89 勢力拡大
紀元前74年3月。
クラッススたちとの会談や、ローマでの市民権の手続きを終えたレンは、久しぶりにガリアの村へ帰還した。
村の入り口で、レンの帰りを待ちわびていたルクレティアやセルギウス、そして部下たちが出迎える。
「みんなただいま!」
「レン、お帰りなさい!」
ルクレティアが真っ先にレンの懐へと飛び込んだ。
「ああ、ただいまルクレティア」
腕の中のルクレティアを優しく抱きとめ、旅の疲れが吹き飛ぶのを感じたのも束の間、セルギウスがひどく深刻そうな顔でレンに歩み寄ってきた。
「長兄。実は長兄がローマに行ってる間に、アラトリクス大村長が群長に任命された」
「そうなんだ」
「だがそれだけじゃない。アラトリクス群長は、2か月後にゲロリンクス群長を攻めるから兵を出せと言って来た」
レンは鼻で笑う。
「そんなものに男手を出すつもりはない。兵の代わりに、500デナリウスくらい金を出せばいいだろう」
セルギウスは顔を曇らせ、申し訳なさそうに声を震わせた。
「それが⋯⋯『長兄がローマから帰ってから返答する』とアラトリクスの使者に伝えたところ、隣村のウィンデクス村長が他の2人の村長を連れ、200ほどの兵で攻めて来た」
「はあ? 味方を攻めて来たのか?」
「ああ、脅しだ。奴らは村の境に建てた俺たちの交易所を焼いて、この村の集落にまで攻め込む気配を見せた。だから、やむなく兵を出すと約束した。すまない」
レンは怒りで眉を寄せる。
「交易所を焼いただと……? いつだ」
「5日前だ」
レンは口角を上げた。
「セルギウス。実は俺、2週間前にローマ市民になったんだ」
ルクレティアがぱっと顔を上げ、嬉しそうに目を輝かせた。
「レン、ローマ市民になったの!」
レンは懐から市民証明の羊皮紙を取り出し軽く叩いた。
「ああ、そうだ。
だから俺はもう“村長”じゃない。立場は地主だ。
村長の座はセルギウスに譲る。俺は土地の所有者として、これからはセルギウスの上に立つ」
「レン、凄いわ!」
レンは自慢気に笑う。
「俺にはローマ市民権と財産がある。25歳を超えたら、5年に一度の国勢調査で都市議会の議員になる筈だ」
リクトスたちが喜びの声を上げる。
「長兄が、議員になるの! 凄いよ!」
タルトが顎に手を当てる。
「剣闘士だったレンが議員になるのか……。これは周りが妬みそうだな」
「ふん。そんな雑魚は相手にしなければいい、掛かって来たら返り討ちにしてやる」
レンは日本人だった時は、おっかない人たちを恐れて目を合わさないよう避けていた小者だった。だが今は理不尽な目に合えば、拳で返せばいいだけだと、自分自身がおっかない人へと昇華していた。
「そういう訳でローマの法により、俺の支配下にあるこの村は『武力行使(戦争)』ができなくなった。だけど、その代わりローマ市民の財産であるこの村に手を出すことはご法度になった」
リクトスがその意味を察し、期待した目でレンを見る。
「じゃあ村を攻めて来た、あいつらはどうなるの?」
レンはニヤリと笑い、親指で首を掻き切る仕草をする。
「奴らは終わりだ。アラトリクス群長とウィンデクスには、きっちりとケジメを取らせてやる!」
ーー
その日の夕方。
ウィンデクス村長の屋敷。
「ウィンデクス村長! 隣村のレン村長が会いたいと、村の集落の入口に来やした!」
ウィンデクスが目を細める。
「兵は連れているのか?」
「いえ、護衛は3人だけっす」
ウィンデクスはどうせ文句でも言いに来たのだろうと軽く考えた。
「いいだろう、通してやれ。だが屋敷の周囲には村の男たちを50人集めて置け。レンは腕が立つらしいからな」
「へい、分かりやした!」
しばらくして、レンが屋敷の広間に現れた。
背後には護衛が3人しかいないのに、レンはウィンデクスを見下すような目つきで見下ろした。
「⋯⋯レン村長、何の用だ?」
「お前が村の交易所を焼いたことに対する、落とし前をつけさせに来た」
「ふん。俺はアラトリクス群長の命令で交易所を焼いただけだ。文句があるなら群長に言ったらどうだ」
ウィンデクスは群長に逆らえるものなら逆らってみろと、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「黙れ、このローマの叛逆者めが!」
レンの怒声が、部屋の空気を凍りつかせた。
想定外の言葉に、ウィンデクスは顔をしかめた。
「はあ? ローマの叛逆者? いったい何を言ってるんだ。お前、頭がイカれたのか?」
ウィンデクスの従者たちも、その言葉にゲラゲラと笑って応える。
レンの次席家臣エルンストが、怒り顔で懐から羊皮紙を取り出し、ウィンデクスの目の前へ突き付けた。
「黙れ下郎ども!! この証明書が目に入らぬかぁぁーー!!」
羊皮紙にはレンの市民権を証明する、執政官の公印と、ローマでの手続きを経た証が、厳かに刻まれていた。
だが、田舎の村長にはそれが分からなかった。
「⋯⋯なんだこれは?」
「これは2週間前にローマの民会が発行した、レン様がローマ市民権を得たことを証明する紙だ! つまりお前たちが交易所を襲ったことは、ローマ市民の財産を犯したという事だ!」
「っ⋯!?」
一瞬、ドキリとしたウィンデクスだったが、これはハッタリだと気を取り直した。
「はあ? 俺は字が読めん。だがローマ市民権の証明と言えばブロンズの板だと知ってる。これは偽物だ」
ウィンデクスは現実を認めず、証明書を指さし、自分の都合のいいように解釈をした。
レンは勝ち誇ったように笑う。
「俺の場合、文化功績で得た臨時のものだから羊皮紙なんだ。偽物かどうかは、アグド都市議会に問い合わせればすぐに分かる。俺はローマ市民になったことをアグド都市議会に証明書を持って、報告してきたからな」
ウィンデクスは疑わしいと、眉を寄せる。
「3日間だけ待ってやる、アグドの都市議会に問い合わせろ!」
「なんだと⋯⋯」
ウィンデクス村長は『まさか、本当の事なのか!?』と怯んだ。
レンは目を鋭く光らせる。
「お前たちが結論を出すのは、問い合わせたあとの3日後でいい。だが、それまでに、お前たちの仕置きについては決めさせてもらう。俺は俺の交易所を焼いた者をただで済ませるつもりはない! つまり、この村の全員が、ローマ法上の犯罪者になったってことだ!」
「っ!!」
「そ、村長どうするのですか!?」
慌てるウィンデクス村長と側近たちに向かって、レンは告げる。
「俺が属州総督に報告すれば、“法の執行”としてローマ軍がここにやって来る。ガリアの群長の命令なんて、ローマの前じゃ鼻くそほどの価値もない! 村長と郡長は処刑され、村人も重い罰金を課される! 最悪、村人は奴隷として売り飛ばされるだろうな!」
「「っ……!?」」
ウィンデクス村長たちは残酷な現実に顔を歪めた。
「俺の要求は1つ、事実確認が出来次第、この村の所有権を俺に渡せ。100デナリウスで買い取ってやろう。それが嫌なら――俺は総督に報告する。村長は死刑、村人は重い罰金だ!」
「……っ」
ウィンデクスの側近たちが詰め寄る。
「村長! どうするのですか!?」
ウィンデクスは唇を震わせながら、必死に威厳を保とうとした。
「ま、待て……。そんな話、信じるな……。まずはアグド議会に確認してからだ。俺は⋯⋯俺はまだ村長だ……いいな」
ーー
翌日の夕刻。
レンは、アラトリクス群長の邸宅を訪ねた。
何も知らないアラトリクスは、レンがセルギウスの非礼を詫びに来たのだと思って広間に通した。
だがレンが手ぶらな姿を見て、不機嫌に眉を寄せた。
「レン。わしに会いに来たのに手ぶらなのか?」
「アラトリクス群長。もちろん、手ぶらじゃありませんよ。これを見てください」
そう言ってレンは市民証明書の羊皮紙を見せた。
「なんだこれは? わしは字が読めん」
(お前もかよ! 郡長のクセに字が読めないってホント、ガリアは遅れてるな! これは学校を作って識字率を上げないと、村の発展が期待できないぞ)
「これは俺がローマ市民となったことを証明する文書です。ご存知でしょうけど、ローマ市民の財産に手を出すことは、ご法度です」
アラトリクスの顔がわずかに強張る。
レンは淡々と続けた。
「あなたは3人の村長に命じて、俺の村を襲わせた。その命令を受けた村長たちと、攻め込んだ村人たちがその事を証言してくれるでしょう。まあ、彼らが自供しなくても、通りかかった商人が大勢いますから大丈夫です」
「貴様⋯⋯なにが言いたいのだ」
レンはわざと軽く笑った。
「まだ分かりませんか? 属州総督に俺が報告すれば、あなたと村長たちは死刑。村人も重い罰金です。落とし前をつけろってことですよ」
アラトリクスは屈辱で拳を握りしめ、声を絞り出した。
「……何が望みだ」
「村を襲った3人の村長とは既に交渉して来ました。アグドの議会に、俺がローマ市民になった事を確認した後、俺に村の所有権を売り、村を出ていきます」
「なんだと⋯⋯」
「俺が地主として、これらの村を治めることを認めるなら、アラトリクス群長はお咎めなしとしましょう。俺もこのまま従属し、年に1500デナリウスの貢納を払ってあげますよ。俺は平和主義ですからね」
レンは肩をすくめ、軽い調子で続ける。
「ですが――これが飲めないって言うなら、総督に報告しますね? どうします?」
アラトリクスの顔が怒りと屈辱で、みるみる赤くなっていく。
(馬鹿な奴だ。『ローマ市民の財産に手を出した』時点で、お前の負けなんだよ)
ーーー
4日後。ウィンデクスたち3人の村長と、その一族は村を追われた。
レンは、新たに3つの村を手に入れ、そこに住む村人たち545人を傘下に加えた。
■レンの勢力・人口・産業構造
★勢力:4か村
(村長4人。
セルギウス、リクトス、タルト、アレス)
総人口:801名
★特産品:
①パキポサの繭
②醤油
③鉄の武器・道具
④粉石鹸
★主な施設と従事者:
・水車小屋:5つ
・鍛冶屋:1棟(15名)
・パキポサ小屋:37棟(38名)
・醤油小屋:8棟(12名)
・石鹸小屋:6棟(15名)
・養蜂場:(12名)
★(未稼働)絹織業(120名)
・繭の蒸し小屋1棟
・繰糸小屋2棟
・布織り小屋:3棟
・農業牧畜:323名(160名は絹織業に移動予定)
・林業42名
・建設(建物・水路・道路):61名
・運搬24名
2月の収支
醤油:△38万5390
石鹸:△1万5000
その他費用:▼5315
2月小計:△39万5075
★貯蓄:124万1187デナリウス(2月末時点)
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紀元前74年4月。
カプアの闘技場。
初日のメイン試合。観客たちが一人のトラキア人の剣闘士の勝利に、地鳴りのような大歓声を上げた。
砂の上に転がった対戦相手を一瞥し、スパルタクスは無造作に剣を収めると、勝利の余韻に浸ることもなく賞金を受け取って観客に手を振りながら鉄のゲートを潜った。
バティアトゥスに買われてから既に1年あまり、彼にとってこの勝利は記念すべき10勝目だった。
スパルタクスが待機広場へと出た瞬間、養成所のオーナーのバティアトゥスが顔を上気させ、相好を崩して両手を広げて近寄って来た。
「よくやったぞ、スパルタクス! 見事に10勝目を挙げたな!」
バティアトゥスは興奮する手でスパルタクスの逞しい肩をがっしりと掴み、まくしたてるように言葉を続けた。
「いやはや、大したものだ!『俺の妻を他の男に抱かせるな! その代わり全ての試合に出て賞金を稼いでやる!』そうお前が豪語した通り、無傷の10連勝だ! まさに言葉通りの大活躍じゃないか!」
ガリアの英雄レンや王者セウテスを一度に失い、絶望のどん底に叩き落とされたバティアトゥスにとって、このトラキア人の快進撃は2人に代わる希望の光に見えていた。
しかし、当のスパルタクスは、肩を叩くオーナーの強欲な視線を軽く躱し、短く応じた。
「……仕事をしただけだ。妻が無事ならそれでいい」
彼にとって、ローマ人の歓声も興奮もどうでもよかった。
ただ一つ、バティアトゥスに奴隷としてこき使われている愛する妻の身の安全と、彼女を自分の手元に取り戻すこと。それだけが、彼が砂の上で血を流し続ける唯一の動機だった。
「わっはっは! スパルタクス、喜べ! 今日からお前も、我が養成所の一流剣闘士の仲間入りだ。最上級の待遇を用意してやろう。一級剣闘士専用の家で妻と暮らせるぞ」
「……感謝します、オーナー」
スパルタクスは再び、感情の読めない適当な返辞とともに深く頭を下げた。
だが、その伏せられた鋭い眼光の奥には、恩着せがましいバティアトゥスへの感謝など微塵もなかった。
一軒家への移住、そして妻との同居の許可。
それは、周囲の厳重な警備の目をすり抜け、内密に『何か』を企てるには、これ以上ない最高の環境が整ったことを意味していた。




