第8話
車は中心部を抜け、県道を北へと走っていた。立ち並ぶビルも、車の列も、まばらになっていく。
息が上がっていたナギも、落ち着いてきたようだ。前かがみだった背中が、今はシートに預けられている。
私の方は、まだ胸の鼓動が落ち着かない。シートベルトを忘れていたことに、今になって気づいた。
「……さっきの人たち、誰だったんですか」
ベルトを肩に掛けながら、私はナギを見る。
「サクの手下だ」
「やっぱりそうですか」
思った通り……最悪だ。
どうしよう。
「……名前、呼んでしまいました」
そう言って、視線を落とす。
「気づかれましたよね……いろいろ」
「……仕方ねえだろ」
ナギは、前を向いたまま言った。
「お前連れ出したの、俺だ」
「……」
言葉が出てこない。
苦し紛れに、足元に転がったペットボトルに手を伸ばす。
もやりとした罪悪感。
多分、ナギの計画……というか立場に、すごく支障をきたしたのではないか、と思う。
キャップを開ける。ひと口飲むと、常温の水が喉を通っていく。
隣を見ると、ナギは前だけを見ていた。
さっきのことも、あまり気にしてなさそうに見える。
街灯の光が、一定の間隔で横顔をかすめていく。
信号で、車が止まった。
「……ナギさんも、水」
後部座席に手を伸ばしかけると、「それでいい」と、ナギは私の手元に視線を落とした。
少し迷ってから、ペットボトルを差し出す。ハンドルを握っていた手で受け取ると、ナギはそのまま口をつけた。
あ。
コクリ、と音を立てて、ナギの喉が動く。
私は視線を外した。
なんだかこの人の前だと、もういちいち変に気にしない方がいいのかもしれない。
そんな気がしてくる。
信号が青になる。
ペットボトルを私に差し出して、ナギはまたハンドルを握った。
そういえば。
私は手の中の紙袋に目を落とした。
「あの、これ……中身は何が?」
「開けていい」
紙袋の中には、ジップロックに入った小さな携帯電話と封筒があった。
「……説明する」
ナギは口を開いた。改まって言われ、顔を上げる。
「もうすぐ俺たちは埠頭に着く。そこにあるケータイに、船から連絡が入るようになってる」
「船?」
「お前は、海外に行く」
「え」
海外……?
「封筒には……金が入ってる。日本円で50万くらいにはなる。それで……どうにかしろ」
ナギは説明を続けていく。
予想を超えてきた話に、理解が追いつかない。
「ちょっと、待って……」
「……なんだ」
「……え、私ひとりで?」
ナギは何も言わなかった。
「……そう、ですよね」
なんでだろう。
勝手に、しばらくいてくれるのかと思っていた。
心に穴が空いたみたいで、落ち着かない。
「……買ったのは……ひとり分だ」
……あれ。さっきから、言葉が途切れ途切れ?
なんとなく違和感を覚え、ナギを見る。
街灯に照らされた横顔に汗が滲んでいた。
まだ、汗?
……そういえば。
さっきからずっとハンドルを左手で……
ナギの右手はジャケットの内側に伸びていた。
嫌な予感がして、ジャケットを乱暴にめくる。
「おい」
ナギの声を無視した。右手は、左脇腹を押さえている。
指の間に、黒いものがにじみ出ている。
……血?
「ナギさん、怪我してるんですか!」
「……大したことない」
ナギは動じる様子もない。
私はひとりで動揺し、路肩を指さした。
「ちょっと……車、停めて」
「停めない」
「でも!」
「急ぎたい」
ナギはピシャリと言い放った。ハッと私は口をつぐんだ。
「……あと10分で着く」
私は、そのまま道路の向こうを見つめた。何も言えないまま、流れていく街灯の光だけを目で追った。
埠頭の一角。
目の前に、倉庫が並んでいる。人気はなく、潮の匂いがわずかに混じる。
ナギは細い道を走り、倉庫の間に車を停めた。
ポツリ、ポツリと点在するライトが運転席側から差し込んだ。
「連絡あるまで、ここで待機する」
「ナギさん、後ろ行ってください。怪我、見るから」
「……大丈夫だって、言ってるだろ」
目を合わせようともしない。肩で息してるくせに。
……ああ、もう!
私はシートベルトを外し、シートに膝を立てた。
ナギの体の向こう側に腕を差し入れ、座席レバーに触る。
一気に倒れないよう、逆の手でシートを支えた。
ナギと目が合った。
近い。
体勢を崩せば、そのまま触れてしまう。
私はすぐに視線を逸らし、レバーを引いた。
半分ほど倒れたところで、腹部へと向き直る。
「失礼します」
ジャケットを開き、押さえていた右手を剥がす。
脇下の重いホルダーに手が当たる。少しだけ目を止めたが、そのまま押しのけた。
シャツの裾を掴み、捲り上げる。
「……暗くて見えない」
「……」
ため息を漏らし、ナギが左手をルームランプに伸ばした。
「すぐ消すぞ」
黄色がかった光が灯る。ナギは眩しそうに目を細めている。
あばらの下に、赤黒い切傷。そこまで深くはなさそうに見えるが、血が滲んでいる。
短く息を吐いた。落ち着かないと。
後部座席から鞄を引き寄せ、ティッシュを何枚も押し当てる。でも、じわじわと赤く滲んでしまう。
……止まらない。
震える手で押さえ直すが、すぐに染み込んでいく。
これじゃダメだ。
ティッシュを剥がし、今度はハンカチで強く押さえた。
「う……」
ナギの口から小さく息が漏れた。
「ごめんなさい、痛かったですか」
「……いてえ」
「……うん」
固定しないと……。
ハンカチを押さえたまま、周りを見る。迷って、旅行鞄からブラウスを引き抜いた。
びり、と布を裂く。それを細く帯状にする。
ナギの体の下に手を差し込み、そのまま結んだ。
起き上がって、息をつく。
これで、大丈夫だろうか?
とりあえず、両手で患部を押さえた。
「痛み止め……ありますけど」
「眠くなるからいい」
できることはやった。……多分。
「……じゃあ、消します」
私はルームランプを消した。
静まり返る車内。
少し暗がりに目が慣れると、倉庫の灯りがナギの顔を淡く映す。
「……お前、けっこう強引だよな」
窓の方に目を向けている。
この傷、きっとあの時のだ。
私に向かってきた男との間に、ナギが割り込んだ、あの時の。
「なんで……なんでここまでしてくれるんですか」
ナギがこちらに顔を向ける。
「お金も、船も……怪我だって私を庇って」
胸が、締めつけられる。
小さくナギが息を吐いた。
「それは……お前が一般人だからだろ?」
「……なんで私に聞くの」
「……しらね」
「……」
どちらともなく視線を逸らした。
それ以上言葉にできなくて。
なんだか、やけに静かだ。
私はまた、ナギの顔を見る。
「……なんで、こんな仕事してるの」
少しだけ私を見た後、ナギがぼんやりと天井を見る。
「……お前は?」
「え?」
「仕事は?何で選んだ」
「……私は……事務。なんとなく」
「俺も……なんとなく」
小さく息を吐く。
「大学出て、なんとなく親父と兄貴に言われるまま、この仕事してた」
「そっか……」
なんとなく。
それぞれ、何かを少しずつ見て見ぬふりしてきたまま、ここにいる。
否定しようなんて、思えない。
「……ナギさん、忍者かと思った。さっき」
「このザマで?」
「うん」
遠くの工場の音が聞こえる。ナギが私の顔を見た。
「……俺に、珈琲教えてくれたの。アヅマさんなんだ」
「そっか。美味しかったです、あの珈琲」
「……だろ」
少し穏やかなナギの声。初めてなのに、どこか懐かしい。
「ナギさん、私も……前にあなたに会ったことある気がする」
「……そうか」
「前世かな?」
「……かもな」
そうだったらいいな、と思った。
ハンカチからはみ出した指が、ナギの肌に触れている。
教えてほしい。
知りたい。
追手も船も、全部、いまは少しだけ忘れたい。もう少しだけこのまま。
困ったな。
――ふいに振動音。
心臓が音を立てた。
着信。
ダッシュボードの紙袋が震えている。
ここまで、か。
起き上がったナギにそれを渡した。ナギが携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。
『公共20-B。これより10分寄港する』
電話の向こうから聞こえたのは、それだけだった。ナギと目が合う。
「行くぞ」
「はい」
もう、ここには戻れない。
その時が、すぐそこまで迫っている。
私は旅行鞄とショルダーバッグを手に取った。




