77 数学者
紀元前76年12月。
夜。
パラティヌスの丘にそびえる、大貴族マニウスの邸宅。
「ルクレティア様、お休みなさいませ」
「ええ、アンナ。お休みなさい」
ルクレティアがベッドに入ると、専属侍女のアンナは青銅製のオイルランプの火をそっと吹き消し、気配を殺して静かに扉を閉めて退出した。
闇に沈んだ寝室で、ルクレティアが冷え込む空気に肩をすくめながら、毛布に深く身を沈めた──その時だった。
暗闇の奥、誰もいない筈の部屋の隅から低い声が響いた。
「ルクレティア様……俺です、レンです」
ルクレティアは小さく息を呑み、毛布を跳ね上げるように勢いよく起き上がった。
「レンなの……!?」
「そうです。ルクレティア様に会いに来ました」
夢ではない。
暗闇の向こうから、確かにレンの声が返ってきた。
ルクレティアは寝台の横の小棚に必死に手を伸ばし、置かれた青銅製のランプを手探りで掴み取る。
震える指で火打ち石を打ち合わせると、ぱち、と火花が散り、ランプの細い芯に温かな光が灯した。
揺らめく灯火の中に、夜の帳をまとって立つレンの姿が浮かび上がる。
レンはスキルをフル活用し、厳重な警備を搔い潜って侵入してきたのだ。
「……レン、本当に来てくれたのね!」
家の者に気づかれぬよう小声で囁きながらも、ルクレティアの瞳には狂喜の涙が溢れていた。
ベッドを飛び出すと、衝動のままにレンの逞しい胸へと飛び込む。
「レン、お願い、すぐにここを出ましょう! お父様に見つかる前に──」
「ルクレティア様、落ち着いてください。手紙はちゃんと読みました」
華奢な背中を優しく抱きとめ、耳元で小声で宥めるように続ける。
「……今日は話をしに来ただけです。まだルクレティア様を迎えるための準備が整っておりません」
「準備なんていらないわ! あなたさえいれば、私は地の果てだって構わない!」
必死にすがりつくルクレティアに、レンは少し困ったように苦笑しながらも、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
(うーん、いい子だな)
「そう言ってくれて嬉しいです。でも、もう少しだけ待ってくれませんか。これから、ガリアの南部に俺の村を作るんです」
「レンが、自分の村を……」
「はい」
涙を拭い、レンの瞳をじっと見つめる。
ただ助けるだけでなく、自分を完璧に守るための領地を作ろうとしてくれている。その愛の深さに胸が熱くなり、ルクレティアは小さく頷いた。
「レンがそこまで言うなら……。分かったわ、信じて待つ。でも、本当に迎えに来てくれる?」
「もちろんです。約束は絶対に守ります。……もし予定が変わって君が明日が結婚することになったとしても、神殿の祭壇の前から、搔っ攫って逃げますよ。カトなんかに、絶対に渡さない(俺の命のために!)」
「レン、本当!? 凄く嬉しいわ!」
ルクレティアは情熱的なレンの言葉に完全に心を打たれた。
感激のあまり顔を真っ赤にし、ギュッとレンの体にこれ以上ないほど密着するのだった。
ーーーーー
数日後。
オスティアの造船所。
薄暗い作業小屋の中、船大工の長マリーヌスが怪訝な顔で聞き返した。
「レン。いま、一流の数学者を呼べと言ったのか?」
「そうです。今回、俺たちは船の背骨となる竜骨と、その肋骨にあたるフレーム部分を先に作り始めます。この骨組先行法には、数学者の力が必要なのです」
マリーヌスは四人の幹部たちと顔を見合わせ、首を傾げた。
「分からん。船を作るのになぜ数学者が必要なんだ。そいつに何をさせようってんだ?」
「数学者には肋骨にあたるフレームの曲線の部分の図面を書いて貰います」
マリーヌスが眉を寄せる。
「フレームなんて書かせてどうするんだ、俺たちの図面で十分だろ」
「フレームは全て同じ大きさで同じ形がいい。一枚でも形が狂えば、そのズレが外板に伝わって船全体が歪みます。歪みが大きいほど、船の耐久力が下がる。これは分かりますよね?」
五人が頭の中で想像し、頷いた。
「確かにそうだな。だが、多少の違いは仕方ない。それをどこまで小さくするかが、俺たちの腕の見せどころだ。そうだろ皆?」
「おお、その通りだ。こういう時こそ、俺たちの勘と経験がものを言うってもんよ!」
ナウタがレンの肩に手を置く。
「レン殿、俺たちを信じろ。数学者がどれだけ紙に、正確な図面を書いたところで無駄だ。まず俺たちが、ひとつだけフレームを作る。それを可能な限り似せて作るしかないんだ」
「そうだ!」
「ナウタの言う通りだ!」
レンは首を振る。
「この前、歪みをほぼ無くす秘策があると言いましたよね? 同じフレームを量産するための秘策があるのです」
「同じフレームを作る秘策だと?」
「はい。例えば、全く同じお皿を作る時、型を取ってから大量生産しますよね。それと同じことをします。モールドと呼ばれる型板を作って、同じフレームを大量生産するのです」
「型は分かるが、船を造るのに型を使うなど聞いたこともないぞ。それに皿を作るのは、型に粘土を流し込めばいいだけだが、木は型に流し込めん」
レンは軽く笑い、首を横に振った。
「もちろん流し込みは不可能です。この型板は、皿の型とは使い方がまったく違います。ですが、お皿で例えるなら、順番が逆です。大きな皿を作ってから型にはめ、型に合わない皿の余分な部分を削って型に合わせていく感じです」
マリーヌスが顎に手を当て考えながら、呟く。
「なるほど、型に合わせながら形を整えていくと言うことか?」
「はい。この型板の作り方はまず数学者に『船の長さ・幅・高さ・形状』を伝えて、船に最適なフレームの曲線を計算してもらいます。次にその曲線を用いた船の原寸大の断面図――フレーム部分を大きな板に描いてもらうのです」
そこでレンはニヤリと笑った。
「だけど俺達じゃ、完璧な曲線を計算して書くなんて出来ないでしょ? だから数学者に任せるのです」
「……確かに、俺たちの経験なら大体のものなら描けるが、寸分違わぬ正確な計算となると無理だな……」
マリーヌスが職人としての限界を素直に認めると、4人の幹部たちも苦笑交じりに頷いた。滑らかな曲線の方程式など、大工の差し金と墨壺だけで導き出せるはずもなかった。
レンは職人たちが納得すると、満足そうに頷いて続ける。
「あとは板に書かれた断面図の、船の内部部分の板を削り取れば――船の外部に完璧に合う型板の完成です」
マリーヌスが疑問を口にする。
「レン。フレームほど巨大な板など存在しない。その板は繋ぎ合わせた板でよいのだな?」
「はい。ですが、作ったフレームを型に合わせるため、ある程度の強度は必要です」
マリーヌスが顎に手を当て考える。
「そうだな。……その条件なら、ある程度の大きさの板を縦に何枚も並べて、別の板を横に置いて、釘と木栓(木の釘)を打って固定して、最後に膠で継ぎ目を固めれば強度のある“巨大板”になるだろう。横板のある方はデコボコだがな」
「フレームを合わせない板の表裏の部分は、デコボコだろうとどうでもいいです。これで型板を作るまでの工程は大丈夫そうですね」
ナウタが腕を組み、頷く。
「なるほどな。型板があれば職人の勘に頼らずとも、同じ形が量産できると言う訳か。……確かに理にかなっている」
マリーヌスが指示を出す。
「では俺達は断面図を描くための巨大な板を作るぞ。その間に、クラッスス様にお願いして、ローマの優秀な数学者を呼んでもらう。いいな!」
「「おう!!」」
作業小屋の空気が一気に変わった。
職人たちの表情がやる気に満ちる。
(よし、これで何とかキャラック船もどきが造れそうだな。
だけど――ローマは厚材を曲げる技術が未熟だ。だからフレームは、どうしても大航海時代よりも多くの木を継ぎ合わせて作ることになる。その分、強度が落ちて、大航海時代の3割程度の強度になる。
ただ、大航海時代の初期にはなかった胸壁を立てて箱形の船体構造に組み込んでいるから、全体として見れば──初期キャラックの8割くらいの耐久力はあるだろう。まあ、初期は後期の半分の耐久力しかないけど……)
レンがキャラックもどきの完成図を頭に描いていた――その時。
幹部のアウルスがふと気づいた。
「……レン殿。ひとつ気になるんだがな。レン殿の絵を見ると、外板の大きさが尋常じゃない。これほどの大きさはまず手に入らない。しかも、この規模の船となると、外板の枚数は桁違いだぞ。さすがにクラッスス様でも手に入らないと思うぞ、小さい板でもいいんだよな?」
「は?」
レンは茫然と口を開けた。
(……し、しまった! この時代は大きな板を作るのも難しいんだった! 外板に小さい板を大量に使うと継ぎ目が増えて、水密性が落ちる。つまり耐久力が下がる! これ以上、耐久力を下げるのは……)
アウルスがさらに疑問を口にする。
「レン、東方の国ではどうしているのだ?」
「いや、……大きな板で、作ってますけど?」
レンは苦笑いをしながら応えると、長のマリーヌスが興味深そうに近づいて来る。
「ほう。それはどうやっているのだ? ぜひ、わしに教えてくれ」
「……ええと。……それは今は教えられません。まずはクラッスス様と会って許可を得ないと……叱られるかも知れないし……」
マリーヌスが残念そうな顔をする。
「そうだな。確かにクラッスス様を飛び越えて先に教わる訳にはいかぬな」
(ちっ! 巨大板を作る技術は、将来俺が独占しようと思ってたのに、まさかこんなところで巨大板が必要だとは思わなかった。仕方ない、ここはクラッススに高値で売りつけるか……)




