71 奴隷となる者、解放される者
レンとセウテスの試合の翌日。
早朝、ローマ郊外のマルスの野に設営された剣闘士のテントに、大富豪クラッススの使いの者がやって来た。
カプアに帰還するため、出発の準備をしていたバティアトゥスは、慌ててテントを飛び出して使者と謁見した。
「バティアトゥスに告ぐ、剣闘士レンは、重傷の治療を施した後も、我がクラッスス家が引き取る。すぐに元老院より正式な解放命令書がそなたに届く。よってカプアへ連れ帰る必要はない。我が主、クラッスス様はそう仰せである」
使者からそう告げられると、バティアトゥスは目を見開き、慌てて使者に詰め寄った。
「それはどういうことでしょう!? なぜ元老院から解放命令が出るのですか!!」
「私も詳しくは知らぬ。クラッスス様が申されるには、レン殿はローマに多大な功績をもたらした。それが間もなく元老院で公になる。そう仰せであられた」
「レンが多大な功績を……? バカな、とても信じられん……」
「そなた! 我が主が嘘を言っていると申すか!?」
「いえ、そのようなことは決してありません! 信じます! 信じますからどうかご容赦を!」
ひれ伏すバティアトゥスを横目に、使者は無言で去ってゆく。
残されたバティアトゥスは文字通りその場にへたり込んだ。
「なぜだ……なぜこうなった。養成所の花形剣闘士が、同時に2人も失うなどあっていい話ではない……」
強欲なバティアトゥスは、クラッススの興行で30万デナリウス以上を儲けたにも関わらず、稼ぎ頭を失ったことで怒りに燃えた。
「クソッ……。セウテスもレンも失って、このまま手ぶらでカプアに帰れるか!!」
バティアトゥスは、オエノマウス教官の方を睨みつけた。
「ローマの奴隷市場に寄って、二人の代わりになる極上の掘り出し物を買って帰るぞ!!」
立ち上がったバティアトゥスは、オエノマウスを従えて、血眼になってローマの奴隷市場へと向かった。
しかし、レンに代わる奴隷など見つかる筈がなかった。
市場に並ぶのは、どれも一流剣闘士とは程遠い、三流や四流の者たちばかりだった。
「チッ、ろくな奴隷がいないではないか!」
オエノマウスが、苛立つバティアトゥスの隣に立つ。
「オーナー、そう都合よく一流の者など売られていません。訓練すれば育ちそうな、ガタイの良い者を数人買って帰りましょう」
オエノマウスの現実的な進言に、バティアトゥスは苛立たしげに『分かっている!』と声を荒らげた。そして、懇意にしている奴隷商の店に向かった。
「これはバティアトゥス様、よくぞお越しくださいました」
「レニス、花形剣闘士になれる奴隷を探している、多少高くても構わんぞ」
レニスは苦笑いを浮かべた。
「バティアトゥス様、今はそこまで見込みのありそうな奴隷は入っておりませんね」
「ならば、二流剣闘士になれそうな奴でも構わん」
「それなら先週、面白い“夫婦セット”の奴隷が手に入りましてね。こちらの檻の者たちです。トラキア出身ですが、どうですか?」
レニスに促され、バティアトゥスは怪訝そうに檻の奥を覗き込んだ。
そこにいたのは、不気味な笑みを浮かべ、呪文めいた何かを低く呟いているトラキア人の女だった。腕には細かな刺青が彫り込まれ、妖しげな魔女のような雰囲気をまとっている。
「女の顔は悪くないな。気味が悪いが……娼婦としては使えそうだ」
その風変わりな女の傍らには、静かに座りバティアトゥスを睨む男がいた。男の目つきは獰猛で、体つきは、それなりに鍛えられていそうだった。
「……フン、男の方のガタイもまあまあだ。上手く鍛えれば、一流剣闘士になるかもしれん。この男の経歴はどうなんだ?」
レニスは困ったように肩をすくめた。
「実はこの男、元はローマ軍の補助兵として戦っていたのですが、軍を脱走した『逃亡兵』でしてね。捕縛されてここに売られてきたのです。腕は確かなのですが少し反抗的でして、妻と離すと暴れます。それに妻の方も、神ディオニュソスの秘儀の信者らしく、気味が悪い。だからセットで、格安でお譲りしてもいいですよ」
「逃亡兵だと……?」
バティアトゥスはニヤリと笑う。
従順でない『軍隊経験のある脱走兵』を抱え込むのは危険だが、試合で勝ち残ることが多く、稼いでくれる。
そのためバティアトゥスは、この奴隷を掘り出し物だと思った。
「オエノマウス、お前はどう思う?」
オエノマウスは、檻を覗き込んで男を見た。
「……いい目をしています。死線を幾度も潜り抜けた、本物の男の目だ。我が養成所の規律をもって躾け、鍛えれば、セウテスのような大物になるかも知れません」
「ほう……そこまでか?」
バティアトゥスが再び振り返り、その男の顔を覗き込む。
そのトラキア人の目には、決して折れない不屈の意志が燃え盛っていた。
「……なるほど。言われてみれば、確かに悪くない目つきだ。お前がセウテスの代わりになると言うなら、買ってみよう、いくらだ?」
レニスはバティアトゥスたちの反応に足元を見る。
「見ての通り、妻は美人、夫は素質があります。3000デナリウスで如何でしょう?」
「高い、安くするのだろう? 1000だ」
「いやいや、2000は貰わないと困ります」
「ちっ、ならば1500。嫌なら、もうお前との取引はこれで最後だ」
レニスは『仕方ないな』と頷く。
「分かりました、1500で結構です」
バティアトゥスは口角を歪め、レニスに向けて革袋を放り投げた。
「お買い上げ、ありがとうございます!」
レニスは嬉しそうに、袋の中の金貨を机の上にばらまき数え始めた。
「それで、この二人の名はなんと言うのだ?」
「妻の方の名はメダ、夫の方はスパルタクスです」
バティアトゥスは鼻を鳴らし、再び檻の奥の二人へ冷酷な視線を向けた。
「ふん、メダとスパルタクスか。今から私がお前達の主だ。しっかりと働けよ」
この時、彼はまだ知らなかった。自分が買い取ったその男が、2年半後に、カプアの養成所を血の海に変え、ローマ共和国すらも恐怖のどん底に叩き落とす、史上最大の反乱者となることを。
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紀元前76年、10月下旬。
ローマ共和国の心臓部──カピトリヌスの丘にそびえる元老院議事堂。
白大理石の階段を埋め尽くすように、純白のトガをまとった数百人の元老院議員たちがひしめき合っていた。
その中央の一際高い議長席には、この年の最高政務官である二人の執政官──ガイウス・スクリボニウス・クリオと、グナエウス・オクタウィウスが並んで象牙の椅子に腰掛け、厳かに議場を見下ろしている。
オクタウィウスとクリオが互いに無言で頷くと、クリオが執政官の杖を突き立てた。
すぐに場が静まりかえり、クリオがよく通る声で宣言する。
「元老院議員の諸君! 本日、我がローマの富を根底から覆す、歴史的な大勝利が報告された。……クラッスス殿、前へ」
『歴史的大勝利とは何事か!?』と議場にどよめきが広がる中、クラッススが、悠然と議場の中央へと歩み出る。
その手には、大切そうに一つの壺が抱えられていた。
「議員諸君。これを見たまえ」
クラッススが壺を高く掲げると、何人もの老議員たちが身を乗り出した。
「これは、栽培不可能とされ、絶滅が危惧されている聖草──シルフィウムだ。五月に発芽したばかりの初年度の苗ゆえ、まだ小さく細い。だが、私が管理する農地において、夏の乾燥を乗り越え、しっかりと土に根を張っている。それをクリオ閣下も確認された。完璧なる栽培の成功だ!」
『ば、ばかな……!』
『あのシルフィウムを本当に発芽させ、夏を越させたというのか!?』
『栽培成功の噂は聞いたことがあるが、本当だったとは……!』
六人同盟の派閥に組せず、何も知らない議員が本気で驚く一方、派閥に組する議員もまた、素知らぬ顔で驚いた振りをした。
前もって知らされていたとはいえ、それは派閥の殆どの議員にとって裏付けの取れていない話だった。
公の場でシルフィウム栽培の成功が正式に発表されたことで、将来の莫大な税金が見込め、軍を動かすための財源に目安がついた。
ゆえにどの議員たちの目も、強欲に光り輝いていた。
やがて、蜂の巣をつついたような大騒ぎの議場で、事前にクラッススが根回ししていた法務官ガイウス・カエキリウスが静かに立ち上がった。
「静粛に! ……クラッスス殿。この奇跡の技術は、一体誰がローマにもたらしたのだ?」
台本通りの問いかけに、クラッススは 満足げに頷き、声を張り上げた。
「この国家の至宝たる技術を伝授したのは、先日の興行において絶対的王者を討ち取り、全ローマを熱狂させた、あのガリアの英雄──レンである!」
その名が響いた瞬間、議場の一角から激しい怒号が飛び交った。
「奴隷ではないか!」
「よりによって、剣闘士がローマの功労者だと!?」
保守派の貴族たちが顔を真っ赤にして叫ぶ。
その中心には、ルクレティアの父である大貴族マニウスの姿もあった。
だがマニウスは同盟の誓約に署名している手前、表だって批判の声を上げることは出来ない。
だからこそ、冷酷な目でクラッススを睨みつけていた。
だがクラッススは余裕の笑みを浮かべ、皆に語りかける。
「私はレンをラニスタ(剣闘士のオーナー)から買い取ろうとしたが、欲深いラニスタが手放そうとしない。そこでレンの功績を讃え、元老院命令で剣闘士から解放し、ローマ市民権を与えるべきだと思う!」
その言葉を聞くや否や、マニウスの隣に座る、保守派の議員が声高に叫ぶ。
「クラッスス殿! シルフィウムの功績は認めよう。だが、剣闘士は奴隷の中でもっとも卑しい奴隷だ。それゆえローマの法においても、剣闘士は解放されても、市民権が付与されることはない」
「その通りだ! 剣闘士に市民権を与えるなど、絶対に許されん! 元老院の名誉が汚れるわ!」
保守派の年寄りたちが『そうだ! そうだ!』と拳を突き上げる。だが、クラッススも最初からその反発は織り込み済みである。不敵に口角を吊り上げ、執政官クリオへ視線を送る。
現職の最高権力者であるクリオは、冷然と議場を見下ろした。
「諸君、ローマ市民権を与えるのは無理だとしても、ローマにこれほどの勝利をもたらした者を奴隷のまま檻に閉じ込めておくのは、ローマの“寛大さ”が疑われる」
クリオは一同を見渡し、厳かに告げた。
「よって、執政官たる私の権限、および法務官カエキリウスの司法の承認に基づき、元老院の公式な命令を下す!
シルフィウム栽培法を伝授した、ガリアのレンの国功を称え、すべての拘束から“解放”し、市民権のない自由の身(平民)とする!」
『……っ!』
保守派の議員は眉を寄せたが、異議は唱えなかった。
シルフィウムの栽培法というとてつもない功績を前に、褒美を与えない訳にはいかなかった。
「異議は無いようだな! これにて可決とする!」
クリオの杖が床を叩き、レンの奴隷解放が公式に決定した。
余談
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■史実のスパルタクスの妻の略歴
★名前 不明
★出身 スパルタクスと同じトラキア地方のマイドイ族。
★特殊能力
古代ギリシャ・ローマで信仰された酒と解放の神ディオニューソスの秘儀の信者だった。トランス状態(霊感)に入って未来を予言する力があったとされる。
■経歴
★紀元前75年前後、スパルタクスと共に捕らわれ、奴隷としてローマの市場に売られた。
ローマに連行される際、夫の顔に蛇が巻き付いているのを見て、『夫は将来偉大で恐るべき 権力を手にするが、最後は不幸な結末を迎える』と予言したとされる。
カプアの養成所に売られた際も、彼女は夫と同じ建物にいたとされる。
★紀元前73年、春ごろ。
スパルタクス が70人ほどの仲間と養成所を脱出した際、彼女は一緒に脱出し行動を共にした。
★紀元前71年。
スパルタクスの反乱が、クラッススに鎮圧された後の記録は残っていない。




