72 逆風でも進む船
元老院でレンの解放が決定した日の夜。レンはクラッススに呼ばれ、彼の執務室に入った。そこにはクラッススの他に彼の執事のフィロムサスと、クラウディアがいた。
「レン、おめでとう。元老院で、貴方の解放命令が正式に出されたわ」
「これで君は、今日からどこへ行くのも自由だ」
クラウディアとクラッススの言葉に、レンは晴れやかな笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「ありがとうございます、クラッスス様、クラウディア様。皆様のお力添えのおかげです」
クラッススが静かに問いかける。
「それでレン、これからどうするつもりだ?」
レンはチラリとクラウディアを見た。
彼女が頷くのを確認すると、クラッススの方に向き直る。
「ひとまずクラウディア様の御屋敷にお世話になる予定です。そのあとは、自由の身となった報告を兼ねて、仲間のいる所に顔を出そうかと考えています」
だが、クラッススは重々しく首を振った。
「いや、私が聞きたいのは目先の居場所ではない。この先、ローマ市民権を得る方法を、具体的に考えているのかということだ。まだ、方法を考えていないのか?」
「……いえ、すでに幾つかの方法を考えています。ですがいずれも、クラッスス様のご助力が必要です」
レンは、以前AIと話した大航海時代初期に主力として活躍した『キャラック船』に似た船を作るつもりだった。
数日前、バティアトゥスから試合の報酬として3万5千デナリウスを受け取った。そのうち1万デナリウスを使い、ローマの造船技術を習得した。
――そして知ったのだ。
この時代のローマの造船技術は驚くほど高く、木材加工の精度も耐久性も、工夫次第で既にキャラック船に近い船を作れるレベルに達していた。
この時代のローマに足りなかったのは技術力ではなく、新しい船を作る“発想力”だったのだ。
クラッススは、『助力が必要』と言うレンの言葉に、真剣な眼差しで頷く。
「私はお前のパトロンだ。何をする気なのか話を聞こうではないか」
「実は……私に剣術を教えてくださった東方の剣聖・宮本武蔵様は、武技の他にも様々な知識を伝授してくださいました。その一つに、東方の日本という国の、高度な船の作り方が記された書物があったのです。私は、その船をこのローマの海に作りたいと思います」
クラッススは怪訝そうに眉を寄せた。
「東方の日本の船? ギリシャやエジプトの船とは違うのか?」
「はい、違います。アレキサンダー大王が遠征したインドよりも、遥か遠い果てにある島国の船です」
「ふむ、遠い異国の船か……」
クラッススの反応は芳しくなかった。
その表情は『どうせローマの船より劣る蛮族の代物だろう』と決めつけているのが明らかだった。
レンは、ここが勝負どころだと身を乗り出す。
「クラッスス様! その日本のキャラックと言う船は、満載時はローマの船と速さはさほど変わりませんが、荷の量を断然多く積め、荷がない時はローマの船より速いのです! それになんと──逆風であっても、追い風の四分の一ほどの速さを維持して前進できます!」
「……なに!? ローマの船より速く、さらに逆風でも進めるだと!? いや待て。それは漕ぎ手の奴隷を大量に必要とする船であろう?」
クラッススの脳裏には、奴隷たちがオールを漕ぎ続ける軍用のガレー船の姿が浮かんでいた。
だが、レンは不敵に笑い、首を振る。
「いいえ、違います。ローマの主力の商業船と同じく、漕ぎ手を必要としない“完全な帆船”です」
「あり得ん! 人の手も借りず、船が風上へ進むなど道理に反する!」
激昂するクラッススを前に、レンはチビリそうになり、すかさず脳内でスキルを発動させた。
(スキル発動──★話術 Lv.60!)
「では、私が持つシルフィウムの利権を賭けて、船が逆風でも風上に進めることを証明いたしましょう」
レンはクラッススの顔を見て、自信ありげにニヤリと笑った。
(まあ、厳密には風上に一直線に進むんじゃなくて、ジグザグに進む“タッキング”って方法なんだけどね! この時代のローマ人には魔法みたいに驚くはずだ!)
クラッススの目が鋭く光った。
「ほう! シルフィウムの利権を賭けるか……。もし証明に失敗すれば、利権は私の物になるのだぞ?」
その瞬間、それまで静かに二人の会話を聞いていたクラウディアが、顔色を変えて身を乗り出し、止めに入った。
「お待ちください、クラッスス様! レンは――」
「――クラウディア様、大丈夫です! これは男と男の真剣な話。私を信じて、最後まで見守って下さい。私が貴方に嘘を付いて失望させたことがありましたか?」
レンは真っ直ぐにクラウディアの瞳を見つめ、包容力に満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
クラウディアは愛する男の言葉に、伸ばしかけた手をそっと膝の上へと戻す。
「クラッスス様。私は貴方がシルフィウムの利権のために、私の邪魔をするなどとは微塵も思っておりません」
「当然だ。私はそのような小物ではない。それに君のパトロンでもあるのだ」
「そうではありません。単純に天秤の重さの話です」
「……なんだと」
クラッススは、不愉快そうに眉間の皺を深くしたが、レンは構わず続ける。
「私が逆風でも走れる船を作れば、クラッスス様はその船を独占し、巨大な海上輸送の流通網を牛耳ることが出来るでしょう。おまけに、その新型船を作る造船業の方も独占できるのです」
沈黙が、執務室に流れる。
クラッススは椅子の背もたれに深く体を預け、無言でレンを凝視した。その頭の中では、凄まじい速度でソロバンが弾かれ計算されていた。
もし逆風でも走れるようになれば、地中海を往来する輸送可能な物量は単純計算で『二倍』に膨れ上がる。さらにレンはローマの船よりも多くの荷が積めると言った。
「確かに、そなたが言う通りの船が作れるなら、シルフィウムを遥かに超える利益が私に転がり込むだろう。それでレン、君は私に何を望むのだ?」
「私の望みはたった一つだけです。ローマに新たな造船技術をもたらした『文化功績』によるローマ市民権の取得。つまり、私が伝えた造船技術として、クラッスス様は推薦状を書くだけでよいのです」
「……」
クラッススはしばし沈黙し、レンを鋭い眼光で見つめていたが、やがて大声で笑い始めた。
「面白い! 面白いぞ! まさか、これほどまでに面白い男だとは思わなかった、想像以上だ!!」
「……お、お褒めの言葉として受け取ります」
レンがつつましく頭を下げた、その瞬間。
ガタッとクラッススが上体を前のめりに倒し、レンに顔を近づけ凝視した。
執務室の空気が、一瞬で凍りつく。
「レン……お前、まだ他にも技術を隠しているのだろう。だから、お前はそのように余裕でいられるのだ! お前は一部の知識だけで私に恩を売り、着実に力を付けていく気だな!!」
「っ……!?」
レンは全てを見透かすように睨む、クラッススの圧倒的な覇気に晒され、言葉に詰まった。まさに蛇に睨まれた蛙。
一秒、二秒と時間が過ぎ、レンが何も言えず、背中から冷や汗をだくだくと流していると、クラッススは口角を上げ、再び大笑いした。
「わっはっは! やはり隠しているのだな。気に入ったぞ、レン! 私を利用するがいい、私もお前を利用してやろう!」
「……あ、ありがとうございます?」
レンが何とも言えない引きつった笑みを返すと、クラッススは満足げに椅子の背もたれに体を預け、本題へと話を戻した。
「……それで、どうやって私に逆風でも船が動くことを証明する気だ?」
「……えっと……そうですね。お試しの船を作ると言うのはどうでしょう? 排水量30トンほどの、小型の商業船を改造すればすぐに証明できるかと」
「ハイスイリョウ? ……何だそれは」
「あっ。……排水量と言うのは……」
(排水量ってのは、船を浮かべた時に押し出される水の量、つまり船の重さなんだけど、言っても分からないだろうな。なら、ローマの公式な体積の単位である、交易用のアンフォラの壺の数で言えばいいか……)
「排水量30トンと言うのは、簡単に言うと、交易用のアンフォラが四百個ほど積める大きさの船って言う意味です」
「……うむ、なるほど。確かにそれくらいの船なら改造に時間もかからず、失っても損害は少ない」
「はい。ですので、そのくらいの大きさの小型船と、技術漏洩の心配のない腕の確かな船大工をご用意くだされば、ひと月ほどで証明できるかと……」
「うむ、良かろう。その程度の船と職人で、逆風でも進める船が見れるのなら安いものだ」
クラッススが満足げに指を鳴らすと、背後に控えていた執事フィロムサスが一歩前へ出た。
「オスティアの港にある、クラッスス様の私有造船所を提供しましょう。そこの船大工の長マリーヌスの口が堅く信頼が出来ます。また、その配下には腕利きの船大工30人と、200人の奴隷がおりますので、彼らを全てお貸ししましょう」
「はい、よろしくお願いします」
ーーーー
クラッススとの会談が終わると、レンはその日のうちに、クラウディアの邸宅に移ることになった。
「レン! また絶対に遊びに来てね!」
「約束だからね!」
庭先まで見送りに来たクラッススの長男プブリウスと次男マルクスに、レンは笑顔で手を振る。
「はい、きっとまたすぐに来ます。今度はカンフーの基本ステップをお教えしましょう」
「本当! 絶対だからね、レン!」
子供たちに見送られながら、レンはクラウディアとともに天蓋付きのカーテンのある豪奢な輿へ乗り込んだ。
今のローマは道が狭く、馬車が使えないため、貴族の街中での移動は奴隷に輿を担がせるのが主流だった。
レンが輿の中に入り、クラウディアと向かい合って座ると、輿はすぐに出発した。輿の後ろには、歩いてついてゆくイオの姿がある。
「レン、本当に逆風でも走れる船を作れるの?」
クラウディアが、心配そうに訊ねる。
「はい、作れます。正しくは一直線に風上へ向かうわけではありませんが、結果的には風上の方向へ進めます」
「よく分からないけど……それもミネルヴァ様に授けてもらった知識なの?」
「あっ、やっぱり気づきましたか? さすがに『ミネルヴァ様に作り方を教わりました』とクラッスス様に言うのは不味いかなと思いまして……」
レンは苦笑しながら肩をすくめると、クラウディアは深く頷いた。
「そうね。加護のことをクラッスス様が知れば、どう動くか見当もつかないわ。それに、加護よりも異国の船の方が、よほど納得がいくわ」
「そうですよね……」
レンはそう言いながら、クラウディアのお腹を見つめた。
「……だいぶ大きくなりましたね……」
クラウディアが微笑む。
「ええ、あと三ヶ月ほどよ。触ってみる?」
「いいのですか?」
クラウディアがレンの耳元で甘く囁く。
「もちろんよ。貴方とわたくしの子供ですもの……」
レンは息をのみ、差し出されたクラウディアの手に導かれるようにして、そっとお腹に手のひらを当てた。
「……ここに、俺たちの子供が……」
嬉しそうにお腹を触るレンを見て、クラウディアも静かに微笑んだ。
だがレンの頭の中は子供の誕生を喜びつつも『人妻に自分の子供を産ませるなんて、エロゲーみたいだな』とよからぬ事を考えていた。




