74 マルクス・ポルキウス・カト(小カト)との婚約
紀元前76年11月下旬
マニウス・アントニウス・バルバトゥスの邸宅。
「ルクレティア様、旦那様がお呼びでございます」
「お父様が……?」
ルクレティアは、侍女の言葉に小さく肩を震わせた。
レンとセウテスの死闘の後、彼女はマニウスによって外出を禁じられ、実質的な軟禁状態に置かれていた。外部の情報は完全に遮断され、最愛のレンの安否すら分からぬまま泣き暮らす日々。
だからこそ──
『ようやく軟禁が解かれ、レンの元へ行けるのではないか』
そんな淡い期待を胸に抱きながら、執務室へと足を向けた。
侍女が執務室の扉を開く。
奥の椅子には、父マニウスが深く腰掛けていた。
「お父様、お呼びと伺いましたが……」
「うむ。ルクレティア、よく来た。実はお前の縁談が決まった」
背後で扉が閉まる音と同時に告げられた言葉に、ルクレティアの顔から一瞬で血の気が引いた。
「お、お父様! 私には……っ。
私は、まだ十四歳になったばかりです!」
「早すぎることは無い。来年には十五歳になる、十分だ」
「そんな……私の考えは聞いて貰えないのですか。そんなの理不尽です……」
「黙れ。お前の結婚相手はマルクス・ポルキウス・カトだ。若くして哲学に通じ、高潔で実直、共和政への忠誠を体現したかのような清廉潔白の青年だ。家柄も申し分ない」
その名を聞いた瞬間、ルクレティアの脳裏に闘技場での会話が蘇る。
「お待ちください! 以前、闘技場でポンペイウス様の奥方のムキア様と、セルウィリア様にお会いしました。その時、セルウィリア様が仰っていました。異父弟のカト様にはアエミリア・レピダ様という婚約者がおいでだと!」
必死に記憶を手繰り寄せて反論する娘を前に、マニウスは口角を上げる。
「ふん、その婚約なら壊れた。つい先日、アエミリア・レピダが、カトとの婚約を一方的に破棄し、元婚約者とよりを戻したのだ」
「え……っ?」
マニウスは嬉しそうに語る。
「そこで私は今日、カトの屋敷を訪ねてみたのだ。すると傷心しきったカトは、安いワインをたらふく飲んで泥酔していた。
私はカトとワインを飲みながら、絶好の機会だと思い、その場で縁談を持ち掛けたのだ」
ルクレティアは信じられないものを見る目で父を凝視した。
「……それで、カト様は了承されたのですか?」
「ああ。明日の朝、本人が目を覚ました時には忘れているかもしれんがな。だがな――泥酔したカトにその場で、正式な結婚契約書に署名と指印をさせてきた。これでカトも、私との約束を破るには相当な勇気がいるだろうな。くっくっく……」
悪魔のような計略を自慢げに語る父に、ルクレティアの瞳から大粒の涙が溢れた。
「そんな……お父様、酷すぎま……っ
!」
「何を言うか! お前は名門の生まれで、美しい。カトにとっても断る理由などない。それに、あの男は頑固だが非凡な男だ。必ずやローマの歴史に名を残す大政治家になる。お前のためを思って用意した婚姻だ。これほどの相手は滅多にいないぞ」
「……」
ルクレティアは押し黙った。
だが、内心では希望を捨ててはいない。『レンが知れば、必ず助けに来てくれる』と信じていた。
「分かりました、前向きに考えます。ですが、結婚はまだしたくはありません」
マニウスはゆるく首を振った。
「ならん。結婚は来年の六月頃──その旨は契約書にも明記してある」
「……分かりました。お父様の勝ちです。外出を許可していただけるのでしたらカト様と……」
ルクレティアは震える声で懇願した。
マニウスはルクレティアが結婚を了承したものと捉え、指先で机を軽く叩きながら考える。
「……そうだな。軟禁が続けば悪い噂が立つ。娘が外に出られぬとなれば、周囲は余計な憶測をし、家の名誉にも関わる」
ルクレティアの瞳がわずかに揺れ、希望の光が差す。
「では──」
「勘違いするな、自由にとは言ってはおらん。私の護衛が同行するなら認めよう。行動範囲も私が定める。許可のない外出は一切許さん」
「……ありがとうございます。お父様」
ルクレティアは深く頭を下げた。
だがその胸の奥では、別の感情が静かに燃え上がっていた。
──レンに会える。
──まだ終わっていない。
だが、マニウスは娘の内心を見透かすように、冷徹な声で告げた。
「護衛は三人。当然レンと会うのは禁止、それとクラウディアにもだ。護衛の指示に従い、護衛がダメだと判断すれば屋敷に戻るように」
「……はい。お父様」
レンに何としても結婚のことを伝えなければいけない。外出すれば友人たちに会える。きっと手紙をクラウディアに届けてくれる。その思いだけでルクレティアは堪えていた。
「ルクレティア。お前はカトの妻となるのだ。……それまでに余計な感情は捨てろ。名門バルバトゥスの娘として、恥ずかしくないようにな」
「……はい」
マニウスはルクレティアの神妙な態度に、ようやくレンを諦めてくれたかと満足そうに頷いた。まさかルクレティアが、カトとの結婚を微塵も考えていないなどとは思いもよらなかった。
ーーーー
レンがオスティアの港を訪れてから三週間後、小型帆船の改造が完了した。
数日後、強い風が吹き荒れる日を選んで、レンとクラッススは新型船の試運転を兼ねて航海へと出た。クラウディアは、身重の身体であるため大事をとって、港の詰所で待機である。
レンの改造船は、もともと船の中央にあったマストをそのまま残したまま、船首と船尾に新しいマストを一本ずつ追加した三本マスト船である。この時代では直立した三本マストは前代未聞の『異型の船』だった。
本来のキャラック船は、中央の主マストの長さを【100】とした場合、前方のフォアマストは【80】、後方のミズンマストは【60】ほどの高さにするのが定石だ。
しかし、レンは改造による船の耐久力の低下を考慮し、追加した二本のマストは元のマストの半分の高さに抑えてある。
「……フン。直立した三本マストの船は初めて見た。だが、レン。これで本当に人の手を借りずに風上へ進めるのだろうな?」
「はい、可能です」
実のところ、マストが一本きりの船であっても、風の力を的確に捉えれば、風上に向かってジグザクに進むことで、前進することは可能だった。
それでも、レンがわざわざ手間をかけて三本マストを採用したのには理由がある。それは今後の船造りで、クラッススや船大工たちが余計な口出しをしないよう、三本マストの方が優秀だと思わせるためのイメージ操作だった。
クラッススが腕を上げて指し示す。
「ではレン、そろそろ試させて貰おう。あちらに見える島の方向が風上だ。この船で、風に逆らってあの島に行けるか?」
「もちろんです、クラッスス様」
レンが合図を送ると、事前にタッキングの説明を受けていた船長が、すぐさま船乗りたちに鋭い怒号を飛ばした。
「帆を絞れ! 操舵手、右に舵を切れ!」
船乗りたちの叫びとともに複数の帆が風をはらみ、鋭くロープが軋む。
少しすると、クラッススがレンの顔を見た。その眉間には明らかに不満げな皺が寄っている。
「レン、私は風上のあの島に向かえと言ったはずだが? 方向がずれているぞ」
「クラッスス様。これはタッキングと言う方法です。まず風上に向かって右に45度から60度の方向に進み、次に左に風上に向かって同じ角度で進み、また右に切り替えて進むを繰り返す方法です」
クラッススは首を振った。
「45度や60度と言う言葉は知らぬ。だが――タッキングという操船技術は聞いたことがある。タッキングは船が横へ流されるばかりで、ほとんど前には進まぬ。使えるのは、港に入る時の位置の調整ぐらいだとな」
レンは手を横に滑らせながら応える。
「横滑りするのは、ローマの船の喫水が浅いからです。
例えば水桶の水面に手のひらを軽く浸し左右に動かしても、手に力はいりません。しかし手を縦にして深く沈めて動かせば、多くの水が手に当たり、強い抵抗が生まれて力が必要になります。船も同じで、喫水が深ければ横から風を受けても、多少の風では流されにくくなるのです」
クラッススが頷く。
「ふむ、なるほど。君の言うことは分かった。
だが――根本的な問題が解決されておらぬ。この船はローマの船だ。つまり喫水が浅く、タッキングは通用せぬということであろう」
クラッススは現実の厳しさを突きつけるように、鋭い目でレンを見た。
だが、レンは不敵な笑みを浮かべる。
「いいえ、この船は改造船です。
では、東方の造船技術の一端をお見せしましょう。
まずは――マストに掲げられている帆をご覧ください」
「うむ。それは船を見た時に気づいていた。1本のマストに複数の帆が掲げられているのだろう」
「はい。ローマのように1枚の大きな帆を掲げる方法では、追い風以外の風を細かく捉えられません。なので、あえて帆を小さく分割しています。こうすることで、少人数でも簡単に大きく角度を変えられ、風を正確に捕らえられるようになります」
「なるほど、これで横滑りせず、タッキングで風上に進めるようになるのか?」
レンは首を振った。
「より風上に進めるようになりますが、横滑り対策にはなっていません。そこで二つ目の技術です。ローマの喫水の浅さを補うため、船底にセンターボードと言う“板”を二枚、下へ伸ばすように取り付けています」
「センターボード? それはなんだ」
「センターボードは形は魚の背びれに似た板で、船底に取り付けて『水を掴んで横滑りに抵抗する』ための板です。先ほど話した水桶に縦に手を深く入れた時と同じ効果です」
「面白い。東方には様々な技術があるのだな」
クラッススはそう呻き、船べりから身を乗り出して海面を覗き込んだ。
レンの言葉を裏付けるように、船体は激しい横風を受けながらも、まるで目に見えない強固な杭が海中に打ち込まれているかのように、思ったよりもずっと横へは流されず、着実に斜め前方へと前進していた。
次にクラッススは甲板の船乗りたちを見た。ロープ捌き一つで小さな複数の帆が簡単に角度を変え、逆風を効率的な推進力へと変換していく。その驚異的な光景に、ローマの冷徹な大富豪は新時代の到来を感じ、口角を吊り上げた。
「レン、見事だ。あっという間に島に近づくことができた。これ以上は座礁の危険があろう。試運転はここまでとしよう」
クラッススは満足げにそう告げると、船長に回頭の指示を出すよう顎をしゃくった。
追い風に乗った船が軽快にオスティアの港へ引き返し始める中、大富豪はレンの肩をがっしりと掴み、ギラギラとした商人の目を向けた。
「改造の段階でこれほどの奇跡を見せるとはな。レン、お前が最初に言っていた、積載量が多く、ローマの船よりも速いという『異国の船』の話を信じよう。それを我がオスティアの造船所で、すぐにでも作らせようではないか!」
クラッススの野望に満ちた宣言に、レンは営業スマイルで応える。
「はい! 初回は100トン級……。アンフォラ型の壺が1200個ほど積める大きさの船を作ろうと思います。図面は雛型が頭に在るのですぐに描けますが、船大工たちにとって初めての構造の船です。完成までは、間違いなく一年以上は必要になるでしょう。二回目からは半年ほどに短縮できると思いますが……」
レンはオスティアの職人たちの顔を思い浮かべながら、現実的な工期を伝えた。
クラッススは目を大きく見開いた。
「そのクラスの船が、たった半年で造れるだと! 普通は一年半はかかる筈だぞ!」
「普通はそうです。ローマの船の造り方は、外側から造り始める、外板先行法と呼ばれるやり方です。この方法は外板の接合に工数や手間が多くかかり、しかも微調整は船大工しか出来ないため、奴隷が使えません。ですから時間がかかるのです」
レンはニヤリと笑みを浮かべた。
「ですが東方、日本の骨格先行法は違います。なので数倍早く造れるのです」
クラッススは強欲な笑みを深め、深く頷いた。
「素晴らしい。それが本当ならば、次からは半年で量産できる! オスティアの港は、我らの黄金の玄関口になるぞ!」
レンが歯切れの悪そうな顔でオスティアの港の方を指さした。
「……あ、あのクラッスス様。そのオスティアの港のことなのですが……」
クラッススは怪訝そうに片眉を上げた。
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
「……はい。東方の船は荷物を多く積める分、おのずと船底が沈み込んで喫水が深くなります。ですが、現在のオスティアの港は……」
クラッススはレンの意図を瞬時に察知し、腕を組んで不敵に口角を吊り上げた。
「なるほど……港の水深が浅いのだな。よい、私が港を“拡張”しよう。元老院には『公共のために大型船用の区画を増設する』と言えば許可が下りる。実際に恩恵を受けるのは我らが使う船だがな」
並の商人なら絶望するようなインフラの壁すら、ローマ一の権力者にとってはただの盤上の駒に過ぎなかった。
(さすがローマいちと言われた大富豪だな……)
レンは海風を顔に浴びながら、1500年早い、大航海時代の幕開けの気配を感じ取っていた。




