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賽の目の約束  作者: いち
第2部
16/27

第5話

――ここから出す。


ナギの言葉が、まだ頭の奥に残っている。

それはおそらく、彼の組の息のかかった範囲からという意味なのだろう。

それがこの街なのか、それとももっと遠いのか。分からないけれど。


車は山を抜け、いつの間にか見慣れない町の中を走っていた。

よく見るドラッグストアの看板。

自転車に乗った制服姿の学生。

片側だけ混雑した道路。


朝、人々の動き始めた気配。

それだけで、ほんの少しだけ現実に引き戻される。


車の行き先は、この町を過ぎたところにあるA市。

明日の夜8時、そこで“受け取り”があるらしい。それが何なのか、詳しくは知らない。

夜中に大柄の男に会っていたのも、その手配のためだった。


そして、A市はサクのシマ――組の若頭が仕切っている場所だ。

そのため、私たちはA市の手前、この小さな町でできるだけ時間を調整する。


ウインカーの音。

車が入ったのは大きな駐車場だった。

見上げると、見覚えのある大型スーパーの看板。


「え?」

思わず声が漏れる。

ナギは特に気にも留めず、店の近場に駐車する。

「ここで待ってろ」


そう言い残し、ナギは入り口へ歩き出す。

そして、他の買い物客の流れに紛れ、姿が見えなくなった。


あの人、普通の顔して溶け込んでいった。


頭がついてこない。


私は背中をシートに預け、息をついた。


ここで降りて、誰かに助けを求めた方がいいのか。

ナギを、どこまで信じていいのだろう。

助けてくれているようだけれど。

正直、一般人だからなんて理由だけでは、ナギには何のメリットもないはずだ。


分からない。

思案しながら、視線を落とした。

今はまだ、逆らわずついていったほうが安全なのかな。


ブラウスの袖についた、土のような汚れをぼーっと見ていると、コンコン、とガラスを叩く音に肩が跳ねた。


顔を上げると、ナギが外に立っていた。

感情の読めない顔。

寝不足なのか、目元にうっすらと影が落ちている。

黒い髪は無造作に流れていて、整えているのか崩れているのか分からない。

鍵が開く音。私の近くのドアが開く。


「降りろ」

「……え」

「1人で置いとく方が面倒だ」


私は一瞬だけ躊躇ってから、車を降りた。ナギはもう歩き出している。

私は慌てて、その黒いジャケットの後ろを追った。

サンダルウッドのような香りが鼻をかすめる。

思っていたよりも背が高い。歩幅も大きくて、少し急がないとすぐに距離が開いてしまう。

私はその背中に駆け寄った。


自動ドアが開く。

開店して間もないのか、人はまだまばらで、広い通路に空白が目立つ。

ナギは買い物かごを掴み、立ち止まることなく奥へと進んでいく。

私はその後ろを、離れないように追いかける。


普通の人たちが、普通に買い物をしている。

私のいた生活、その中で何度も見た光景だった。

それなのに、今の私は場違いな異物みたいだ。

この人みたいに。


ナギは飲料コーナーでペットボトルを数本手に取り、カゴに入れる。

値段もラベルも、あまり見ていない。

ほとんど立ち止まることなく、パンコーナー、惣菜コーナーへと回っていく。


「わ」

ナギの足が、急に止まった。思わずぶつかりそうになる。

珈琲の棚の前だった。

ナギは、並んだ袋を見渡す。

指先が、ひとつ、ふたつと袋の前を移っていく。

ひとつだけ選び取ると、フィルターと一緒にカゴへ入れた。

「なんで」

気づけば、声が出ていた。

ナギは振り返らない。

「別に」

それだけ言って、また歩き出す。

私は慌てて、その背中を追った。

なんだかずっとこの人のペースだ。


いっぱいになったカゴを持ち、ナギはレジに並ぶ。

前には、朝食の食材をカゴに入れた人。後ろには、小さな子どもを連れた母親。

聞こえてくるのは、何気ない会話と、レジの機械音。


なんとなく手持無沙汰になる。

この人に助けを求めたらどうなるかな。

レジの女性をぼんやり眺めていると、するりと肩を抱かれ、レジと逆の方に立たされた。

店員と目の合わない位置。


「余計なことは考えるな」

顔を上げると、ナギは前を向いたまま顔を近づけてそう言った。

人目には、ただの恋人同士に見える距離。


は?

なんなの。

さっきまで、置いていくみたいに歩いてたくせに。

騒いだり、逃げたりしてないのに。


そうして、やはり何もできないまま、会計が進んでいく。

会計が終わった途端、ナギの手は離れた。


スーパーを出た後、車は少し町から外れた場所へと向かった。

少し汚れた白い壁に覆われている、無機質な建物。

あまり人の気配を感じない。

ナギは迷うことなく車を奥へと進め、そのままひとつのスペースに滑り込ませた。

すぐ横に、小さな扉。部屋番号と「休憩」「宿泊」と書かれた料金表示。

私はそれを見て、ようやく気づく。

「……ここって」


言いかけて、言葉が止まる。ナギはエンジンを切ると、何も答えずにドアを開けた。

「荷物持って、降りろ」


短く、それだけだった。


……そっか、ビジホはまだ時間的に入れないのか。あとカメラ対策、なのかな。


私は旅行鞄を持ち直して、車を降りる。日陰のせいか、さっきよりも少しだけ空気が冷たく感じた。

ナギはそのまま扉を開け、振り返りもせず中へ入っていく。


後について入ると、すぐに細い階段があった。薄暗くて、少しだけ埃っぽい匂い。

ナギは片手に少し重そうな紙袋と、買い物したビニール袋を持っている。

私はそれを数段下から見上げ、ついていく。


カチャリ、と乾いた音。そのままドアを開ける。

「入れ」


私は一瞬だけためらってから、中に足を踏み入れた。

扉が閉まると、外の音が一気に消えた。


無機質な消毒液の匂い。

部屋は、思っていたよりもずっと簡素だった。

白とベージュでまとめられた内装。派手な装飾も、妙な照明もない。

ベッドだけがやけに大きくて、場違いみたいに中央に置かれている。


「……ここ、泊まるんですか」


思わず、口に出ていた。

解ってはいるけど直視すると、ちょっと。


ナギは靴を脱ぎながら、短く答える。

「特に不足はない」


それだけ言うと、買ってきた袋をテーブルに置く。

車から持ってきた紙袋は、ソファの横の床に下ろした。

「先、入れ」

ナギが顎で浴室の方を示す。

「風呂だ」


有無を言わせない言い方。

私は少しだけ迷ってから、鞄を抱え直す。

そのまま、洗面室へ入った。


シャワーの蛇口を捻って、手をかざす。

温かい。

降り注ぐお湯を、体に受ける。

絶え間なく落ちる粒が、私の輪郭を心地よく叩く。


でも、息が抜けるのと同時に、生きていることを感じて少しだけこわくなる。


もう。戻れないんだ。

みんなに、会えないんだよね。


「……っ」


思わず、頭から強くシャワーを浴びる。

目からあふれそうになる涙を流そうとするみたいに。


だけど。

こうなっちゃったら、色々考えても、意味ないよ。


次第に、驚くほど静かな感情が思考を遮断してくる。

耳を塞がれるみたいに。

そんな自分も少し怖くなる。


私は深く息を吐いて、壁に手をついた。

シャンプーに手を伸ばす。備え付けの、どこにでもあるような匂い。泡立てて、髪に馴染ませる。


洗うんだ。ただ、洗うんだ。

私はそのまま、何も考えないようにして、手を動かし続けた。


浴室から出ると、テレビの音がする。

煙草の匂いが流れ込んできた。流したはずの臭いがして、少しだけ気が滅入る。


タオルで髪の水気を拭き取りながら、鏡を見る。

裸の自分が、どうしようもないくらい非力に見える。

疲れ切った、ひどい顔。少しだけ目が赤い。

それでも、さっきよりは、ましなはず。


ドライヤーは待たせそうなので使わず、旅行鞄から出した着替えを着て、そのまま部屋に戻った。濡れた髪のまま、鞄を抱えて立ち尽くす。


ナギはソファに腰掛け、煙草を指に挟んだままこちらを見た。

「終わったか」

「はい」


私は、そのままどうしていいか分からず、立ったまま視線を落とした。


「……おい、髪」

ナギの静かな声。

「え」

「そのままにすんな、乾かせ」


テーブルの灰皿に、煙草の灰を落とす。

「急がなくていい」


ぶっきらぼうな言い方。

「……はい」


風邪をひかれると面倒なのか、よく分からないけれど。

このまま髪の毛を乾かせるのは、少しだけありがたい。


洗面台に戻る。

ドライヤーのスイッチを入れると、温かい風が濡れた髪を揺らす。

顔にあたる温風が、頭をぼんやりさせる。

眠気と疲労と、さっきまでの緊張が、少しずつ混ざっていく。


私はゆっくりと息を吐いた。

こうして目を閉じれば、半分だけ、平常心でいられる気がした。

そうだ。

落ち着くべきだ。

いつもの動作、いつもの呼吸、いつもの……


そういえば今日、金曜日か。あれ、発注しないとな。

「あ」

血の気が引いて、手が止まる。

そのまま、ほとんど考えもせずに隣の部屋に駆け込んだ。

「私のスマホ、貸してください。会社に休むって言わないと」


テレビを見ていたナギが振り向く。

「は?」

間の抜けた声。

「今、なんて言った」

「無断けっきん……」


ナギの顔を見て、固まった。

一気に現実が戻ってきた。

なに言ってるんだろう。

恥ずかしさのあまり顔が熱くなっていく。


「死んだことになってんだぞ、お前」

「……すみません、なんでもないです」


疲れているせいだ。絶対そう。

頭の片隅の、会議資料や放置してきた発注書の残骸を振り払う。

そして、この恥ずかし過ぎる記憶をかき消すように、髪の毛を乱暴に乾かした。


私が戻ってきたのを見ると、ナギは腕時計を外し、テーブルの端に無造作に置く。

持ってきた紙袋から、折りたたまれたシャツや着替えらしいのを取り出すと、「先に食べておけ」と言い残し、そのまま浴室に向かっていった。


少しして、浴室のドアが閉まる。シャワーの音がうっすら聞こえ始めると、私は少しだけ息を吐いた。


テーブルの上には灰皿と、紙煙草とライター。買い物したビニール袋。そして腕時計。

フードメニューなどが、買い物袋の下敷きになっている。


座ろうと見回すと、腰かける場所がソファかベッドかしかない。

私はソファの前に移動する。なんとなく、ナギが座っていたところを避けて端に座り、テーブルの上のビニール袋を見た。


パン。おにぎり。惣菜。ペットボトル。けっこうな量だ。


……食べていいって言ってたよね。


少し迷ってから、おにぎりを手に取る。包装を剥がす音が、やけに大きく聞こえる。

ひと口。ちゃんと、味がする。美味しいと感じる。それだけで、少しだけ力が抜けた。


テレビに目を向けると、朝9時過ぎの情報番組。

「――今話題のスイーツ特集です!」

明るい声。

縁遠い、首都圏の話のようだ。画面の中には、色とりどりのケーキや、艶のあるプリンが並んでいる。

私は、それをぼんやりと眺めていた。


おにぎりをひとつ食べ終えて、もうひとつに手を伸ばす。

こんな状況なのに、普通にご飯は喉を通る。包装を開け、食べ進めていたその時、浴室のドアが開く音がして、思わず顔を上げる。


ナギが出てきた。

髪はまだ濡れていて、水滴が首筋を伝っている。タオルで雑に拭きながら、そのままこちらへ歩いてくる。


ナギは何も言わず、着ていたジャケットをベッドに置いて、立ったままテーブルの上の煙草を手にした。

ぱち、と火がつき、すぐに煙が広がる。

「……っ」

しまった。咳が。

「ごほっ……げほっ……」

むせる。息がうまく吸えない。

ナギの手が、わずかに止まる。


「……無理なら言え」

ぶっきらぼうな声が降ってきた。

私は咳き込みながら、小さく首を振る。


「だ、大丈夫です……」

全然大丈夫じゃないけれど。

ナギは少しだけ間を置いて、

「……そうか」

それだけ言って、煙を横に流すように顔を逸らした。

私は水に手を伸ばして、喉を落ち着かせる。

「すみません」

おにぎりの最後のひとくちを飲み込んだ。

もう、これ以上は入らない。

ゴミを丸めて、くずかごに捨てる。


「もういいのか」

「はい、ごちそうさまです」

私が答えると、ナギはテーブルから灰皿を取って煙草を消した。

そしてベッドからジャケットを拾い上げる。

「寝れそうなら寝ろ。そこじゃない。ベッド使え」

短くそれだけ言う。

「……ありがとうございます」

ほんとにいいのかな。

私は立ち上がる。寝支度のため鞄を持って洗面台の方へ向うと、ナギは代わりにソファに座る。


すれ違いざまに、同じシャンプーの香りがした。

思わず横目で振り返ると、ナギはビニール袋からパンと総菜を取り出していた。

そして、口へと運んでいる。


あの人……ちゃんと人間なんだ。


目を逸らした。

支度をしてベッドに入る。風呂とご飯のせいだろうか、なんだか、とても眠い。

その後、いつ眠ったのかも覚えていなかった。


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