さく会釈をする。
「ツバキです」
「ああ」
女は特に名乗らず、すぐにナギの方を向いた。
「で、そっちが雇い主?」
「ああ。まず、内容の確認だ」
女はあいよ、と言いながら煙草に火をつけ、私を見る。
「いいかい。私らはこれから沖に行って本船に乗るからね。まぁ、ちょっとはしごを登るだけさ」
続いて、ナギが添える。
「向こうでは、その女がお前の世話をする予定だ」
「よろしくね。あたしのことは姉さんって呼んでいいから」
「……はい」
なんだか、とんとんと話が進んでいく。正直、頭が追いつかない。
女は私の手から旅行鞄を取ると、そのまま船内へと運んでいってしまった。
「これ返しとく」
ナギの声に振り向く。
差し出していたのは、取られていた私のスマホだった。
「あっちじゃ使えねぇけど。大事なもんも入ってるだろ」
「……ありがとうございます」
返してくれるとは思ってなかった。
私はそれを受け取って、暗い画面を見つめる。
そうか……これで、本当に。
うつむいた、その時。
離れたところで、音がした。
――エンジン音?
振り返った。
倉庫の間を、光の線が細切れに走って、止まる。
明かりが、ふっと消えた。
胸がドクンと、鳴る。
ナギも振り返っていた。
「……来たか」
遠くで車のドアが閉まる音がする。
声だ。
……誰かが何か言っている。
名前を呼んでいる?
「……サクだ」
ナギはぽつりと呟いた。
その名前に、体が凍りつく。
姿は見えないが、向こうから懐中電灯の光がいくつか伸びているのが見える。
「……俺は、そろそろ、あっちに行かねぇとな」
「え、あの人たちに会うの?」
ナギの言葉に、思わずジャケットの裾を掴んだ。
「ああ。USB返して、話付ける」
ナギは後ろに視線をやっていた。
私の胸には、不安が次々と押し寄せる。
「でも、私を助けたの、知られてるんじゃ」
「心配ねぇよ。……身内だ」
「……ほんとに、大丈夫なの?」
裾を握る指先に、力がこもる。
「ああ。けじめ付ける」
そこまで言うと、ナギは黒い空を見る。
「……間に合って、よかった」
消えそうな声が、風に混じって聞こえた。
息を吐いて、それから私の方を向く。
「……無茶するなよ」
ナギは、小さく笑った。
「じゃあな」
「……え、待って」
私の言葉を待たず、ナギは背を向けた。
ジャケットを握っていた私の指が、空を切る。
さよならも、ありがとうも、言ってない。
ナギは振り向くことなく歩いていく。
船の連絡用の携帯電話を地面に叩きつけ、それを海に投げる。
そして煙草に火をつけた。
「馬鹿な男だね」
船から声がして振り向く。
いつから見ていたのか、女がナギの背中を目で追っていた。
そして、煙草をくわえたまま私に手を伸ばした。
「ほら、あんたもそろそろ乗るよ」
「……」
女の手を握り、私は船へと乗り移る。波が、静かに船体を打っている。
船上から振り返ると、ナギの姿はひとつの倉庫へと消えていった。
電気がついたのか、窓が内側から白く光った。
「へぇ。あそこで話付けるのか」
「え?」
「この辺りはあの人たちの倉庫も多いしね」
女は私の手をそのまま引いて、船内の椅子へと座らせた。
「気になるだろうが、もう忘れな。……それより、あんたのこれからだ。大丈夫だよ、もらった分は世話する。それに向こうでも、あんたみたいなのはいるからね。食ってはいけるよ」
「……はい」
笑おうとして、うまくいかない。
心がざわついて、口元が引きつる。
ナギの顔が、離れない。
どうして、最後にあんな顔見せるの。
どうして、こんなに引っかかるの。
ああ、もう……ダメだ。
「……あの」
私は操舵室に向かおうとした女に声をかけた。
「10分寄港のお約束、なんですよね」
「ああ、でももう出港したがいいだろう」
「あと、何分ありますか?」
女は振り返る。
「なんだって?」
訝しげな顔をしながら戻ってきて、私の顔を見つめる。
そのまま、腕時計に目を落とした。
「……5分だよ」
「5分、分かりました」
私はショルダーバッグを握りしめ、椅子から立ち上がる。
「あんた……アイツの手配、無駄にするつもりかい?」
女の声が、甲板に出た私の背中を追ってくる。
「少し様子を見てくるだけですから」
振り向いて答えると、女は呆れたように大きくため息をついた。
「……追われてるんだろ。死にに行くのかい。この船も5分以上、あんたを待たない」
「……はい。分かってます」
馬鹿だね、と女が煙草を海へ投げ捨てた。
私は、船から岸壁へと飛び移り、倉庫へと走り出した。




