90『糸づくり』
紀元前74年7月上旬。
パキポサが繭を作った、その数は約250万個。
その中から品種改良用の繭5万個が選ばれ、別の小屋に移された。
次に“量産用”の親にする、優秀な繭10万個が選ばれ、飼育員に渡された。
現在の飼育員の数は77名、
パキポサ小屋の数は43棟に増えていた。
レンは飼育員の増加に伴い、飼育長アレンだけでなく、副飼育長のマリウスとセリオの2人も、主要メンバーに加え、品種改良の秘密を伝授した。
レンが飼育員たちに指示を出す。
「さあ、みんな。選ばなかった繭を、蒸し小屋へと運ぶんだ! 中のサナギを殺さないと、羽化してしまうからな!」
「「はい!」」
235万個の繭が、レンの指示で隣の区画に建てられた蒸し小屋へと運ばれていく。
レンもルクレティアやセルギウスたち主要メンバーを引き連れて、その後に続いた。
ルクレティアが、石で固められた長方形の蒸し小屋を見てクビを傾げる。
「レン、この建物はなんだか地味ね」
「まあ、作業をするための建物だからな。
でもこの工場は、遥か東にある、漢帝国って国の工場を真似て作っているんだよ。絹については漢帝国の技術が最高なんだ。あっ、漢帝国って言うのはローマ人がセレス(絹の国の人々)って言ってる人たちのことだぞ」
「そうなの? レンは何でも知ってるのね」
ルクレティアに尊敬の眼差しで見られて、レンは照れ笑いをする。
「そ、それじゃあ中に入ろうか」
建物の中に入るとリクトスが感嘆の声を上げた。
「あの中央にある大きな釜で繭を蒸すんだよね!? っていうか、あの釜を囲んでいる攻城兵器みたいな巨大な木製の機械は何!?」
「あれは車輪つきの移動式大型セイロ(蒸し器)かな? 上部の長方形の箱みたいな形をしている部分があるだろ」
「うん、釜の上にある部分だよね」
「そう。あの箱の中は蒸気が通れるように空洞になってるんだ。一番上には蓋があるけど、蓋は柳でできていて、適度に蒸気が漏れるように隙間がある」
「そうなんだ。でもどうやって繭をあの箱の中に入れるの? あと、繭を入れても、中が空洞なら釜の中に落ちちゃうよね?」
レンは頷き、作業員に向かって『パチン』と指を鳴らした。
すると作業員たちが車輪付きの大型セイロを押し始めた。車輪が回り、レンたちの方に移動してきた。
「こうやって移動させることで、人が蒸気に当たらずに、箱の中に繭を入れられる」
「どこから入れるの?」
「箱の正面が扉になっているんだ」
レンは再び作業員に向かって再び『パチン』と指を鳴らし、作業員が扉を開けた。
「この箱の中に、柳と細長い木で作った木枠のセイロを入れる。木枠は箱の溝に合わせて差し込むだけでいい。段は10段あって、1つのセイロには約2万の繭を乗せられるから、一度に20万の繭を処理できることになる」
リクトスとタルトが驚きの声を上げる。
「20万!?」
「俺たちがローマで蒸していた時は、一度に300個くらいだったぞ!」
セルギウスが呟く。
「東方のセレス、いや漢帝国という国は恐ろしい国だな。このような機械で大量の繭を処理する方法があるとは⋯⋯」
「あっ、イヤ。これは俺のオリジナル? かな? 今の漢帝国はセイロは基本一段だけだ。それにセイロの上の蓋は完全に閉じて、蒸気が突き抜けないようになってる。だから大量の蒸気を送っても下から漏れるだけで、多段は難しい」
タルトが眉を寄せる。
「そんな凄い国なのに、なんで上を完全に閉じちゃうの?」
今度はレンが首を傾げた。
「さあ? 多分、試してみて火力が足りないからダメだと気づいたんじゃないか? 頑張っても3段くらいまでだろうな」
「火力が足りない?」
「そうだ。普通は薪に火をつけて釜の水を沸かすだけだろ? だけど、この蒸し小屋の大釜は水車式ふいごを使ってるんだ。だから数倍強力な火力が出てる。反対側にふいごがあるから、正面からは見えないけどな」
セルギウスが『なるほど』と頷く。
「村の横の川に堰を作り、さらに水路を引いて水車をたくさん回しているが、ここの水車はその一つなのだな」
「そういうことだ」
タルトが首を傾げる。
「それで火力があると何が変わるんだ?」
「火力が高いと蒸気の量が多くなるから、セイロを何段重ねても、一気に上まで“高温の蒸気”を突き抜けさせることができるんだ。
でも火力が弱いと、1段目や2段目の繭を温めるのに時間がかかって上に暖かい蒸気が届くまでに時間がかかる。絹は長時間蒸すと糸が劣化するから、全段を一度に『均一』に蒸す必要があるんだ」
リクトスが心配そうな声で聞く。
「長兄。でも、そんなに火力を上げたら、蒸気で繭が燃えちゃうんじゃないの?」
レンは笑って首を振った。
「心配しなくても大丈夫だ。蒸気は100度以上には上がらないから」
「100度? それなに?」
「あ、えっと。東方の言葉で暑さの単位なんだけど……。まあ、蒸気は物が燃えるような暑さにはならないってことって覚えておけばいい」
リクトスは納得は出来なかったが、人前なので、取り敢えず頷いて見せた。
「よく分からないけど、繭は燃えないってことだね」
「そう。あとは梯子に登って箱にセイロの木枠をセットして、車輪付き大型セイロを釜に移動させる。そして蒸気で20〜30分蒸す。これで繭の中のサナギは死に、糸が柔らかくほぐれやすい状態になる。その20〜30分の待機時間の間に、蒸し終えた繭を乾燥棚に広げたり、次の繭を別の木枠に準備すれば、1日で200万の繭を処理できる」
「200万! じゃあ、今回の繭はほぼ1日で処理できて、次の工程に運べるね!」
レンは首を振る。
「いや、次の工程の繭を糸に変える作業には時間がかかるんだ。だから殆どの繭は保管庫に移し、作業待ちになる」
「ふ~ん、そうなんだ」
「よし、じゃあ繭を蒸そうか」
――2時間後。
乾燥棚に置かれた繭をレンが触って確かめる。
「よし、もう十分乾いているな。みんな、大八車に繭を積んでくれ」
「「はい!」」
レンの指示で、作業員が一斉に乾燥棚から繭を柳の籠に入れる。ひとつの籠には約千個入り、それを10籠、大八車に載せていった。
タルトが大八車を見て首を傾げる。
「この車は変わってるな。初めて見た」
レンは笑いながら、大八車の荷台の縁を軽く叩いた。
「これは大八車って言って、短距離の運搬に最適なんだ。町中とか比較的平坦な場所だと、人間ひとりで250kgくらいの荷物を運べるんだ」
「250kgってレンが前に大人の男が3人くらいって言ってた重さだろ? 結構重い物を運べるんだな」
「そう。これがあれば牛や馬がいなくても、楽に重い荷物を運搬できるし、農作業の収穫なんかに便利なんだ」
タルトは感心したように頷いた。
「これも沢山作って村に配らないといけないな」
「レン様、繭の積み込みが終わりました!」
「よし、じゃあ繭を糸取り小屋へ運んでくれ! 次の作業に入る!」
「はい!」
レンの指示で、ひとりの作業員が大八車を推して糸取り小屋へと向い、レンたちも大八車のあとに続いた。
タルトが、大八車の荷台の繭の山を見ながら言う。
「長兄、これを本当に俺達の手で糸にできるのか?」
レンは頷き、白い山を一瞥した。
「できる。東方の中国って国では二千年前からやっている。俺はその設備を真似して作った。あとは手順通りにやるだけだ」
タルトは喉を鳴らし、揺れる繭の量に圧倒されたように息を吐いた。
「……二千年前から、か。東方の国って凄いな……」
糸取り小屋に入ると、そこは蒸し小屋以上の湯気と湿気に満ちていた。
中央には、浅くお湯を張った木槽が何列も並び、その大半は下から火が焚かれ、グラグラと熱湯が沸き立って激しく湯気を上げている。
レンは糸小屋の担当の作業員たちを集め、指示を出す。
「皆、俺が事前に説明していた通りの作業をするんだ。今日は初めてだからゆっくりでいいぞ。もし、分からないことが何でも聞いてくれ!」
「「はい、分かりました!」」
「蒸し小屋の作業員20名も、あっちの仕事が終わればこちらに合流する。繭を生きたまま放置したら羽化するからな、あっちが優先だ。合流したらお前たちが分からないところを教えてやれ!」
「「はい!」」
作業員たちが運ばれたばかりの乾燥した繭を、熱湯の中へと次々に投入する。
お湯に入った繭は、最初はプカプカと浮いていたが、熱を吸い込むにつれて少しずつお湯が染み込み、かすかに透明感を帯びていく。
「長兄、せっかく乾燥させたのに、またお湯で煮るのか?」
不思議そうに尋ねるタルトに、レンは頷いた。
「そうだ。繭は『セリシン』という天然の糊で固められているんだ。これを熱湯で5〜10分、じっくりと煮てほぐしてやらないと、一本の糸として引き出すことができないんだ」
ルクレティアが嬉しそうにレンの腕に抱きついた。
「レンはやっぱり凄いわ! なんでも知ってるのね!」
「あはは……」
(ほほう。さすがクラウディアの従妹、ルクレティアさんも随分立派に育って来ましたな……って、俺は何を考えてんだ! あと一年は手を出したら駄目だぞ!)
その時――作業員のひとりが、棒で繭の硬さを確かめ、繭を木のおたまに乗せてレンの所に持って来た。
「レン様! 繭が十分に柔らかくなりました!」
「うん。じゃあ、それを隣の列にある、ぬるま湯(約 40〜55℃)の木槽に移してくれ」
「分かりました!」
作業員が木槽に繭をポチャリと入れる。
「よし。じゃあ、この繭の糸口を引っ張って、繰糸台の上の糸車に繋げるぞ」
イオが首を傾げた。
「旦那様、糸口ってなんですか?」
「イオ。糸口って言うのは繭から糸を取り出し始める、糸の最初の先端のことだ。今からその糸口を作って見せてやる」
レンはそう言うと、ぬるま湯の木槽に浮かぶ繭に向き直った。
そして木槽の隣に置かれている、 柳で作った箒 を手に取った。
リクトスとタルトが『何をするんだ?』と身を乗り出す中、レンは湯に浮かぶ繭を、その箒の先で優しく、撫でるようにシャカシャカと掻き回し始めた。
「長兄! そんなに手荒に扱ったら繭が破れちゃうんじゃないの!?」
リクトスが慌てて声を上げたが、レンは手を止めない。
湯の中で繭をコロコロと回転させ、柳の細い枝先で、その表面を優しく掃いていく。
「リクトス。繭の表面は内部と作り方が少し違うんだ。幼虫が繭を作り始めた初期のもので、体を支える足場を作るために、太さも方向もデタラメに吐き散らした糸で出来ている。これを“乱れ糸”って言うんだ」
「乱れ糸?」
「そうだ。乱れ糸は天然の糊の割合が多いから、カチカチに固まっているし、方向がデタラメだから絶対に1本の糸としてほどけない。無理に引っ張れば途中で切れてしまう。だから乱れ糸はまとめて繭から引き剥がして、後で綿として寝具に使うんだ」
「どうやって繭から引き剥がすの?」
レンはニヤリと笑う。
「こうやって熱湯でふやかした繭を、表面を箒でなでて、乱れ糸を箒に絡ませてやるんだ」
レンがそっと箒を持ち上げると、その先には濡れた綿のような糸の束が絡みついていた。
「これが乱れ糸の塊だ。みんな! この塊から糸が1本だけ、繭の本体と繋がっているのが見えるか?」
イオが元気よく応える。
「はい、旦那様! 見えます!」
「その繋がった1本を、切ったところが糸口になるんだ」
リクトスが腰の小刀を抜く。
「じゃあ俺が切るね!」
「必要ない。こうやって乱れ糸の塊を引っ張って引きちぎるんだ」
レンが力を入れ、塊を引っ張ると1本の糸がプツリと切れた。
「繭から出ている方の糸の先端が糸口だ。糸口から先は本糸と言われ、繭から糸が取れる部分だ。ちなみに最後の方は終糸と言われ、糸が細くてすぐ切れる。なので終糸は糸が取れない」
イオが『分かりました!』と頷く。
「乱れ糸、本糸、終糸ですね!」
「そうだ。あとは糸口を摘んで引っ張れば、木槽のお湯の中で繭がクルクル回って、繭が勝手に解けていく」
レンは糸口を優しく引き、繭から糸を伸ばした。
「この糸を二つの鼓車の溝に通し、最後に繰糸台の上の糸車へ引っ掛けるんだ」
セルギウスが眉を寄せる。
「長兄。その鼓車って言う車輪は何で二つあるんだ? 繭と糸車の間に車輪をおいて、繭から出る糸が垂直に上に登るように角度をつけるためなら、1つあれば十分じゃないか?」
レンはフッと笑った。
「さすがセルギウス。いいところに目をつけている。だけどこの鼓車の役目は“角度をつける”だけじゃないんだ。一番大事なのは、糸についたお湯を飛ばすことなんだ」
セルギウスが首を傾げる。
「車輪で湯を飛ばす?」
レンは笑って、鼓車の1つを指で軽く弾いた。
「車輪でお湯を飛ばすんじゃない。車輪を使って糸の進行方向を左右に振ることで、水分を飛ばすんだ。そのために鼓車の溝は、1つ目と2つ目で角度が少し変えてある。糸は1つ目で左に振られ、2つ目で右に振られるようにだ。この“左右の方向転換の勢い”で、糸についた湯がしぶきになって飛ぶんだ」
セルギウスが目を丸くする。
「なるほど……! 車輪で糸をこすって水を落とすんじゃなくて、方向を変えて勢いで飛ばすのか……」
リクトスが首を傾げる。
「なんで糸についたお湯を飛ばすの。糸車に巻き付けたあとに乾かした方が楽でいいんじゃない?」
レンは笑って首を振った。
「それは絶対にダメだ。繭は糊で固まってるって言っただろ。繭から出て来る糸に付いているお湯には、糊が溶け込んでいるんだ。だから、糸車に巻いたあとで乾いたら、糸同士がくっついて取れなくなるんだ」
「じゃあ、もう一度お湯に漬ければ?」
「それじゃあ二度手間だし、もう一度お湯に漬けてほぐしたら、糸の品質が数段下がってしまうんだ」
「……繭を糸にするのって凄く難しいな……」
レンは『ふっ』と笑い、糸車の方を指さした。
「じゃあ実際に糸を巻いてみようか。糸車の側面にある取っ手をグルグル回すと、中央の横棒の軸が回る。軸には繭から伸ばした糸口をつけてあるから、軸の回転に引っ張られて糸は軸に巻きつけられていく」
リクトスが勢いよく手を挙げた。
「長兄! その糸車、俺に回させて!」
タルトが「あ、ずるいぞリクトス!」と声を上げたが、リクトスはすでに繰糸台の前へと身を乗り出していた。
レンは薄く笑み、一歩下がって場所を譲った。
「いいだろう。リクトス、糸車の側面に付いている取っ手を握れ。
……ただし、絶対に急に回すなよ、フリじゃないぞ。ゆっくりと均一な速度で回すんだ」
「わ、分かったよ。ゆっくり、だね……」
「そうだ。糸車の軸が回ると、その回転で糸が引っ張られて張力が生まれる。この張力が強すぎると糸が切れてしまう。だから、糸に軽く手を添えておいて、車輪の反応が強すぎたと思ったら手を少し緩めて“力を逃がす”んだ」
リクトスはごくりと喉を鳴らし、緊張で少し強張った手で糸車の取っ手を握りしめた。
「よし……いくぞ……!」
リクトスが慎重に腕を動かし、取っ手をゆっくり回した。
キィ、と小さな木擦れの音がして糸車が静かに回り始める。
「あ、旦那様、動きました……!」
イオが目を輝かせて、歓声を上げる。
湯の中に浮かぶ繭が、車輪に引かれるようにして水面でふわりと踊るように回転し始めた。
くるくると回りながら、繭の層から一本の極細の糸が、するすると解け出して出ていく。
「おおっ……! 本当に繭から糸が出てるぞ!」
タルトを始め、多くの者が繭から出て来る糸を見て感激の声を漏らした。
だがレンだけは、腹黒く笑っていた。
(クックック。これで繭を糸に出来るようになった。次は糸を布にすればもっと金儲けが出来るぞ)
※余談
※飼育員の賃金の内訳
ーーー
アレンの年間賃金は4000デナリウス、マリウスとセリアは3000。
班長は2500、熟練飼育員は1200、一般飼育員は800、見習い飼育員300。
■幹部
3名=1万デナリウス
■班長
2500×3=7500
■熟練飼育員
1200×4=4800
■一般飼育員
800×13=10400
■見習い飼育員
300×54=16200
★年間経費=4万8900デナリウス。
繭235万個を売った場合、約14万デナリウスで売れるため、約10万の利益となる。




