70 レン、帰還せず
「勝者、ガリアの英雄レンーーー!!」
主審の叫び声がアリーナを震わせた瞬間、特等席のバルコニーではマニウスが信じられないものを見たように目を見開いていた。
「ば、ばかな……。あの状況でセウテスが負けただと……?」
その直後、力尽きたようにレンが地に伏すと、クラウディアが顔を真っ青に染め、手すりへ身を乗り出した。
『おい、レンまで倒れたぞ!』
『これは相打ちか!?』
『凄い戦いだ! これぞ頂上決戦だ!』
『セウテスもレンも強かった! 究極の一戦だったぞ!』
闘技場が騒然とする中、場を鎮めるためクラッススがゆっくり右手を挙げる。だが、その視線は砂の上で動かないレンへ注がれていた。
(ふん、あのガリアの小僧……とんだ喰わせ者だな)
クラッススは内心で苦笑する。
命乞いをして観衆に醜態をさらしたかと思えば──『自分の命乞いじゃねえよ、このバ~カ』と言わんばかりに、一瞬でセウテスを斬り伏せた。これ以上、人をくった話があるだろうか。
だが、とうの観衆はレンに小馬鹿にされたことなど露ほども気づかず、狂気的な歓声を送っている。
クラッススの右手が掲げられると、数万人の歓声がじわじわと収まり、やがて闘技場全体に静寂が訪れた。
視線がクラッススへ集まると、彼はこれ以上ないほど感動に満ちた笑みを顔に貼り付けた。
「ローマ市民の諸君!!」
よく通る声がアリーナに響く。
「見事だ! 実に素晴らしい戦いだった! カプアの王者セウテスを倒し、全ローマの頂点に立った不屈の英雄レン──お前こそ真の英雄だ!」
クラッススはピクリとも動かないレンを見下ろしながら、さらに声を張り上げた。
「我が興行において、これほどの歴史的名勝負を見せてくれた新たな王者を、私は絶対に見殺しにはせん! 今すぐ我が家が誇るローマ最高のギリシャ人医師に治療させよう! いかなる金を積もうとも、この英雄の命は我が名誉にかけて救ってみせる!!」
『おおおお! クラッスス様は寛大なお方だ!』
『さすがローマ有数の大富豪! 太っ腹だ!!』
『クラッスス閣下、万歳!!』
再びクラッススの右手が挙げられ、場が静まる。
「さらに勝者のレンには──十万デナリウスの報奨金を与える!!」
『じゅ、十万デナリウスだとーーーっ!?』
『前代未聞の賞金額だ! クラッスス様、どこまで太っ腹なんだ!!』
『レン! 死ぬなよ! 生きて大金を受け取れぇ!!』
アリーナは地鳴りのような歓声の嵐に包まれた。さっきまで「殺せ」と罵声を浴びせていた観衆が、手のひらを返して新王者の誕生と破格の賞金に狂喜乱舞している。
クラッススが満足げに右手を下ろすと、それを合図に私兵たちが担架を抱えてアリーナへと走り込んだ。
民衆の歓声を背に、クラッススはバルコニーから下がるとクラウディアの元へ歩み寄った。
「……さて、クラウディア。約束どおり元老院でレンの解放を提案させてもらおう。準備は整っている。今月中には議案が提出され、元老院会議が開かれるだろう」
「ありがとうございます」
クラウディアが深く頭を下げる一方で、マニウスが苦々しげに眉を顰めた。
「あなたは行政官ではない。元老院で議案を出す資格はないはずだ……一体、誰に頼んだ?」
「現職の執政官、ガイウス・スクリボニウス・クリオだ」
「なるほど……金を渡して動かしたか」
「誤解するな。正当な手間賃だ。レンがシルフィウムの栽培方法をローマに伝えた功績は大きい。それを早めに公の場で明らかにするだけの話だ」
マニウスはそれ以上何も言わなかった。
レンが自由になれば、ルクレティアはレンとの未来に希望を抱く。娘は、レンがローマ市民となり出世するのを待つだろう。
だが──マニウスはそれを黙って見守るつもりはなかった。
今こそ娘を手放す時。別の有力貴族との婚約を強引にでも進めるべきだと、冷酷に判断していた。
ーーーーー
翌朝。クラッススの大邸宅の一室。
「んんっ……」
(あ~、なんかめっちゃよく寝た気がする)
「旦那様! お気づきになられましたか!」
ベッドの傍らで夜通し看病していたイオが、ぱっと顔を輝かせた。
「レン!」
長椅子で仮眠を取っていたクラウディアも跳ねるように起き上がり、レンの手を握りしめる。
「クラウディア……さま?」
「本当に助かってよかったわ……」
「助かる?」
「覚えていないの? 試合で重傷を負って、セウテスを倒した直後に意識を失ったのよ」
「あ〜……!」
(そうだ、思い出した! 仰向けに倒れて気絶したフリしてたら、なんか眠くなったからそのまま寝たんだ!)
「試合の後、クラッスス様が『専属医師に手当てさせ、必ず助ける』と民衆に宣言されたの。それで、貴方をすぐこの邸宅へ運ばせたのよ」
「じゃあ、ここはクラッスス様の御屋敷なんですか?」
「そうよ」
「なら、すぐにご挨拶した方がいいですよね?」
「そうね、会ってくださるかは、分からないけど。
イオ、クラッスス様の家の者に、レンが目を覚ましたと伝えて来てくれる」
「はい、ただいま!」
イオが弾むような足取りで部屋を出ていった。
しばらくして、バタバタと足音が近づき、勢いよく扉が開く。
「ガリアの英雄! もう元気になったの!!」
クラッススの11歳の長男プブリウスと、10歳の弟マルクスが飛び込んできた。目をキラキラ輝かせ、レンのベッドへ駆け寄る。
「え……えっと……君たちは?」
「僕はプブリウス!」
「僕はマルクスだよ!」
クラウディアが微笑んで口添えする。
「クラッスス様の御子息よ。お父様に似て、とても元気な子たちだわ」
レンは「やべっ、クラッススの息子かよ!」と慌てて起き上がろうとした──その時。
「そのままでいい。安静にしていろ」
重厚な声とともに、豪奢なトガをまとったクラッススが姿を現した。
「レン、こちらがクラッスス様よ」
「っ!! クラッスス様! この度はありがとうございます! 面倒をおかけして、すいません!」
レンは咄嗟のことに、思いついたままの言葉を口にし、頭を下げる。
「かまわぬ。私はお前のパトロンだからな」
「パトロン……?」
「なんだ、クラウディアから聞いていないのか? セウテスに勝てばそなたを剣闘士から解放し、私が新たなパトロンになると約束していたのだ」
「そうだったのですか……」
(クラウディアとクラッススがパトロンとか、鬼に金棒じゃん!!)
「ゆえに、もうカプアの養成所に戻る必要はない。十日もすれば元老院にて、執政官クリオの口からシルフィウム栽培成功の事実が公式に報告される。そなたはその功績により即座に奴隷の身分から解放される。それまでは我が家でゆるりと養生するがいい」
子供たちが喜ぶ。
「わあ、やったー!」
「じゃあレンは暫くここにいるんだね! ねえ、試合で見せた、あの消える『神速剣』を僕たちにも教えてよ!」
子供たちが身を乗り出す。
「ええっと、あれは人生で一度きりの大技だから無理だけど、普通の剣術なら……」
「ホント!? 約束だからね!」
はしゃぐ子供たちを見ながら、レンはふと気になったことを尋ねた。
「……カプアのオーナー、バティアトゥス様は俺が戻らないことを了承されたのでしょうか?」
クラッススは鼻で笑い、口角を吊り上げた。
「これから使いの者を送る。だが、半月もすれば、レンを解放しろとの元老院からの公式命令書が届くのだ。そなたの身柄を半月ほど拘束して、わざわざ私の怒りを買うほど愚かではないだろう」
(あのおっさん、金を産む花形剣闘士を2人も失ったと知ったらショックだろうな。絶望する顔を見てやりたかったぜw)
史実でのクラッススの息子たちの略歴。
※※
長男プブリウスは18年後、カエサルのガリア遠征に参加し、優れた将として活躍している。
■紀元前58年。
ガリアで騎兵隊を率いて活躍。
■前57〜56年。
カエサルに才能を認められ、副官として一個軍団を指揮し、ガリアで数々の大戦果を挙げる。
■前55年。
まだカエサルの軍に籍を置いていたが、父クラッススを政治的に手伝うため、ローマとガリアを往復する。
■前54年秋〜冬。
父クラッススがパルティア遠征を計画したため、ガリアから騎兵1000を率いてシリア属州で父と合流。
■前53年。
カルラエの戦い。
パルティア軍との戦いで苦戦を打開するため父の命を受け、騎兵を率いて突撃。突出したところを包囲されて重傷を負い、最期は彼を守る騎兵とともに弓騎兵に撃ち殺されとされる。
なお、前55年頃に結婚した妻コルネリアは翌年の前52年にポンペイウスの5番目の妻となった。
(※ポンペイウス。
3番目の妻はムキア。
カエサルと浮気したため離婚した。
4番目の妻はユリア。
ユリアはムキアの浮気相手であるカエサルのひとり娘である。
(カエサルとクレオパトラとの間に産まれたカエサリオンは当時はまだ産まれておらず。産まれた後も、ローマでは公的には息子ではなかった)。
なお、ポンペイウスとユリアの仲は良好だったが、ユリアは前54年の出産で、産褥で死亡。産まれた娘も、間もなく死亡し、カエサルとの同盟関係は破綻した)
※※
次男マルクス
紀元前54年、兄プブリウスに代わり、カエサルのガリア戦に参加し、軍団を率いた。
その後も裏方として、食料調達や、軍資金の管理を担当し、カエサルに信用された。だが、恐らく総督とし重要拠点のガリア・キサルピナ守備についていた前49年頃に死亡。
なお子供に父と同名で、紀元前30年に執政官を務めたマルクス・リキニウス・クラッススがいる。




