第3話
息を押し殺し、音を立てないよう早足で進む。
あれは事故? それとも、わざと?
頭の中がぐるぐると回る。
遠くで誰かの走る音。アヅマさんはどこ?
あの人たちは誰?
「ツバキちゃん」
薄暗い廃ビルの中から声がした。
月明かりの下、アヅマさんが壁に寄りかかって手招きしている。
「アヅマさん……!」
駆け寄ると、膝や顔、手から出血している。
「血が……!」
「……すぐ、逃げたほうがいい。……君は……何も見なかった」
息が苦しそうだ。
逃げるってなに、どういうこと?
「待って、待って……とりあえず救急車? え、警察?」
スマホを取り出そうと、肩にかけたバッグに手をかけると、
「行きなさい」
アヅマさんが私の手を止めた。
その目が、関わるなと訴えている。
……でも。
「駄目だよ……あの人たちなに? 救急車呼んでくれそうになさそうだし」
「いいかい。見て見ぬふり、できることは」
「できないってば!」
私の声に、アヅマさんは目を見張った。
手が震えて、鞄のファスナーがうまく開かない。
「……」
アヅマさんは、無言で私の手を取った。
そして、手の中に小さな何かを握らせた。
「ツバキちゃん……これ、警察に……ごめんね」
USBだ。
え、これなに?
私が聞こうとした時、複数の足音。近づいてくる。
アヅマさんに思い切り背中を押された。私はよろけながら柱にぶつかる。
その時、黒い服の男たちが走り込んできた。
アヅマさんが、怒号と共に、取り抑えられていく。
私は息を潜め、柱の影へ身を押し込んだ。
無意識に、USBをズボンのポケットに突っ込む。
「もっと上手く当てろよ」
「馬鹿が、逃げやがって」
声と、何かを叩きつけるような音がする。何回も、何回も。
……やめて……やめて!
見えない。動けない。音だけが、響いている。
震える息が漏れないように、必死に両手で口を塞ぐ。
「店の方を当たるぞ。連れて行け」
ふいにひときわ冷徹な声がする。男たちの応答の後、引きずるような音。
足音は遠ざかっていった。
その場が静まり返る。
刻みつけられた音の記憶。飛び出しそうなほど鳴る心臓。
ヤバいヤバいヤバい……。
連れてかれた。
誰か⋯!
助けを求め、私は逆側の通りに飛び出した。
通りを、ちょうど男性が歩いてくるのが見える。
気づいた男性は、私のただならぬ様子を察してか、駆け寄ってきた。
「どうされました?」
心もとない街灯がほんのりと顔立ちを浮かび上がらせる。若めの、優しそうな人だ。
私は息切れしながらも、なんとか言葉にする。
「そこで、男の人が! はねられて! しかも、連れてかれて!」
震えながら、廃ビルを指差す。
男性の目が大きく見開いた。
それはそうだろう。いきなりこんなことを言われるんだ。
変な女だと思われるかもしれないが、それどころじゃない。
「警察! 警察、電話しないと!」
私は今度こそ通報するために、バッグをこじ開ける。
人を見て少し安堵したからか、ファスナーはスムーズに開く。
スマホを手に取った。
「見られやがって」
斜め上から声。
「え」
その男性を見上げた瞬間、スマホが取られ、口を手で押さえられる。
優しそうに見えていた顔は消えていた。
――しまった、仲間?
それがよぎった時には、背後に腕を回され抑え込まれていた。
考える暇もなく、強引に引きずられるように歩かされる。
進む先に、黒い車が見えた。
血の気が一気に引いていく。
だけど、腕も口もきつく押さえられ、どうすることもできない。
車の後部座席のドアが開き、頭から投げ込まれた。
シートの上で急いで体を起こして振り返る。
男はガムテープのようなものを、手に持っていた。
「警察に行っても無駄だ」
そう言いながら後部座席に乗り込み、私の足を掴んだ。
「嫌!!」
めちゃくちゃに蹴り上げた足が、男の顔に当たる。
男の態勢が、わずかに崩れた。掴んでいた手が緩む。
その隙に私は反対側のドアを開け、飛び出した。
死にもの狂いで走り出す。
振り返っている余裕なんてない。
人のいる方へ! 早く! 早く! 早く!
明るい繁華街の大通りに駆け込んだ。
ネオンの光の下、人に紛れ込んで後ろを見る。姿はない。追ってきているのかどうかも、分からない。
警察に連絡しようとバッグを触る。
でも、さっきの男の脅しがよぎり、私は手を離した。
誰かに助けてもらう?
だけど、誰が味方なのか分からない。
行き交う人々は、立ち尽くして震える私をチラリと見ては遠ざかっていく。
逃げたい。帰りたい。
縋るように泳いだ目にタクシーが入り、私は手を挙げて半ば強引に乗り込んだ。
この人に話す?
運転手はミラー越しにこちらを訝しげに見ている。
……いや、分からない。とりあえず普通に振る舞わないと。
平静を装って行き先を告げ、車が進みだすと恐る恐る後ろを見た。
追手は、多分ない。いまのところ。
タクシーの窓に、車の列とネオンの光が流れていく。
ああ、もう。頭が割れそうだ。
バッグを抱き寄せ、息を吐く。
大丈夫、落ち着け。なんとかなる。
確認しないと、とバッグの中身を見る。
財布もある、スマホも……。
腕がぴたりと止まった。
スマホがない。
頭が真っ白になる。
あの男に取られたんだ。
連絡が取れない。
それに、もし中を見られたら――。
吐き気がする。
私は呆然と、シートの背もたれに寄りかかるしかなかった。
家から少し離れたところを指定し、どうにかクレカで支払いを済ませた。
アパートの2 階の自宅に駆け上がる。
鍵を必死で回してドアを開け、入った瞬間施錠した。
「はぁ……はぁ……」
自分の荒い呼吸だけが、部屋に響く。
電気をつけて、部屋中の窓を施錠していく。
「はぁ……はぁ……」
朝のままの部屋。ティッシュの絡みついた洗濯物が机にある。
鞄を下ろし、震える両手を見た。
血……。アヅマさんの血……?
「……っ」
無我夢中に手を洗い、ベッドに崩れるように倒れる。
アヅマさんが無事だとは、とてもじゃないけど思えない。
普通そうなおじさんが、何をしたらあんなことになるんだ。
「あ」
ズボンのポケットに手を入れた。指にあたる、感触。
あの時受け取ったUSBだ。
なんてことだろう。
こんなの普通に持って帰ったなんて。本当に私は馬鹿なのかもしれない。
机の上に放り出した。
もう……ちょっと無理。オーバーなんだけど、色々。
布団に潜り込む。
夢かもしれない。お酒も飲んでたし。
あれはなにかのドラマの記憶。
……そんなわけ、ない。
そんなわけ、ないじゃないか。
起き上がってテレビをつけた。
時間は2 3時前。バーを出たのが2 2 時前。
あれだけのことがあったのに、まだこんな時間なのか。
チャンネルを変えていくと、速報だろうか。中継が流れている。
テレビの画面の中に、オレンジの火が上がっている。
さっきまでいた繁華街だ。
立ち上がって、テレビに近づく。
「炎上しているのは――」
映し出される崩れ落ちる屋根。群がる人。見覚えのある通り。
「――ここには喫茶店があり」
テロップに、あるふぁという文字が画面に出てくる。アヅマさんの店だ。
めまいがする。
ボタンを連打し、バラエティにチャンネルを変える。
私は多分見ちゃいけないものを見た。それだけは分かる。
「……はは」
バラエティの画面を見ながら笑う。何も見えてないのに笑ってみる。
ポロポロと涙がこぼれてきた。
私はどこから間違えたんだろう。
あの男に喋ってしまったこと?
アヅマさんを助けにいったこと?
飲みに行ったこと?
テレビの音がやけに大きく響く。笑い声、拍手、効果音。
私だけが、この世界から浮いているみたいだった。
ふと、テーブルの上のUSBが目に入る。
リモコンを持ったまま、涙を拭いた。睨みながら、ふらつく足で近づく。
手を伸ばし、指先でつまみ上げる。
白いプラスチックに、赤茶色の汚れが付着している。
怖い。気持ち悪い。
私は窓を開けようと、カーテンに手をかける。
こんなものなければ。投げ捨ててしまえば。
いや、待って、本当にいいのか?
無かったら無かったで、やばいのかな。
私はため息をついて、USBをポケットに戻した。
何も考えないようにすると、今度は恐怖が背中ににじり寄ってくる。
落ち着かなくて、部屋をうろつく。
カーテンは閉まっているし、窓も玄関も鍵を閉めた。なのに、何度も何度も確認する。さっき閉めたのに。
外から時折聞こえる車の音や、誰かの話し声。階段を上る音。
全部が自分に向かっている気がして、その度に心臓が強く打つ。
時計を見た。2 3時がようやく半分過ぎたくらいだった。
祈るように指を組む。
神様。お願いします。
この短針が0時を差した時、すべてをリセットしてください。
一度だけでいいから。神様。
――ピンポン
インターホンの音が鳴った。
ビクリと肩が跳ね、息が止まる。
――ピンポン
もう一度鳴った。
足音を立てないよう、ゆっくりと玄関モニターの前へと歩く。
モニターをつけると、男が立っている。
路地で声をかけてきた男だ。恐怖で、足が震えだす。
「いるんだろ」
ドアの向こうから、声がする。
「開けろ」
声を抑えながら、私に指示をする。
「……早くしろ」
もう、終わったかもしれない。
天井を仰いだ。
あまり抵抗しない方が、いいのかもしれない。
たくさん痛がらず、終わらせてもらえるかもしれないし。
ゆっくりと、ドアに近づく。指が震えて力が入らない。
ああ。開けたら、私、本当に終わるんだ。
チェーンを外し、両手で鍵を回す。
カチャリ
その音が消える前に、ドアが押し開けられた。衝撃を覚悟し、目をつぶる。
「お前、アヅマの仲間か」
言葉が降ってきた。
「え?」
私は目を開く。
「お前はアヅマとどういう関係だ?」
男は玄関に入りながら、質問を重ねる。
「知らないです。……今日、初めて会ったんです」
唇が震える。
男は私の目を見た。
見透かしてくるような目。逸らすことすら許さない視線。
沈黙の後、男は小さく息を吐いた。
「サクが、女の目撃者に気づいた」
「……え」
「アヅマがデータを『渡した』と言ってた。お前じゃないよな」
淡々と言葉を放っている。
渡したというのはUSBのことだろう。
やはりもう、バレているのか。何か言わないと。
「……あの、私を殺せば……USBは、出てこないかもしれません」
すぐに手を出してこないなら、交渉できる、かも。
ドラマの影響か、咄嗟に言葉を並べてみる。
「……お前、受け取ったのか」
「あ……っ」
あれ。これ、私、自白した? 余計なこと言ったかもしれない。
「……巻き込まれやがって」
男が舌打ちする。
「どうせお前は、目撃者ってだけでサクに消される。俺がUSBをサクに渡したところでそれは変わらない」
目撃者。
私が。
……詰んでるってこと?
馬鹿げた芝居も、小さな希望も、意味なく崩れ去った。くらくらする。
男は土足で部屋に上がり込んで部屋を見回した。
「荷物まとめろ」
え。荷物?
「急げ。USBはそのまま所持していろ」
「は……、はい」
もう、何がなんだか分からない。
でも、従うしかない。
私はとりあえず、言われた通りヨロヨロと動き始めた。




