06 トラキア派閥
紀元前77年5月。
レンがセルギウスから「次の試合は半年後くらいだ」と聞いてから3週間が経過した。
レンは毎日、朝から昼過ぎまで養成所の訓練メニューをこなし続けていた。
今日の訓練が終わり、汗の残る身体のまま広間の休憩所へ向かい、セルギウスと並んで長椅子に腰を下ろした。
「セルギウス先輩、今日も疲れましたね」
「そうだな。だが、レンはまだまだ鍛え方が足りん。
半年の猶予があると思って気を抜けば、すぐに置いていかれるぞ」
「はい……」
(正直、ギスギスした男ばかりのこの養成所で、この人といる時が一番安心するんだよな……)
このひと月の間、レンは時間があれば腰巾着のようにセルギウスの所へ通って、戦い方のコツや養成所のルールを教わっていた。
今では養成所のまずい飯にもすっかり慣れ、AIによる強制MP特訓を毎日黙々とこなしながら、充実した日々を過ごしていた。
特に、レンは自分のステータスが日々上がっていくのが嬉しかった。
現在のレンのMPは『74』。
そして肝心の『先読み』のレベルは『26』、
発動確率は『60%』にまで上昇した。
そのため、このペースなら半年後までに『先読み』の発動確率を余裕で100%にできると、レンは信じていた。
「先輩、そういえば次の試合ってどんな感じですか?
やっぱりランダムで決まるんですかね。個人戦、集団戦、獣との戦いとか?」
セルギウスは口元だけで笑った。
「そうじゃない。二回戦以降は、基本的に同じランクの剣闘士同士のタイマンだ。団体戦は新人はあまり呼ばれん」
(同じランクならほぼ新人だな、これは余裕だな)
そんな風にレンが内心でほくほくしていると、荒々しい足音が近づいてきた。
やって来たのは、トラキア人のドロミコスだ。
セルギウスの同期で、彼を勝手にライバル視している、非常に面倒な男であった。
「おい、セルギウス。お前、最近そのガリアのガキと、よく一緒につるんでるだろ」
ドロミコスは湾曲したトラキア短剣を腰に鳴らし、不機嫌そうにレンたちを睨みつけた。
「俺たちの派閥に入るのを拒んでおいて、まさかそいつと組んで自分の派閥でもつくる気じゃないよな?」
この養成所では出身地による派閥争いが激しい。
特にガリアとトラキアの派閥争いは最悪だった。
ガリアは現代で言えばフランスあたり、
トラキアは黒海の北西あたりに位置する民族だ。
文化も気質も大きく異なるため、両者の仲は古くから悪い。
(……ったく、いちいち絡んでくるなよ。
俺は平和主義者なんだ。揉め事なんて御免だってのに……)
レンの出身地であるガリア派閥を率いているのは、
次の3人の一流剣闘士。
★ヴェルコス
★アラトリクス
★クリクスス
対してトラキア人派閥には、
一流剣闘士のコティスを筆頭に実力者が顔を揃え、さらにその頂点には、この養成所の看板スターである剣闘士・セウテスが君臨していた。
ドロミコス自身はまだ二流剣闘士に過ぎないのだが、派閥の大きさを自分の強さと勘違いしている男である。だからこそ、ガリア人であるレンのことを“セルギウスの腰巾着”としてゴミのように扱っていた。
(正直、なんで絡んで来るのか分からん……。暇なのか?)
レンの先輩であるセルギウスはヌミディア人だ。
かつては北アフリカの精鋭として知られる『ヌミディア軽騎兵』に所属していた。馬を失った今でも、その身のこなしは養成所で一、二を争う。
だからこそ、ドロミコスがいくら突っかかってきても、どこ吹く風という態度を崩さなかった。
「派閥、ねえ」
セルギウスは長椅子に深く背を預けたまま、鼻で笑った。
「俺は一匹狼が性分でね。セウテスに頭を下げるのは、どうも性に合わない。それに、この命の短い仕事で群れて何になる?」
「チッ、相変わらずへらず口を……。まあいい、そこのガリアのガキなんぞとつるんでると痛い目――」
ドロミコスが言いかけた言葉が、不自然に途切れた。その顔からスッと血の気が引き、慌てて直立不動の姿勢を取る。
広間の向こうから、重苦しい足音が近づいてくる。
現れたのは、彫刻のように鍛え上げられた巨大な肉体に、数々の死線を潜り抜けてきた傷跡を刻んだ男――トラキア派閥の頂点、スター剣闘士のセウテスだった。
彼は小汚い布で、訓練で使った己の得物を無造作に磨きながら、ただそこを通りがかろうとしただけだった。
だが、その場を支配する圧倒的な覇気と威圧感に、レンの身体が本能的に恐怖した。
(これ……先読みが100%でも無理だろ……絶対殺される……)
レンは前世のしがないサラリーマンの習性で強いものには巻かれる主義だ。
反射的に長椅子から立ち上がり、セウテスに向けて深く頭を下げた。
「お、お疲れ様です……っ」
一瞬、セウテスの足音が止まった。
磨いていた剣から、冷酷な眼光がゆっくりとレンへと向けられる。
(……あ、やべ。現代の感覚でつい挨拶しちまった)
奴隷の、それもまだ一勝しかしていない最下層のガキが、養成所の稼ぎ頭であるスターに気安く声をかけるなど、本来許されることではなかった。
(焦って失敗したぁ〜!)
レンが下を向いて冷汗を垂らすなか、
セウテスはピクリとも表情を変えない。
そして冷徹な目でレンを見ると、冷たい声で言い放った。
「ゴミが、気安く話しかけるな。耳が汚れる」
「……っ」
レンの息が詰まった。
殺気すら混じったその一言に、心臓が跳ね上がる。
セウテスはそれ以上何も言わず、そのまま悠然と去っていった。
(た、助かった……)
セウテスが見えなくなると同時に、それまで縮こまっていたドロミコスが、待ってましたとばかりにゲラゲラと下品な笑い声を上げた。
「ハハハ! ざまあみろガリアのクソガキ! セウテス様にお声をかけようなんざ、百年早いんだよ! 身の程を知れ、身の程を!」
自分の力でもないのに、イキり散らすドロミコス。
そんな小悪党の様子を、セルギウスは蔑んだ目で見つめた。
ドロミコスがなおもレンを煽り立てようと、大きく息を吸い込んだ――まさにその時だった。
「レン! それからそこにいる新入りども! ボサッとするな、今すぐローマ遠征の準備をしろ。出発は明朝だ!!」
広間の入り口の扉が乱暴に開け放たれ、オエノマウス教官の地鳴りのような怒声が響き渡った。
「え……!? ろ、ローマ……遠征ですか?」
間抜けな声を上げたレンの頭の中で、一ヶ月前のセルギウスさんの言葉がリフレインする。
(半年後じゃなかったのかよ!)
レンがセルギウスを見ると、彼も目を見開き驚いているのが分かった。
「待ってください、俺は一カ月前に試合をしたところですよ!」
「知らん。オーナーが決めた事だ!」
オエノマウスはレンの言葉に冷酷に応え、鋭い眼光で睨みつけた。
「ローマの闘技場でお前たちの試合が組まれた。一週間後だ! バティアトゥス様からの直命だ。つべこべ言わずに早く荷物をまとめろ!」
その視線はレンと、広間の隅でガタガタ震える新人二人へ向けられていた。
カプアからローマへはアッピア街道を通る。
どれだけ街道を急いでも、移動だけで丸五日はかかる距離だ。
つまり、到着して一日か二日後には、レンは闘技場の砂の上で試合をすることになる。
(おかしい……。半年後どころか、デビュー戦からまだ一ヶ月だ。こんな短期間で、しかも移動だけで潰れるようなスケジュールでの遠征なんて、あり得ないだろ……!)
レンは隣のセルギウスを見た。
いつも不敵に笑う頼れる先輩が、今は見たこともないほど険しい表情で、苦虫を噛み潰したように奥歯を噛み締めていた。
セルギウスはこの異常なスケジュールの「本当の意味」を、理解していた。
「オエノマウス教官」
セルギウスが低い声で尋ねる。
「新人のレンを、いきなりローマの遠征に? まだ十五歳のガキですよ。あまりに急すぎやしませんか」
「黙れ、セルギウス! お前はカプアで居残りだ。オーナーの決定に口を挟むな。それ以上口を開けば鞭打ちにするぞ!」
オエノマウスはそう言い捨てると、監視兵たちの方へ向き直った。
その一瞬の隙だった。
教官の視線が外れた刹那、セルギウスがレンに小声ではっきりと告げた。
――「例の貴族だ」
(貴族!? あっ、レンの恋人の父親か! バルバトゥス家のマニウスとか言う奴……!)
レンは怒りで拳を握る。
(くそっ! 俺の半年の猶予を邪魔しやがって! 絶対に許さねぇ! 最強になったら痛い目に合わせてやる!)
「おい、何を突っ立っている! 早く部屋に戻って支度をしろ!」
監視兵の怒声が響く。
「……はい」
レンはセルギウスに小さく頷き、自分の地下牢の部屋へ歩き出した。




