81 交易商ディオゲネス
紀元前75年4月。
カトとの婚礼を二ヶ月後に控え、ルクレティアは日に日に募る焦りに胸を焼かれていた。
だが昨日、厳重な警備をすり抜けて現れたレンが『明日、この屋敷から連れ出す』と言ってくれた。
そして今日、屋敷の誰もが寝静まった時間。
ルクレティアは灯りの消えた寝室の窓をそっと開け、レンを待っていた。
暫くすると、窓からレンが音もなく部屋へ滑り込んできた。
ルクレティアは歓喜に胸を震わせ、その逞しい胸へと飛び込んだ。
「っ……レン! 来てくれたのね!」
「はい。約束通り迎えに来ました、ルクレティア様」
「もう準備はできてるわ。さあ行きましょう!」
ルクレティアが身の回りのものをまとめた小さな旅袋を手に取り、レンの手を握った――その時だった。
「いえ、その前に……片付ける問題があるようです」
レンが不敵に微笑み、部屋の奥の暗幕をじっと睨む。
静寂に包まれた寝室。
「レン、何を見ているの?」
「私です……お嬢様」
暗幕から現れたのは、ルクレティアに『お休みなさい』と言葉をかけ、部屋の灯りを消して出て行った筈の、専属侍女のアンナだった。
ルクレティアが驚愕に目を見開く。
「アンナ……!? 出て行ったのではなかったの……?」
「お嬢様の態度を見ていれば、今日屋敷を出るつもりなのだと分かりました。特に今朝は、私にこれまでの苦労を労って、ご褒美までくださいましたし……」
「アンナ……私を止めに来たの?」
「いいえ。どうか、このアンナも連れて行ってはくださいませんか。お嬢様がお生まれになってからずっとお世話をしてきました。お嬢様のお世話をすることが生涯の勤めだと思っております」
普通なら三人が同時に動くとなれば、脱出の難易度が跳ね上がる。だがレンは余裕の笑みで応えた。
「ルクレティア様、いいですよ。信頼の出来る者は大切です。それにお世話をする者がいた方がいいでしょう。ここは連れて行きましょう」
「レン、本当にいいの?」
「大丈夫です……まずは俺が先に窓から降ります。下で受け止めるから、ルクレティア様、アンナの順に飛び降りてください」
アンナが呆気に取られる。
「へ……? 窓から……ですか?」
しかし、レンはすぐにスキルを発動させ、バルコニーの縁から羽毛のように音もなくふわりと地上へ降り立った。
闇に沈む庭園に着地したレンは、上を見上げて小さく口笛を鳴らす。
意を決したルクレティアがスカートの裾を掴んで窓から身を投げると、レンはその華奢な身体を寸分の狂いもなく優しく受け止めた。
続いて、恐怖で顔を強張らせながらも覚悟を決めたアンナが飛び降りてくる。
レンはその身体も衝撃を完全に殺して軽々とキャッチする。
「よし、二人とも俺の背中にぴったり付いてきて。周りに人はいないようだけど、念のため足音を消してゆっくり歩くんだ」
二人が静かに頷く。
レンは『地獄耳強化』と『視力強化』で私兵たちの動きを完全に把握しており、ルクレティアたちは難なく邸宅を脱出することに成功させた。
翌朝。
マニウスは娘の居なくなった寝室で、机の上に置かれた一枚の書置きを見つけた。
『お父様、長らくお世話になりました。私はお父様の知らぬ地で、ひっそりと生きていきます』
その一文を読み終えた瞬間、マニウスの顔が怒りで歪む。
「なにがひっそりと生きていくだ……! あの男と一緒に決まっているだろう!」
マニウスは怒りで机を叩きつけ、怒号を屋敷に響かせた。
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紀元前75年5月。
この日、長い旅の垢をまとった商人の一行がクラッスス邸の門を叩いた。
一行の長の名はディオゲネス。エジプトのアレキサンドリアを拠点とするギリシャ系の交易商で、ローマからエジプト、さらにはその先のインドとも交易をしている大物である。
執事フィロムサスの案内で、執務室へ通されたディオゲネスは書斎の奥のクラッススに恭しく頭を下げた。
「クラッスス様、お呼びと聞き参上致しました」
「ディオゲネス。わざわざエジプトから来てもらって悪いな」
「いいえ、とんでもございません。クラッスス様がお呼びならば、何処であろうと参ります」
クラッススは重厚な 机に両肘をつき、声をひそめた。
「お前に頼みたい大きな仕事がある」
ディオゲネスはやはり仕事の話だったか、と頷いた。彼は手紙で『一度会って話したい』とだけ言われて、わざわざローマまで出向いて来たのだ。
「それはいったい何でしょうか?」
「サトウキビを手に入れてほしい」
その瞬間、ディオゲネスの瞳が鋭く細められ警戒した。
砂糖がサトウキビから作られていることは商人たちの秘密だった。『砂糖がただの植物の汁から作られている』と、バレては価値が激減する。そのため一部の知識人たちが秘密を嗅ぎ付けても、砂糖を売る商人たちはそれを頑なに否定して来たのだ。
「それはまた……。クラッスス様、サトウキビがどのようなものか、ご存知の上での仰せなのでしょうか?」
クラッススは喉の奥で低く、愉しげに笑った。
「お前たち商人が、東方の最高級の秘薬として天文学的な高値で売り捌いている『砂糖』――その根源たる植物なのであろう? エジプトのさらに東、かつてアレキサンダー大王が辿り着いたインダス川の彼方にあると聞いたぞ」
ディオゲネスはゴクリと息を呑んだ。
――なぜローマの有力者が、ここまで確信しているのだ。
「……失礼ながら、どなたからその話をお聞きに?」
「私がパトロンをしている、頭の切れる男からだ。否定しても無駄だぞ、私はその男を信じている」
ディオゲネスは已む無く『私は嘘は言いませんよ』と、取り繕った笑みを浮かべた。
「……それで、サトウキビを手に入れて如何なさるおつもりで? あれは熱帯の植物。このローマの冷涼な気候では、決して育ちません」
「それも分かっている。ゆえに温暖なカルタゴに広大な農場を拓くつもりだ」
「……なるほど。そこまで見据えておいででしたか……」
ディオゲネスは額ににじむ汗を拭った。クラッススの本気が滲み出ていたからだ。
「ですが――無理でございます。インドからエジプト、そしてローマへとサトウキビの苗を生かしたまま運ぶには、必ず灼熱の砂漠を越えねばなりません。ですが、それが不可能なのです。昼間に移動させれば苗は一瞬で干からびますし、道中では苗に与える膨大な水が必要となります。人間の命を繋ぐ水すらも足りなくなる砂漠越えにおいて、植物を生かすほどの大量の水を運ぶ余裕はございません」
クラッススはニヤリと笑みを浮かべる。
「嘘を真実に混ぜるな。サトウキビを増やすのは苗ではない、茎だ」
「あ、いえ、その申し訳ございませぬ! 決して偽りを言う気だったのではありません!」
クラッススは『まあよい』と笑って許す。
「よいか、その茎を30本ほど巻いた一束だけに全力を注げば生きたまま運ぶことが出来る。多くの茎の束と、他の商品までも運ぼうとするから砂漠が越えられぬのだ。全ての荷を水にして、ひと束のサトウキビだけに全力を注ぐのだ」
「一束だけ……?」
意表を突かれたディオゲネスは、言葉を失った。
「そうだ。根に十分な湿り気を与え、夜間だけ移動させる。それならば、砂漠の乾燥も、水不足も克服できるだろう」
ディオゲネスは沈黙し、クラッススが提示した輸送計画を脳内でシミュレーションする。
「……紅海の港を北上し、砂漠を抜けてエジプトに着くまでは五日から七日。数多の商品を運ぶキャラバンの荷をすべて水に代え、ひとつの茎の束に全力を注ぐ。……盲点でした。確かに、これならば可能でしょう」
クラッススが『そうだろう』と笑みを浮かべた。
「ですが――」
ディオゲネスは居住まいを正し、商人の、そして利権を持つ側の冷徹な目でクラッススを見据えた。
「このお話は、お断りいたします」
クラッススの鋭い視線が、ディオゲネスに突き刺さる。
しかし、ディオゲネスは一歩も退かなかった。
「私はローマに砂糖を売り、富を貪る商人の一人です。それをカルタゴの地で生産されては、私の商売は干上がってしまう。どうしてこの手で、自分の首を絞めるような真似ができましょうか」
部屋を支配する沈黙のなか、クラッススはただ静かに問う。
「いくら欲しい?」
ディオゲネスは静かに横に首を振る。
「いくら積まれても無理な相談にございます」
「ならば……そなた自身がそのカルタゴの農場を経営し、砂糖を作るというのはどうだ? 私がその農場を全面的に保護しよう。条件は、得られた利益の7割を私に差し出すことだ」
「7割でございますか……」
ディオゲネスは話にならないと目を細めた。
「そうだ。そなたが命がけで苗を持ち帰り、カルタゴの地で育て、砂糖を作る。私はそれを元老院や属州総督のあらゆる権力を使って保護する。そなたの首を絞めるどころか、地中海の全ての商人がそなたを見上げ、ひれ伏すことになるだろう」
ディオゲネスはバカげた話だと首を振る。
「いいえ、私はそうは思いませぬな。砂糖をカルタゴで生産すれば、市場は飽和して必ず値崩れを起こします。そうなれば、もはや金と同価値の『最高級品』として売れなくなるのです。クラッスス様が思うような利益は決して得られません」
クラッススは上から見下すような視線を向けた。
「ディオゲネスよ。いつ――私が高級品として売ると申した」
「っ……?」
クラッススは不敵に笑う。
「値崩れだと? 結構ではないか。薄利多売とは言わぬ、高利多売にするのだ」
「高利多売?」
ディオゲネスは『何のことだ?』と首を傾げた。
「よいかディオゲネス、お前は一握りの貴族に金と同等の値段で砂糖を売りつける方法しか頭にないのか?
――目をしっかり見開け!! ローマには、いや地中海には、甘みに飢えた数千万の民たちがいるのだぞ!!」
「っ!?」
ディオゲネスは息を呑んだ。
高級品として高く売ることしか頭になかった彼の脳裏に、いま全く新しいビジョンが突きつけられたのだ。
クラッススはさらに続ける。
「蜂蜜は高い。保存も効かぬ。味も重い。
だが砂糖は違う。軽く、扱いやすく、どんな料理にも合う。
特に──私がパトロンをしている男が、ローマの揚げた菓子に砂糖を加えて作った“ドーナツ”というものを子供たちと食べたが……あれは危険だ。一度口にすれば、誰もが虜になる」
クラッススは立ち上がり、ゆっくりと部屋の壁に掛けられた広大な地中海の地図を指さした。
「高級な薬のままなら市場は知れている。だが、誰もが少し手を伸ばせば買える値段で砂糖を売る。ローマの全ての市民と、そして属州の民たち、そして諸国の民までもがお前の作る砂糖を求めたらどうなる?」
クラッススは指先を「スペイン」から「ローマ」「エジプト」へと大きく滑らせる。
「数千万を超える人間が、お前の売る砂糖に群がるのだ。単価が多少下がろうとも、その市場の巨大さは測り知れない。貴族が気まぐれに買う秘薬としての利益など、一瞬で吹き飛ぶ富が動くのだぞ」
ディオゲネスは、大理石の床に足が張り付いたかのように動けなくなった。額から流れる冷たい汗が、顎を伝って膝の上に落ちる。
(僅か数十人の貴族を相手にするのではなく、数千万を超える民を相手に商売をするだと!? )
ディオゲネスは下を向き、悔しそうに拳を握りしめた。
「ですが無理なのです……。残念ですが、我々は砂糖を売るだけで製造方法を知らないのです。かの地の砂糖は王侯や大寺院が支配しており、我々が手に入れている砂糖は彼らを通した完成品。サトウキビそのものは市場で買えますが、砂糖の製造は特別な職人たちが代々受け継ぐ秘伝、外には決して出て来ません」
クラッススはニヤリと笑った。
「案ずるな、そのようなことは百も承知だ。だから私の取り分が7割だと言ったのだ!」
ディオゲネスはパッと顔を上げた。
「どういうことでしょう!?」
「ディオゲネスよ、砂糖の製造方法を――私は既に知っているのだ」
ディオゲネスはゴクリと息を飲んだ。
「っ!? ま、真ですか!!」
「ああ、製造方法を知っている。そなたがサトウキビの栽培に成功すれば、砂糖の製造方法を伝授してやろう。さて、どうする? 私の提案を受け入れるか」
ディオゲネスは背中から大量の汗を流した。
原産地から遠いローマの貴族が『砂糖の製造方法を知っている』などと、他の商人にもし言えば笑われる話だ。だがクラッススほどの人物が嘘をつく理由もない。それにこの誘いを断れば、クラッススは別の商人を呼び寄せるだろう。そうなれば自分は、とてつもない機会を逃した愚か者として、後世に語り継がれることになる。
「……利益の3割。そして元老院や属州総督による、我が商会への法的な独占権の保護。……それを、確実に保証してくださるのですね?」
ディオゲネスの声は、恐怖を抱きつつも、大きな商いへの期待で震えていた。
クラッススは満足そうに口元を歪める。
「ああ、約束しよう。我が一族の名誉にかけてな」
クラッススの言質を得て、ディオゲネスは深く頭を下げた。
「分かりました。1年後、何としてもカルタゴにサトウキビの茎を届け、始まりの農場を作ってご覧に入れます!」
そこでクラッススは思い出したように、懐から1枚の紙を差し出した。
「サトウキビの他にも、幾つかの植物の種を取って来て欲しい」
ディオゲネスはリストを見て、首を傾げる
「綿花……でございますか?」
「綿の繊維で織物を作れば、麻よりも肌触りが柔らかく、羊毛よりも遥かに軽い衣ができるそうだな。――お前なら、その価値が分かるだろう」
ディオゲネスは背筋に冷たい戦慄が走るのを覚えた。
砂糖に続き、今度は衣類の市場にまで手を出すつもりとは、あまりに強欲すぎる。
「クラッスス様、恐れながら申し上げます」
「なんだ」
「綿花を手に入れても綿布は作れません。あれは、かの地の職人ギルドが代々守る共同体知で、いくつもの工程があります。運よく1人の職人を手に入れられても、布ができるまでの全工程は分からぬのです」
「心配はいらぬ。綿花の種は、砂糖の製造方法を教えて貰ったことへの見返りなのだ。種を渡せば、後はその者が何とかする」
「何とか……する?」
クラッススのレンへの圧倒的な信頼に、ディオゲネスの額から冷たい汗が流れた。
(砂糖の製造方法に続き、職人ギルドが命がけで秘匿する国家機密級の技術をその男が知っているとでも言うのか!?)
ディオゲネスはたまらず、問いかけた。
「クラッスス様! その者はいったい何者なのですか!? 一度その方に会わせていただけませんか!?」
クラッススは傲慢に目を細め、喉の奥で愉しげに笑った。
「……よかろう。そなたが、この仕事に成功すれば会わせてやる」
「ありがとうございます! 必ずや、サトウキビと綿花の種を揃え、再びこの門を叩きます」
ディオゲネスは深く一礼し、執務室を後にした。
余談
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1年後。
ディオゲネスの手配により、サトウキビの茎の束が1つだけカルタゴに届くことになる。束には当初24本の茎がまとめられていたのだが、長い航海の途中で7本が腐敗し、生き残ったのは17本だった。
この17本はそれぞれ12節ほどに切り分けられ、合計で約200の挿し木にされてカルタゴの地に植えられることになる。




