91 『絹布づくり』『イオとルクレディア』
紀元前74年7月下旬。
糸取りが始まってから2週間後。
棚には巻き取り済みの糸の束がいくつも並んでいた。
レンはその糸束を手に取り、光に透かしてみた。
「……よし。これで布一反ぶんの糸は揃ったな」
タルトが目を丸くした。
「やっと布が作れるのか?」
「そうだ。慣れた職人が10人いれば、本当なら1日〜2日で一反分の糸が作れるんだ」
レンは糸束を抱え、蒸し小屋の隣に建てられた──布織り小屋へ向かった。
布織り小屋の中には、中国式の踏み木式織機が十台並んでいた。
これらは旧式の※腰機ではなく、踏み木で経糸を上下に開閉する最新型の“原始高機”であった。
※腰機
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腰機は、中国では地べたに座って織る織機で、緻密な紋様を織るのには向いていたが、大量生産の面では原始高機よりも圧倒的に効率が悪かった。
だがローマでは、腰機よりもさらに古い垂直織機と言われる織機が未だに主力だった。
つまり、この小屋に並ぶ『原始高機』は地中海世界に取ってオーバーテクノロジーであり――同時に中国(漢帝国)が国家機密として漏洩を固く禁じていた技術でもあった。
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「皆、聞け!」
レンの声に、織機の前で待機していた作業員たち二十名が一斉に顔をあげた。
「今日から布づくりを始める。まずは経糸を張るところからだ。これは布の命だ。一本でも張り方を間違えれば、布が歪むから気を引き締めるように!」
「「はい!」」
隣に立つ、ルクレティアが訊ねる。
「レン。経糸ってなに?」
「経糸は最初に織機にまっすぐ縦方向に張る糸のことだ。布は経糸を巧みに操り、経糸と経糸の間を横に糸を通して作っていくんだ。つまり経糸は布の土台となる糸なんだ」
レンはそう言って見本用に織機に張っておいた経糸――千本のうちのひとつを指先でピンと弾いて見せた。
「この経糸の隙間に横糸を滑り込ませて織り上げていく。だけど、この経糸がたるんでいたら布までデコボコにたるみ、まともな布にならないんだ」
レンは新しい糸束を持ち、整経台(経糸を整えるための大きな木枠)の前に立った。
※整経台
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何千本という糸の『長さ』と『張り』を全て均一にすることが出来る。
経糸の密度が高いほど高級品になる。
だがローマの技術力は低いため、主流は幅10インチ(約25センチ)あたり経糸は100〜200本ほどだった。つまり、隙間だらけで『ゴワゴワ』した質感をしていた。
対して中国(漢帝国)の絹は、幅10インチあたり標準は1000〜3000本。隙間が完全に埋まり『なめらか』だった。
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「まずは整経台で、千本の経糸の長さと張りを均一になるように整えるぞ。乱れがあれば布の表面に筋が出る。皆、慎重にやれ!」
「「はい!」」
作業員たちが整経台の周りに集まり、レンの指示に従って糸を張り始める。
品種改良されたパキポサの糸は、ほぼ均一で美しかった。
パキポサの糸は細く、光を受けると淡く輝いた。
レンは微笑み、作業員が整経台に張った糸を指で軽く弾いた。
ピン、と澄んだ音が響く。
「よし、張力は問題なし。その調子で頼むぞ」
1000本の経糸を張る作業は、慣れた職人でも1日〜2日を要する。始めて経糸を張る職人たちは、時間をかけながら1本づつ丁寧に糸を張っていった。
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2週間後。
レンは作業員たちから経糸を整経台に張り終えたとの報告を受け、再び布織り小屋を訪れた。
「よし全員が、経糸を整経台に張り終えたな!」
「「はい!」」
「では整経台に張った経糸を織機に移動させてセットするぞ!」
この作業は機上げと呼ばれ、失敗すると整経台での作業が台無しになる、最も緊張する瞬間である。
「いいか! 作業員が3人1組で慎重に経糸を整形台から外すんだ。糸の両端を2人がピンと張り、真ん中のたるみを1人が防いでゆっくりと運ぶんだぞ!」
「「はい!」」
作業員たちが、織機の奥にある軸に経糸をセットすると、レンは織機の前の椅子に座った。
「布づくりはここからだ。まず縦に張られた経糸に対して、横に交差させるための糸をこの小舟の形をした、杼と呼ばれる道具の上に乗せるんだ」
そう言ってレンは、あらかじめ木管に巻いておいた糸のひとつを取って、小舟(厚み2.5〜3cm)の上に乗せた。
「次に織機にある左右の踏み木のうち、右側の方を踏むと1000本の経糸の半分――奇数番号の経糸500本が上に上がる」
イオが首を傾ける。
「旦那様、奇数番号って何ですか?」
「イオ、奇数番号って言うのは⋯⋯いや、それは覚えなくていい。1つ目、3つ目、5つ目と1つ飛ばしに半分の糸が上がるってことが分かればいい。みんな、ここまではいいか!?」
「「はい!」」
従業員の返事を確認し、レンが右のペダルを踏み込む。
すると奇数番号の経糸500本がサッと上がり、経糸が上下に分かれた。
「ペダルを踏んだまま、上に上がった経糸500本と、残された経糸500本との間に小舟を通す。こうやって左から右へだ」
レンが小舟を、シュッと滑らせる。
「次に右のペダルを踏むのを止める。すると経糸が下がって元の状態に戻るんだ」
レンが足を離すと、上がっていた糸がストンと下がり、経糸は元の“閉じた状態”に戻った。
「この状態だと通した緯糸はまだフワッと浮いた状態だ。そこでだ――織機の真ん中にあるブランコみたいに吊り下げられているこれ。筬と呼ばれてるんだけど、この横長の木枠を手前に引いてギュッて押し込むんでやるんだ」
レンは木枠(筬)を手前に叩きつけ、トン、トンと、緯糸を手前まで押し込んだ。
筬には、経糸と同じ数だけの溝があり、すべての経糸が筬の溝を通っていて、緯糸を綺麗に押し込むことができる。
「次に左のペダルを踏むと、今度は別の経糸の半分、2つ目、4つ目と偶数番号の糸が上がる。そこを今度は右から左に小舟を通す」
レンが小舟を、シュッと滑らせる。
「そして左のペダルから足を離して糸を閉じて、木枠を叩いて緯糸を整えるんだ。あとはまた右のペダルを踏む──この繰り返しだ。これを何千回と繰り返せば布になる。みんな分かったか!」
「「はい!」」
従業員が一斉に返事をする中、ルクレティアが椅子に座るレンを、後ろから抱きしめた。
「ねえ、レン。布は手前から出来るのよね? それって出来た布が邪魔よね。段々と手を奥に伸ばすの?」
ルクレティアの胸が頭にあたり、レンは鼻を伸ばす。
(ほほう、やっぱりいいものをお持ちで。って違う!)
「ルクレティア、よく見て。俺の膝元、織機の下側に丸太みたいなのがあるだろ。これに経糸の先端が巻き付けられているのが見える?」
ルクレティアはレンの足元を覗き込んだ。
「ええ、ローラーがあるわ」
「このローラーを回すと経糸が引っ張られて、出来た布はローラーに巻かれていくんだ」
「わかったわ! 織れば織るほど、このローラーが絹の層を作って大きくなっていくのね!」
「その通り。この丸太がパンパンに大きくなったら最高の1反の完成だ」
ーー
レンが作業員たちに指導する織り小屋の隅で、ルクレティアとイオが並んで作業の様子を眺めていた。
「ルクレティア様、どうでしたか? 旦那様は、鼻の下を伸ばされていたでしょ?」
「ええ、イオの言う通りだったわ。この前は、恥ずかしくてレンの顔を見えなかったけど、今日はちゃんと見たわ」
ルクレティアは少し頬を赤らめながらも、小さく応えた。
「レンが私に全然手を出してくれないから……てっきり、クラウディアお姉さまとあなたに夢中で、私にはもう興味がなくなったのかなって不安だったの」
イオは、恥ずかしそうに首を振った。
「ふふ。そんなわけありませんよ。旦那様は、ルクレティア様が十六歳になったら正妻にすると仰っていたではありませんか。今はルクレティア様の体ができてないから、子供ができるのはよくないと仰られたのですよね?」
「ええ、そうだけど。そんな話は聞いたことがなかったわ。みんな、早ければ早いほどいいって」
イオは微笑んだ。
「他の誰がなんと言おうと旦那様が正しいと思います。旦那様は何でもご存知です。それにミネルヴァ様の加護を受けておいでですから」
「そうね。ありがとう、イオ。あなたのおかげで凄く安心したわ」
ルクレティアは嬉しそうに微笑み、イオの腕にそっと自分の腕を絡め、二人の少女の仲睦まじい笑い声が、織り小屋の中に響いた。




