69 セウテス戦
重厚な足音とともに姿を現したのは、この興行の主催者であり、六人同盟の経済面を主導する大富豪クラッススだった。
豪奢なトガの裾を翻しながら、4人のもとへ歩み寄り、笑顔で話しかける。
「諸君。ローマの歴史に刻まれる最高のショーの準備が整った。ポンペイウスが、この場にいないのは残念だが……仕方あるまい。だがカエサル、マニウス、クラウディア、そしてレン――同盟者の5人がこうして揃ったのだ。十分だろう」
クラッススが傲慢な笑みを浮かべて両手を広げると、マニウスが鼻を鳴らした。
「5人の同盟者が揃ったのは確かだ。だがクラッスス殿、その『一人』は、下賤な剣闘士として、アリーナの中央に立っている」
マニウスが顎でアリーナの方を示すと、四人の視線がそちらへと向かう。
アリーナの中央では既に入場を終えた、レンとセウテスが対峙する姿があった。
二人は審判の説明が終わると、特別席にいるクラッススの方を見上げた。
セウテスは己の得物である、シーカ(先端が内側に曲がったトラキアの湾曲刀)を胸の前で静かに立て、レンはクラウディアに貰った二本のスパタを胸の前でクロスさせた。
そして、二人同時に大声をバルコニーまで響かせた。
「「死にゆく者が、貴方にご挨拶いたします!!」」
クラッススはその儀礼の挨拶に笑みを浮かべ、バルコニーから右手を高く掲げる。
「よかろう! ローマ最高の戦士たちよ! お前たちの命を賭した忠誠と、その刃の輝きを、この私がしかと見届けてやろう!」
クラッススのよく通る大声がバルコニーからアリーナへと降り注ぐと、待ってましたとばかりに数万人の観客から拍手と大歓声が沸き起こった。
クラッススが満足げに椅子へと腰を下ろす一方、マニウスが不快そうに鼻を鳴らした。
「……フン、相変わらず私を不愉快にさせる男だ。セウテスにはぜひ勝って貰いたいものだな」
クラウディアはマニウスの呟きを無視して、席に腰かけると少し緊張した面持ちでレンの方を見た。
アリーナの中央では、華やかなガウンを羽織った主審が、満を持して両手を高く掲げる。
「ローマ市民の諸君!! これより、我がローマの偉大なる守護者、マルクス・リキニウス・クラッスス閣下が提供されし、歴史上最高の王者と英雄のデスマッチを執り行う!!」
主審の言葉で、観客席のボルテージが一気に高まる。
「カプアの王者セウテス! 対するは、ガリアの英雄レン! 両者――構えよ!!」
セウテスが素早くシーカと小型の丸盾を構え、
レンも右ひじを高く、左ひじを低くした二刀流の構えを取る。
「始め!!」
主審の木剣が鋭く振り下ろされ、開戦の銅鑼が鳴り響いた。その刹那、二人の化け物が白い砂を爆発させるようにして、正面から激突した――!
激しく散った初撃の火花がアリーナを照らした瞬間、観衆から大歓声が巻き起こる。
特等席のクラウディアは、無意識のうちにドレスの裾をきつく握り締め、指先に力を込めた。
アリーナでは激しい砂塵を巻き上げながら、二人の怪物が人間の領域を遥かに超えた速度で何度も交錯し、刃を交える。
誰の目にも、レンが驚異的な手数で猛攻を仕掛け、主導権を握っているように見えた。
両手に握られた二本のスパタが陽光を浴びてギラりと眩しく反射し、数多の銀色の閃光がセウテスへと襲いかかる。
だが、全ローマの絶対王者は伊達ではなかった。
セウテスは最小限の動きで円盾とシーカ(湾曲刀)を操り、その嵐のような攻撃すべてを完璧に弾き返していた。
(やはりセウテスは強い! だけど、可能なら『修羅モード』は使わずに勝ちたい!)
観客に派手な演出をするため、レンは更に空気を引き裂くような容赦のない左右の高速連撃を繰り出していく。
『おおお! 流石はガリアの新星レンだ! とてつもない早さのラッシュだぞ!』
『これは勝負あったな! レンが圧倒している!』
『何を言ってるんだこのド素人め! レンの剣は、セウテスに一度もカスってもねえだろうが!!』
観客たちの評価が二分する通り、レンの猛攻はセウテスの芯をまったく捉えていなかった。それどころか、レンは『先読み』の力により、すでに何度もセウテスから放たれる致命傷のカウンターを回避している状態だった。
セウテスはレンと違い、自由の獲得だけを望んでおり、観客を喜ばせるための仕事(見世物)など、もはやまったく興味がなかった。
ゆえに、セウテスは最初から、レンの命だけを狙っていたのだ。
決め手にかける攻防が続き1分ほど続き、バルコニーで見守るクラウディアの胸にじわじわと不安が過り始める。
(……おかしいわ。セウテスは防戦一方に見えるけれど、体勢が少しも崩れない。これは本当に、レンが優勢なの……?)
やがて、レンの超高速の二刀流に完全に目が慣れたセウテスが、反撃の手数を増やし始める。左手の円盾でレンの斬撃を受け流し、あるいは最小限の足捌きで全ての刃をかわしていく。
そして、レンの完全な死角から、内側に鋭く曲がった禍々しい湾曲刀を電閃のごとく脇腹に突き出した。
――ザシュッ!
「ぐっ……!?」
予想外の死角からの一撃に、レンは驚愕で目を見開き、本能的に後ろへと大きく飛び退いて間合いを取る。
(くそっ……! 軽傷扱いで『先読み』が発動しなかった!)
脇腹に刻まれた傷は深く、軽傷とも中傷とも言い難い、ギリギリの傷だった。
そのためレンの脇腹からは鮮血がドクドクと流れ落ち、白い砂を赤黒く汚した。
「ほう。さすがはセウテスだ」
観客が興奮で熱狂する中、マニウスが笑みを浮かべつつ、冷徹な声で呟いた。
隣に座るクラウディアには、それに応じる余裕はなかった。
彼女の女としての本能が、最愛の男に命の危機が迫っていると早鐘を打っていたからだ。
レンは大きく距離を取った後、セウテスが追撃を仕掛けてくるのを待ち構えたが、王者は動かなかった。
じりじりとした、静かな睨み合いがアリーナを支配する。
やがて、経験の浅さから、先に痺れを切らしたレンが再度攻勢に転じ、爆発的な踏み込みで、一気にセウテスとの距離を詰める。
だが――この瞬間を、セウテスはずっと待ち構えていた。
一直線に突撃するレンの脳裏に、セウテスの湾曲刀が自分の肉体を無残に切り裂く光景が見えた。
レンは瞬時に、超人的な反応速度で身体の軸を無理やりズラす。
しかし、修正に対応したセウテスの刃が、再び自分を正確に捉える未来が視えた。
(――不味いっ、これは避けれない!!)
躱すことは不可能だと判断したレンは、咄嗟に右手のスパタで予測された剣筋に防御を取った。
――っ!!!
次の瞬間、二人の影が交錯したあと、互いに背を向けた状態でピタリと動きが止まった。
一瞬の静寂が闘技場を包み込む。
やがて――レンの手から二本のスパタが力なく滑り落ち、砂の上に落ちた。
レンは両手で自らの胸を強く掻きむしるように押さえると、天を仰いで絶叫した。
「ぐうぁあぁあぁぁーーっ、痛ええええええ!!!」
レンの絶叫がアリーナに響き渡ると、観客たちはセウテスの刃がレンを捕らえたと知り、大歓声を発する。
『流石はセウテスだ!! ガリアのクソガキを屠ってくれると信じてたぞ!!』
『嘘だろ!? レン、俺はこれにお前の勝利に100デナリウスを賭けてるんだぞ! 俺の全財産がぁぁぁ!!』
『ほら、言っただろ! 絶対的王者は無敵だって!』
レンは★痛覚軽減Lv.50により痛みを50%カットしていたが、耐え難い激痛に襲われ、心の中で猛烈に後悔する。
(くそおぉぉぉ! 剣で防ごうとするんじゃなかった!! あの時、修羅モードを使ってたら、こんな痛い思いしなくてすんだのによぉ! ちくしょうー、これ滅茶苦茶、痛えええーーぞ!!!)
ゆっくりとレンの方へ振り返ったセウテスは、確かな手応えをその手に感じていた。
レンに与えた剣傷は、肩近くから腹部まで達しており、傷の深さは胸骨の表面をザックリと削り取るほどで、通常の医療であれば三人に二人は確実に失血か感染症で死に至るほどの重傷だった。
「ぐうあぁ、うっ、うう……」
だが――痛みで唸り声を上げるレンは、自分が死ぬことなど微塵も考えていなかった。
(俺には回復術がある! 手当を受ければ100%助かる! セウテス、貴様はマジで許さんからな!! 俺の英雄伝の惨めなヤラレ役にしてやる!)
レンは重傷のショックで脳内には大量のアドレナリンが溢れかえっていた。そのため痛みと興奮がごちゃ混ぜになって、いつもなら恥ずかしくて絶対やらない方法で逆転劇を演出することにした。
セウテスは『死に体』のレンの背後からゆっくりと近づき、剣が届く間合いの一歩手前でピタリと足を止めた。
セウテスは勝利を確信していても、油断していなかったのだ。
そして、レンにシーカの切っ先を向けると、バルコニーに君臨するクラッススの方を厳かに仰ぎ見た。
これは最初から死が約束された、デスマッチであっても、即死を免れた敗者の生死を主催者に委ねるという、儀礼的なポーズだった。
セウテスが、レンの生死をクラッススに委ねたため、数万人の観客の視線が、一斉にクラッススへと集中した。
「クラッスス様……っ!」
クラウディアがレンの助命を乞うため、顔を真っ青にして立ち上がろうとした。だが、隣のマニウスがその細い腕を強引に掴み、冷酷に引き戻す。
「お前の出る幕ではない!
クラッススの決断が揺らぐことはない! 一族の名誉に泥を塗るな!」
「っ……!」
クラウディアは悔しさに美しい唇を血が出るほど噛み締め、自らの無力さに絶望するしかなかった。
当のクラッススは、すぐには席から立ち上がらない。
無表情な真剣な顔つきで、観客席をゆっくりと見渡していく。
これは民衆の反応を見るためである。『お前たちは、この剣闘士を生かすべきと思うか? それとも殺すべきだと思うか?』と暗黙に問うことで。市民の声に耳を傾ける『寛大で主催者』を演出するための、政治的パフォーマンスだった。
観客席の一人が拳を突き上げて叫んだ。
『殺せ!!』
その声を皮切りに、スタジアム全体から次々と怒声が飛ぶ。
『そうだ、殺せ!』
『王者はセウテス一人でいい、敗者に用はねえ! 殺せ!』
『期待外れだ、試合が短すぎる! もっと血を見せろ!!』
最高峰のデスマッチに、見どころが足りなかったと不満を抱いたローマ市民たちが、容赦なくレンの死を催促するコールを打ち鳴らした。
その凄まじい殺意の嵐の中――
血に染まったレンが、左手で傷口を強く押さえながら、右手で剣を拾い上げると、ゆらりと立ち上がった。
セウテスは一瞬にして警戒を強め、シーカを握り直す。
だが、次の瞬間、レンがクラッススを見上げて、アリーナ全体に響き渡る大声で叫んだ。
「クラッスス様ぁぁーー!!
ど、ど、ど、どうか、どうかこの哀れな奴隷に御慈悲をーーっ!!」
レンのみっともない命乞いに、数万人の群衆は一瞬で呆気に取られて静まり返り――次の瞬間には、嘲笑と冷酷な「殺せ」の暴風雨を浴びせた。
『情けねぇ! それが英雄と言われたヤツの言葉かよ! 醜悪なガリアのブタめ!』
『そうだ、もう殺せ!!』
『『『殺せっ! 殺せっ! 殺せっ!!』』』
観客は総立ちとなり、拳を突き上げ、闘技場全体が殺せコールに沸き上がった。
観衆の意思を見届けたクラッススは、静かに立ち上がる。
それを見た観衆が、一斉に声を潜めた。
静寂の中、クラッススは右手の拳を首の位置まで上げ――
突き出した親指を横に大きくスライドさせて首を掻き切る「死刑」のジェスチャーを行った――その時。
「セウテえぇぇーーーーーーース!!!!!」
観客が反応するよりもいち早く――否、クラッススの親指の動きが終わらぬうちから、レンの怒声が激しく響き渡った。
命乞いをしていた男の情けない声が、怒声へと変わったあまりの豹変ぶりに、観客の思考が一瞬フリーズする。
レンは右手の剣をセウテスに向け、左手で胸を押さえながらも、堂々と言い放つ。
「お前の命を救ってやって欲しいと、クラッスス様に懇願したが、残念ながら却下された!! よって、今から俺がお前を殺す!! 最期に言い残すことはないか、死にゆく王者よ!!」
レンの、あまりに一方的な言い分に、
『え!? あれはセウテスの命乞いだったの!?』
『いやいや、お前の方が死にかけてるのだが!?』
と、数万人の観衆は困惑し、呆然と固まった。
一瞬、場の雰囲気に呑まれたセウテスだったが、そこは百戦錬磨の王者。
瞬時に鋭い眼光を取り戻し、冷徹な声で言葉を返す。
「……フン、戯言を。
お前こそ、その薄汚い命の最期に、言い残すことがあれば言うがいい!」
待ってました、とばかりにレンの口角が不敵に吊り上がる。
「ならばよく聞け! お前の命を奪うのは、東方の剣聖、宮本武蔵師匠(心の)より授かりし究極奥義――『神速剣だ!!』
この技は、肉体への負荷があまりに大きいため、人生でたった一度しか使用出来ない!! 貴様がその命で拝めることを光栄に思うがいい!!」
「ならば来い、英雄!! 貴様の全てを受け止め、我が渾身の一撃で昇天させてやる!!」
セウテスは全身の気力を滾らせると、円盾を掲げ、シーカを構えた。
「では参るぞ、王者! 三! 二! 一!」
カウントダウンを叫ぶレンは、左手で胸の重傷を押さえたまま、右手の剣を力なくだらりと垂らした、今にも崩れ落ちそうな“死に体”だった。そのため観客たちは、言動の落差に息を呑みながらも、固唾を飲んで結末を見守った。
「――ゼロ。宮本武蔵直伝、神速け~~~ん!!」
レンの叫びがアリーナに響き渡る。
だが――1秒、2秒と時間が過ぎても、レンは数ミリも動こうとしなかった。
すぐに観客たちが『ハッタリだったのかよ!』と、ざわめき始める――しかし、その瞬間、レンが全員の視界から消えた。
『あれ、レンはどこだ!?』
『っ!?』
『バカな!? どこだ、どこに行ったんだ!?』
『見ろ、あそこだ! セウテスのうしろ!!』
いつの間にかセウテスの背後へ瞬間移動したかのように立つ、レン。
彼はすでに勝利したかのように、クラッススを見上げ、右手の剣を高く掲げていた。
『アイツなにをやって――』
観客のひとりが、その疑問を口にしようとした時――。
『うあぁぁ!!』
『きゃあああーーー!!』
全ローマの絶対的王者である筈のセウテスの体が、糸の切れた人形のように砂の上へ崩れ落ちた。そして胴体から切断された首が、白い砂の上をコロコロと虚しく転がる。
闘技場全体から、鼓膜が破れんばかりの悲鳴と歓声が沸き起こった。
『せ、セウテスが死んだ……!?』
『嘘だろ、本当に神速の剣だ!! 全く見えなかったぞ!!』
『あのセウテスが死んだのか!』
『凄いぞレン! お前こそ、全ローマの王者だァァ!!』
審判が木剣を掲げ、高らかに宣言する。
「勝者、ガリアの英雄レンーーー!!」
その直後、レンは力なく膝を地面に付いた。
観客が息を呑む。
レンは膝を付いたまま剣を再び高く掲げると、力尽きたように剣をポロリと落とし、仰向けになって倒れた。
レンは左腕で傷口を庇いながら、思う。
(クラッススの賞賛と賞金の話なんて聞いてられるかよ! 早く担架を持って来て治療してくれ! 砂が傷口に入らないよう仰向けに倒れたんだから、間違っても体を転がすんじゃねえぞ!!)




