73 オスティアの造船所
紀元前76年11月。
レンがクラウディアの邸宅に移り住んで数日後、レンはクラウディアに馬車を借りてローマから南西に30キロほど離れたオスティアの港を訪れた。
クラッススの私有造船所につくと、クラッスス家の案内役のティトゥスが広場に主だった船大工三十人を集め、レンを紹介する。
「こちらはクラッスス様がパトロンをされている、レン殿だ。先日伝えた通り、皆、彼の指示に従って船の改造に協力するように」
だが案内役の言葉をよそに、並み居る船大工たちは腕を組んだまま、冷ややかな目でレンを見ていた。
ガリア人。
仕立ての良い上質なチュニカ(T シャツ型のワンピースのような衣服)。
黒髪黒目の整った顔立ち。
そして、綺麗な手。肉体労働をしていれば出来る筈のタコが一つもなかった。
荒くれ者の職人たちの目には、レンがクラッススに取り入って甘い汁を吸う「いけ好かない若造」に見えていたのだ。
険悪な空気が漂う中、船大工たちの長であるマリーヌスが前に出て、無骨な手を差し出す。
「俺はマリーヌス、船大工たちの長だ。話は聞いている。クラッスス様の直々の頼みだ、喜んで協力しよう」
その言葉の裏には、
『クラッススの命がなければ、誰がお前のような若造に協力するか』
という棘が混じっていたが、自称平和主義のレンは、笑みを浮かべながらその手を取る。
「よろしくお願いします、マリーヌスさん!」
次の瞬間。
マリーヌスはニヤリと口元を歪め、レンの手を握り潰さんばかりに強烈に締め上げた。職人特有の万力のような力でだ。
「うわぁぁ、痛い! 痛い! 痛いですよ、マリーヌスさん!!」
レンは情けない声を上げ、苦しそうな顔で訴える。
「おおっ、すまんな。力仕事で鍛えられているから、加減を間違えちまったようだ」
わざとらしく手を離すマリーヌス。
周囲の大工たちは「いい気味だ」と言わんばかりにゲラゲラと笑う。
しかし次の瞬間、レンは苦悶の表情を消し、不敵に笑った。
「な〜んてね、冗談ですよ。その程度じゃ痛くも痒くもありません」
「……ほう、言うではないか」
マリーヌスが眉を寄せる中、レンはあたりを見渡し、野球ボールほどの大きな石を右手で拾い上げた。
「マリーヌスさん。これくらいの握力で握らないと、今どきの若者は痛がりませんよ」
次の瞬間、パキキキキ、と硬質な音が響き、石に亀裂が入る。
そして頑丈な石の塊が粉々に砕け散った。
造船所に響いていた嘲笑が、一瞬で消えさり、静まり返る。
マリーヌスが顔を真っ青にして、呆然としていると、案内役のティトゥスが割って入った。
「マリーヌス殿、見ての通りレン殿は並のお方ではない。年が若いからといって侮ってはいかん。クラッスス様が期待されているお方なのだ」
マリーヌスはゴクリと生唾を飲み込んで頷くと、レンが何事もなかったかのように右手を差し出した。
「では、改めてよろしくお願いしますね」
マリーヌスはビクッと身を竦めながらも、恐る恐るその手を取った。
「あ、ああ……。こちらこそ、よろしく頼むよ、レン……」
「はい、よろしくお願いします」
手を思い切り握り返されることなく、レンがさわやかな笑顔で応えて手を離すと、マリーヌスは命拾いをしたような顔で胸をなでおろした。
その後、レンは船大工の長マリーヌスと四人の幹部たちとともに、打ち合わせのための作業小屋へと移った。
そこでマリーヌスが作業台の上に広げられた羊皮紙を指さす。
「これが、今回の改造のベースとなる船の設計図だ」
「なるほど。この時代の一般的な小型帆船ですね。予定通りです」
レンは図面を覗き込み、そう応えると、懐から一枚の紙を取り出した。
「こちらが、今回私たちが作る『改造船』の完成予定の絵です」
レンが持参した絵は、三本マストのキャラック船もどきのスケッチだった。それを既存の図面の上に重ねるように広げる。
そのスケッチを見たマリーヌスと幹部たちは絶句し、次いで一斉に声を荒らげた。
「マストが三本!? バカな! こんな構造にすれば、重心が不安定になり、風を受けた瞬間に横転するぞ!」
「それだけじゃない! ここを見ろ! 一つのマストに帆が何枚も掲げられている! 普通は1つのマストに、ひとつだけ大きな四角の帆を掲げるものだ!」
幹部たちは絵に顔を近づけ、穴が空くほど睨みつける。
レンはニヤリと笑い、助け船を出すように指を伸ばし、絵の船底部分を軽く叩いた。
「重心の問題の解決策はここです。
船の背骨と言われる竜骨、その船底付近の周りに仕込むバラスト──つまり重りの石の量を計算して増やすのです」
「船底の重りを……増やす?」
「はい。バラストの量を増やし、二本のマストが追加されて上部が重くなりバランスが崩れた分、それに対抗するだけの重りを、船の底に仕込むのです」
「……っ!!」
作業小屋に張り詰めた静寂が流れた。
幹部たちの脳内で、レンの提示した「船底バラストの増量」という解決法が、凄まじい勢いで可能かどうかの計算がされる。
その沈黙を破るように、幹部のファブリウスが顎髭をさすりながら渋い声を絞り出した。
「確かに……大量のバラストを底に仕込めば、重心は安定する。船体そのものはビクともしなくなるな」
だが、別の幹部のナウクラリウスとナウタが即座に険しい顔で机を叩いた。
「だが、その分だけ船が重くなり、海面に沈む! 上も下も重くなれば荷が積めなくなるぞ!」
「そうだ! 交易船は荷を運んでなんぼだ。バラストの石ばかり詰め込んで積載量が減るような船に価値はない!」
彼らの真っ当な反論に、レンは動じることなく笑って応える。
「積載量の問題についても、ちゃんと解決法はあります」
「……何? それはどうやるのだ」
マリーヌスが身を乗り出し、色めき立つ。
レンは作業台の図面を指先でなぞりながら、現実を突きつけた。
「残念ながら、今あるローマの船に対してはありません。ローマの船は竜骨と、その肋骨にあたるフレームの構造が、私の求める設計に対して弱すぎるのです」
「なんだと! ローマの船をバカにする気か!」
職人のプライドを傷つけられた幹部が激昂し、顔を真っ赤にしてレンを睨みつける。
だが、レンはその怒気を受け流すように、さわやかに微笑んで見せた。
「いいえ、バカになどしていません。ローマの木工・造船技術は極めて優秀です。その高い技術力と私の知識が合わされば、竜骨を強くし、マストを増やし、さらに積載量を増やすことが可能です」
「竜骨を強くするだと……!? おい、それはどうやるのだ! その方法を今すぐ教えてくれ!」
作業小屋の熱気が上昇し、先ほどまでレンを侮っていた幹部たちの目に、強い好奇心が宿っていた。
しかし、レンは意地悪く口角を吊り上げた。
「それは──新造船を作る時に、たっぷりと教えてあげますよ」
「な、何だと……っ!?」
「いいですか、皆さん! 今回の目的は、あくまで『逆風でも風上に向かって船が進める』ことを、クラッスス様に証明することなのです」
レンがそう言うと、マリーヌスは目を見開いた。
「風上に向かって船が進むだと!? バカも休み休みに言え! 帆船が風に逆らって走るなど、天地がひっくり返ってもありえん!!」
「それです!」
レンは待ってましたとばかりに、パチンと手を叩いてマリーヌスを指差した。
「そうやって誰も俺の言葉を信用してくれないでしょ。だから今回、まず簡単な改造船を作って、俺の実力を証明するんです。騙されたと思って、指示通りに船を改造してください。たったひと月でいいんです、クラッスス様の命ですし、どうか我慢してください」
レンがそう言って頭を下げると、職人たちは互いに顔を見合わせ、『まあ、クラッスス様の命令だしな』と頷き、レンの改造船計画に真剣に耳を傾け始めた。
ファブリウスが疑問を口にする。
「レン殿、1つのマストに付ける帆が、なぜ何枚あるのだ? 大きな帆を1枚だけ掲げた方が、風を受ける力は強くなるし、推進力も上がる。わざわざ何枚にも分ける理由が分からん」
レンは軽く笑い、指先で図面の帆をなぞった。
「それは逆風でも船が進めることと関係します。
滑車とロープを大量に追加して更に帆を小さく分ければ、少ない人数でも帆を大きく左右に動かせるように出来るのです。
帆の角度を細かく調整できれば、追い風以外の風も正確に捕らえられ、推進力を得られます。つまり、風向きに合わせて『帆を自由自在に操る』ために複数枚に分けるのです」
職人たちは顔を見合わせた。
「理屈は分かる……だが、本当にそんなに都合よく動くものか?」
レンは自信ありげに微笑んだ。
「まあ、ひと月だけ辛抱してください。船を浮かべて、結果を見れば分かりますよ」
マリーヌスが大きく息を吐き、4人を見た。
「そうだな。皆、取りあえずはレン殿を信用してみようじゃないか!」
「おう。長の言う通りだ。ここは一度、レン殿を信じてやろう」
「そうだな。もし、レン殿の言葉がすべて事実なら、俺たちはとんでもない技術が手に入ることになる!」
余談
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ローマの船の竜骨が弱かったのは、この時代の造船手順にある。
この時代の世界標準は、後世の船のように竜骨を最初に据え、堅牢な骨組みを作るのではなく、まわりの外板を先に組み立てる 外板先行法 だった。そのため竜骨は最後に、おまけのように船底へはめ込まれたため、弱かった。
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当時の造船が外板先行法(竜骨が最後)だった主な理由。
① 図面がなくても職人の勘だけで作れる(最大の理由)
② 浅瀬への乗り上げ時、壊れにくかった。竜骨が突き出ていると、砂浜の岩に一点集中でぶつかり、そこから船体が割れる。
③ 当時は製材技術が未熟で、まっすぐで均一な太さの巨大木材をなかなか作れなかった。外板先行法なら歪んだ木材でも、削ったりして使用可能だった。
※ドック(船を建造、修理などを行う専用施設)




