08 ルクレティア
(……そういえばセルギウス先輩が言ってたな。
剣闘士に夜の相手をさせる女性貴族がいるって。
……もしかして俺、今晩の相手に選ばれちゃいました?)
ゴクリ……。
「貴方が、レン?」
レンは思わず立ち上がって背筋を伸ばして敬礼した。
「はい、そうであります!」
クラウディアがクスリと笑う。
「あなた変わっているわね……」
レンは恥ずかしくなり、慌てて手を下ろして視線を落とすと――
彼女の豊かな胸元が目に入った。
(す、凄え……! メッチャ美人な上に胸も大きい……!
俺がイケメンだから声をかけてきたんだよな!?
やっぱイケメンって最高だな……うひょ~)
クラウディアは、妖艶な笑みを浮かべる。
「話はあの子から聞いているわ。ふふ、ずいぶんと鼻の下が伸びているわよ、色男さん?」
(……あの子?)
レンが首を傾げると、
彼女は意味深に微笑み、軽く顎をしゃくってみせた。
その先――少し離れた場所に、テントが見えた。
「私の従姉妹がね、どうしてもあなたに会いたいってきかないの。向こうのテントにいるから、ついて来て」
レンは促されるまま、人気の少ない方へと歩き出した。
やがて、開放的で見晴らしのいい豪華なテントにたどり着いた。
テントの中には、一人の金髪の美少女がいた。
その姿がレンの視界に入った瞬間、脳内に残る『前のレン』の記憶がパチリと火花を散らす。
「……ルクレティア、さま?」
思わず名前がこぼれ落ちた。
ルクレティアはドレスの裾を小さく握りしめると、トトトッとレンの傍へ駆け寄ってきた。
目の前まで来ると、彼女は今にも泣き出しそうな、震える声で言った。
「レン……ごめんなさい。私のせいで、お父様があなたを剣闘士に……っ」
(この子は悪くないんだよな……。一番悪いのは、好きでもないのに『恋人ごっこ』をした前のレンの奴だ)
目の前の少女の涙は本物だ。
だが、中身が入れ替わっただけの今のレンからすれば、とんだとばっちりである。
考えてみれば、もうレンとは1年も会っていない。
恋人関係なんて、とっくに自然消滅している。
レンは勝手に、彼女はただ当時のことを謝りに来ただけだと判断した。
(よし。とにかく、この関係はここで綺麗さっぱり清算してしまおう。それがお互いのためだ)
レンは努めて穏やかに、大人の対応を見せることにした。
「大丈夫ですよ、ルクレティアさま。
俺のことは……もう気にしなくていいんです。
これからは、どうか幸せに生きてください」
「……っ!?」
これで彼女の罪悪感は消えて救われる。
そうレンは本気で思った。
だが、ルクレティアは青天の霹靂とばかりに、
その青い目を大きく見開いていた。
「……い、嫌です! レンを忘れるわけがありません!」
(え? もしかしてまだレンのことが好きなの?)
「……その……なんていうか……時間が経てば忘れますよ。
……現に、俺はもう忘れましたから」
レンは、わざと少しだけ寂しそうな声音を作り、
そっと彼女との距離を置こうとした。
本当は「もう別れよう」と一刀両断にしたかった。
だが、すぐ傍らでは従姉のクラウディアが静かに二人を見守っている。
彼女の前で“貴族への不敬”と受け取られるような発言をすれば、
その場で鞭を振るわれてもおかしくなかった。
(っていうかさぁ! なんで一度も恋人がいたことのない俺が、こんな子供を相手に別れ話をしなきゃいけないんだよ! 頭おかしいだろ!)
ルクレティアの顔が絶望に染まり、ショックで俯く。
「そ、そんな……」
だが、彼女はすぐにハッとしたように顔を上げた。
——(いやな予感がする)
明らかに、何か重大な勘違いをした人間の目だった。
「レン、そんな嘘は止めて! 明日、あなたは死んでしまうかもしれない……だから、私を傷つけないために、わざと嫌われるようなことを言って突き放したのね!」
「……違います。俺は死にません」
ルクレティアは顔をくしゃりと歪めて涙ぐむ。
「なら、私が死にます! レンが私を捨てるなら、生きていてもなんの意味もないわ!」
「……え?」
過激すぎる発言に、レンの口から素っ頓狂な声が出た。
驚いて隣のクラウディアに助けを求めようと視線を向けると——なぜか彼女は、般若のような恐ろしい顔でレンを思いっきり睨みつけている。
(なんで睨むんだよ!? 俺にどうしろって言うんだよ!)
貴婦人の視線に命の危機を感じたレンは、冷や汗をだくだくと流しながら、慌ててルクレティアに向き直った。
「ル、ルクレティアさま……。あなたの言う通りです。俺は明日、死ぬかもしれない身だからあなたが心配なのです。今のうちに、俺のことは忘れてください……」
(マジで頼むよ)
「そんなこと、二度と言わないで!」
ルクレティアは目にいっぱいの涙を溜めて叫んだ。
テントの周囲にいる護衛たちの視線がレンに刺さる。
「あなたが死んでも、私はあなたの……分かるでしょ!?」
貴族の令嬢という立場上、人前で奴隷を「恋人だ」と言うことはできない。
言えないからこそ、その瞳には尋常ではない重い愛と決意が宿っていた。
(あれ? これ、もしかして別れられないパターン?)
レンは焦った。
これ以上下手に刺激したら、なにが起るか分からない。
それに周囲の目が気になった。
「……ルクレティアさま、俺が悪かったです。どうかもう落ち着いてください」
「レン! 分かってくれたのね!」
ルクレティアはパッと一瞬で花が咲いたような笑顔を見せる。
「分かりましたから、お静かに願えますか……」
「レン! ありがとう!」
(体は15歳とはいえ、11歳の貴族令嬢と「恋人ごっこ」を続けるなんて勘弁してくれよ。前のレンの奴、負の遺産が多すぎるって……)




