07 試合前日
紀元前77年5月。
ガタガタガタガタッ!!
「ぶふっ! 痛ってぇ……!」
カプアから馬車で出発して三日目。
レンはもう何度目か分からない悪態をついた。
ローマ行きの“馬車”としてあてがわれたのは、最低の代物だった。
屋根代わりに薄汚れた麻布をかけただけの、ただの大型木製荷馬車。
サスペンションなんて洒落た機構は存在しない。車輪は鉄輪をはめただけのガチガチの木製。
狭い荷台には、レンを含めた新人剣闘士三人と監視兵二人が押し込まれていた。ぎゅうぎゅう詰めで座らされ、レンたちの足首には鉄枷と鎖がつけられているため、身動きはほとんど取れない。
さらにレンは馬車酔いと、スキル使用のMP枯渇による、ダブル酔いに襲われていた。
(う……吐きそう……)
「おいガリアのガキ、吐くなら外に首を出せよ。荷台を汚したらその場で鞭打ちだ」
監視兵が錆びた剣の柄でレンの肩を小突いた。
(くそっ、下級剣闘士の扱いって、ほんと家畜以下だな……!
俺はいずれ最強になる男だぞ!)
レンたち下級剣闘士と一流剣闘士では扱いが違う。
下級剣闘士の食事は、一日にたった一度だけ。
カチカチの大麦パンと、泥臭い濁った不味い水しか与えられない。
だが、一流剣闘士は違う。
もっと広くて快適な馬車に乗り、栄養のある食事を与えられながら移動する。
もちろん、足に鉄枷などは付けられない。
オーナーにとって一流剣闘士は丁重に扱うべき高級品であり、
新人のレンたちはどうでもいい安物なのだ。
レンの隣では、同じガリア人の新人二人が真っ青な顔でガタガタ震えていた。
今回の馬車で少し仲良くなったリクトスが、涙目でレンに話しかける。
「なぁ、レン……俺たち、ローマに着いたらすぐ試合なのかな……」
「さあ……。俺は詳しくは知らないから、隣のタルトに聞いてみてくれ」
そう答えると、レンは押し黙ったまま『先読み』のスキルを再び使用した。
その直後、さらに気分が悪くなる。
(ぐっ……我慢だ……。
これは、生き延びてモテモテライフを掴むための試練だ。
俺なら耐えられる……!)
隣の新人たちが絶望に泣き暮れる中、レンは未来のモテモテ生活を夢見て、スキル訓練を続けた。
「――おい、お前ら見ろ!」
監視兵の声に、レンの意識が現実へ引き戻された。
ガタガタと震える足で荷台から身を乗り出し、前方を見据える。
アッピア街道の先──
地平線を埋め尽くすように、巨大な建造物の群れが姿を現した。
白く輝く大理石の神殿。
ローマ市街へと続く巨大な水道橋。
そして剣闘士たちが戦う、巨大な渓谷を思わせる、キルクス(大競技場)。
人口は約六十万。
血と暴力と、圧倒的な富が渦巻く世界最大の都市──ローマだ。
馬車は、ローマ郊外にあるマルスの野と言う広野で停められた。
ここには他の養成所の剣闘士たちも大勢集まっていて、無数のテントが張り巡らされている。
この時代のローマにはまだコロッセオが存在せず、剣闘士たちを収容するための地下牢がない。
そのため剣闘士たちを、マルスの野という“臨時の収容所”に押し込めて監視するのだ。
「おい、お前たちの武器だ。確認しろ」
監視兵の冷たい声とともに、取り上げられていたレンの武器が目の前に突き出された。
レンは手に取って、刃の欠けやバランスを確かめる。
手に馴染む感覚に、ほんの少しだけ安心したが、その瞬間。
ガシッ。
看守が力ずくでレンから短剣を奪い返した。
「よし、確認終わりだ。本番まで預かる」
(……まあそうだよな。奴隷に武器を持たすと危ないからな)
夕方。
いかにも腹黒そうな笑みを浮かべた興行主ガイウス・スクリボニウス・クリオが、護衛と帳簿持ちの秘書を連れてやってきた。
興行主とは、金を払って剣闘士をレンタルし、闘技場で戦わせる“試合の主催者”である。
彼らはローマ市民に無料で観客席を提供することで、人気と名声を得るために金を出しているのだ。
なお、剣闘士を貸す養成所のオーナーは興行師と呼び、興行主と一字違う。
興行主のクリオは、レンたち剣闘士を自身の大テントに次々と呼び出した。
クリオは剣闘士の体を順番に眺め、筋肉の張り、古傷、歩き方、呼吸の深さまで、まるで家畜の値段でも決めるように冷たくチェックしていく。
やがてレンの前で足を止め、鼻で笑った。
「……ガリア人のガキか。血の気は多そうだが、まだ線が細いな。
これで銀貨二十枚は論外だ。レンタル料の最終額は銀貨十枚だ」
クリオが淡々と告げると、秘書が無言で帳簿の数字を書き換えた。
興行主と興行師(養成所のオーナー)との間で、あらかじめレンタル料は決まっているが、試合前のこの最終チェックで、最終的な金額が興行主によって決められる。
それがこの世界の仕組みだ。
(……俺の価値はそんなに低くないだろ! 舐めてんのかコイツ!)
レンが思わず目を細めると、クリオと目が合った。
(まずい!)
「ほう……ガリア人らしい目つきだ。
根性は買うが──次にやれば、護衛に目を潰させるぞ!」
「は、はい! すいません!」
(ヤバかったぁ! こいつらマジで目を潰すから、気をつけないとダメだ!)
ーーーーーー
夜、レンたちの前には、奴隷には不釣り合いなほど豪華な食事が用意された。
しかし、これが最後の晩餐や優しさからくるものではないことは、レンにも分かっていた。
テントの前の柵にはローマ市民やブックメーカー(賭け屋)が群がり、レンたちの食事風景を見ていた。
これは「見世物としての晩餐」だった。
「おい、あのペルシア人の奴の体つきを見たか?」
「悪くない。だが明日の相手は巨漢のガリア人だぞ。オッズはどうなる?」
ローマ市民たちはレンたちを人間だとは思っていない。
ただの“賭けの対象”として、目の前で堂々と勝ち負けの相談をしていた。
レンは彼らを無視して、久しぶりのまともな食事を楽しんだ。
(まあ、料理が美味いから見ることくらい許してやる。俺にとってはお前らはジャガイモと同じだ)
その時、野次馬のローマ市民が騒ぎ始めた。
「おい、見ろよ……クラウディア様だぞ」
「いい女だよな。お忍びかな?」
男たちが騒ぐのでレンが視線を向けると、
柵の内側に、強そうな護衛を一人連れた燃えるような赤毛の貴婦人が、
食事中のレンたち剣闘士の方へゆっくりと歩いてきていた。
周りの連中が「クラウディア」と呼ぶその女性は、
レンの目にも確かに大人の色香と豪奢な雰囲気を纏っていた。
(凄え美人だな。年は二十歳くらいか?
柵の内側に入れるってことは、金持ちか貴族だよな。
……お近づきになれたりしないかな。俺、将来出世しますよ?)
レンがそんなバカなことを考えていると、
そのクラウディアが目の前で足を止め、
まるで品物でも値踏みするように、じっとレンを見つめた。
(え? なに? これどういうこと!?)
レンの頭にセルギウスの言葉が浮かんだ。
(……そういえばセルギウス先輩が言ってたな。
剣闘士に夜の相手をさせる女性貴族がいるって。
……もしかして俺、今晩の相手に選ばれちゃいました?)
ゴクリ……。




