66 初めての品種改良
紀元前76年7月
一隻の中型快速船がギリシャのコス島からローマを目指して出発した。
千五百デナリウスという大金を払い、セルギウスたちが貸し切った船だ。
その船室の一角で、彼らは真剣な眼差しで積荷を見つめていた。
「いっぱい大きな繭が取れたね!」
船室の床に並べられた通気性の良い網の籠。
その中には白い繭が、敷き詰められている。
タルトが籠を指折り数えながら応じる。
「そうだな。網の籠が十五個。ひとつに五十から百の繭が入っているから、だいたい千個くらい取れたんじゃないか?」
並ぶ籠をじっと見つめていたセルギウスが、重い口を開いた。
「……何匹かは中で暴れているようだ」
「え、じゃあもう羽化が始まってるってこと!?」
リクトスが驚きで口を開くと、セルギウスが表情を変えずに頷いた。
「そうだ。このまま放置すれば、ローマに着く頃にはほとんどが羽化し、残りの繭が死んでしまう」
「ええっ、なんで!?」
リクトスが素っ頓狂な声を上げる。
「羽化した蛾の排泄物が下にあるまだ眠っている繭に降り注ぐ。すると、繭の隙間がなくなり、中の蛾を窒息死させるんだ。ほかにも、鋭い爪で他の繭を壊すこともあるらしい」
「じゃあ……手に入るのは最初に羽化した奴だけってこと!?」
ガックリと肩を落としたリクトスを見て、セルギウスの唇の端が不敵に吊り上がった。
「だから、これから羽化した蛾を別の網籠に移す作業をする。この時、雄と雌を確認して、雄は雄の箱に、雌は雌の箱に入れるんだ」
「ええっ!? 箱を開けたら飛んで逃げちゃうよ!」
慌てて手を振るリクトスを、セルギウスは鼻で笑った。
「心配しなくてもいい。俺たちに必要なのは元気よく飛ぶ蛾じゃない。飛ばない蛾だ。元気が良すぎて捕まえられない奴は、窓から海に逃がしてやればいい」
リクトスは呆れた顔で、セルギウスを見つめた。
「……それって、逃がしてやるんじゃなく、魚の餌になっちゃうよね?」
セルギウスはその突っ込みを完全に無視し、指を動かして蛾の形を描く。
「いいか。オスとメスの違いは触角と腹だ。オスは腹がすっきりしていて、メスはパンパンに膨らんでいる。それでも分からない場合は、俺のところに持って来い」
「分かったよ!」
リクトスは大きく頷き、タルトと顔を見合わせると、袖をまくって籠へと手を伸ばした。
ーーーー
10日後。
船は無事にローマの港に寄港した。
港で、荷馬車組合から、事前に予約していた三台の馬車を借り受け、パキポサの入った籠を積み込んだ。
そしてローマ近郊の農村にある、自分たちの拠点であるパキポサ小屋へ出発した。
翌日、昼前にパキポサ小屋に到着した。
三人が馬車から降り、籠の前に立つ。
網の隙間からは灰褐色の足や触角が覗き、ガサゴソと不気味な音を立てて蠢いている。
セルギウスが指さす。
「羽化したオスとメスの籠は、それぞれ別の小屋に入れる。オスが入った籠は一番小屋、メスは二番小屋だ。まだ羽化してない籠は三番小屋に入れる」
タルトとリクトスが力強く頷く。
「分かった」
「うん!」
今回の旅で手に入れた繭はおよそ千個。
パキポサは繭となってから10日から2週間で羽化するため、すでに船内でパキポサの蛾の六百匹近くが羽化してしまっていた。
1000ある繭のうち、羽化するのは六〜八割ほど。つまり最終的に700前後が羽化することになる。
リクトスが網の籠を運びながら、並んで歩くタルトに声をかけた。
「ねえ、これを運んだあとはどうするの?」
タルトが呆れたように息を吐く。
「お前さ、レンからの指示書の内容を読んでないのか?」
「俺、ひと月の間、実家に帰ってたでしょ。だからセルギウスさんとタルトが知ってれば十分かなって」
「はぁ……」
タルトはため息交じりに言葉を継いだ。
「いいか、小屋は職人に建ててもらったけど、その間、俺たちは葦で小さな籠を作っていただろ? 何のために作ったと思ってるんだ?」
「え? パキポサを飼うための籠でしょ?」
「そうだけど、違う。小さな籠の中に成虫のオスとメスを一匹ずつ入れて、子供を作らせるためだ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあいっそ小屋に入れる前に、番に分けてその籠に入れた方が、手間が少なくなるんじゃない?」
「……お前、適当に交尾させたらいいとでも思ってるのか?」
「え、違うの。コス島で捕まえた蛾って、どれも繭の大きかった優秀な蛾でしょ?」
「……もういい。すぐに分かるから、とっとと小屋に運ぶぞ」
三人がすべての籠を運び終えると、セルギウスはオスだけを集めた一番小屋へと皆を促した。
「よし、今から籠から一匹ずつ出し、優秀な蛾をランク付けする。飛ばれてもいいように小部屋に移動して、そこでチェックする」
「え、一匹ずつ見るの?」
気の遠くなるような作業を前にリクトスが声を上げる。
すかさずタルトがその脇腹を小突いた。
「いいから、黙って付いてこい」
セルギウスが籠をひとつ抱え、先頭を切って薄暗い小部屋に入る。
「まずは、台の上にある酢を含ませた布で口と鼻を塞ぐぞ」
リクトスが首を傾げる。
「なんで?」
「蛾の体から出る大量の粉が喉に入るのを防ぐためだ、いいな」
「うん、分かった」
布を顔に巻き、準備を整えると、セルギウスがおもむろに籠に手を入れ、一匹の蛾を取り出して台の上に置いた。
その瞬間、蛾は物凄い勢いで羽を羽ばたかせ、天井に向かって飛び立つ。
「うわぁ! 凄く元気がいいね! めちゃくちゃ優秀じゃない!!」
リクトスが目を輝かせる。
だがその横で、タルトがリクトスの袖をぐいと引き、無言で首を振った。
「え。なに? 駄目なの?」
「あんな早さで飛ばれたら、今後の管理が大変だろ。動きがいいのは、俺たちにとって最悪ってことだ」
眉を寄せるタルトの言葉に合わせ、セルギウスが冷徹な声で告げた。
「最低ランクのEランクの籠に入れておけ、死んでもいい。扱いは雑でもいい」
「分かった」
タルトが飛び回る蛾を網で捕まえている間に、セルギウスは次の蛾を籠から取り出し、再び台の上に置く。
今度はぴくりとも動かず、飛び立つ気配もない。
「うわぁ! この子はいいんじゃない!! まったく飛ばないよ!」
リクトスが身を乗り出し、顔を近づける。
だが、セルギウスは冷ややかに首を振った。
「コイツは死んでる。捨ててくれ」
「え!? これ死んでるの!? せっかくギリシャまで行って捕まえたのに……」
リクトスが残念そうに死体をゴミ箱に捨てる。
そこでタルトが飛び回っていた蛾を籠に入れて戻ってきた。
セルギウスが再び籠に手を入れ、三匹目の蛾を台の上に置く。
今度の蛾はゆっくりと飛び立ち、頼りなげに羽を羽ばたかせながら、ふらふらと低い位置を飛んでいた。
それを見たリクトスが声を弾ませた。
「いいんじゃない! 今度の蛾は早くないよ! なんかトロい!」
蛾が近くの壁にしがみつくと、タルトがゆっくりと近づき手を伸ばした。
元剣闘士とは思えない手際の良さで、あっさりとその体を掴み取って戻ってくる。
手の中の蛾を見ながら、タルトが首を傾げた。
「ウ〜ン、コイツ飛ぶ速さは遅いけど、羽が痛んでる。だから遅いのかも……」
セルギウスはタルトの手越しにその蛾を観察し、重々しく告げた。
「……だが、人間からあまり逃げようとはしていないな。そこはポイントが高い。弱っているわけでもなさそうだし、Bランクにしておこう」
セルギウスの言葉に、リクトスがなるほどと頷く。
「元気さより、扱いやすさが重視ってことだね!」
その後も、次々とランク付けが進んでいった。
5時間後。
3つの籠、合計120匹の選別を終えた段階での内訳は、
Bランク 3匹
Cランク 11匹
Dランク 18匹
Eランク 79匹
そして死体が9匹だった。
そして、セルギウスが4つ目の籠から、通算126匹目となるオスを台の上に置いた時だった。
そのオスは、台の上に置かれても羽ばたこうとはせず、逆にのそのそとセルギウスの指先を登り始めた。
「あ、この子覚えてるよ! 2日前に、船の中で選り分け時、お腹が大きかったからオスかメスか分からなくて、セルギウスさんに聞いた子だ!」
セルギウスが軽く手を振り払い、台の上に落とし、台をバンと強く叩いた。
驚いた蛾はパタパタと力なく飛んだものの、すぐに近くの壁にしがみつく。
タルトがその様子を見て、興奮した声を上げる。
「セルギウスさん。こいつ、今までで一番いいオスだと思う!」
タルトの言葉に、セルギウスが頷き、眼光を鋭くし、壁に歩み寄り、その個体を優しく掴み取る。
「うん。……こいつは、間違いなくAランクだ。……よし、次はこいつの番を探すぞ」
急な方針転換に、リクトスが目を丸くした。
「え、オスはもういいの?」
タルトが呆れたようにリクトスに説明する。
「レンの指示書によると、メスは一度交尾して卵を産んだら、もう寿命で死ぬんだ。でもオスの場合は、元気なら三回くらいは交尾が出来る。だからオスはメスよりもさらに厳選して選んで、最高のオスを可能な限り何度もいいメスと繁殖させろって書いてあったんだ」
「そうなんだ。でも、たった三回って少なくない? ……そうだよ! 飯を与えたらもっと元気になって、たくさん交尾するんじゃないかな?」
「はあ? お前、いまさら何を言ってるんだ。繭から羽化した蛾は水も飯も食べない。だから俺たちは何も与えていなかったんだぞ」
「え、そうだったの? 俺、てっきり倹約で飯を食べさせてないのかと思ってた、養成所の遠征中とか『倹約だ』とか言って飯をくれなかったことがあったでしょ」
タルトが呆れた顔で応える。
「蛾は羽化してから、飯も水も取らず1週間から10日で死ぬ。そう指示書に書いてあるから、あとでちゃんと読んでみろ」
「レンって強いだけじゃなく、何でも知ってるよね。だからクラウディア様みたいな凄い人が、パトロンになってくれるんだろうね」
「そうだな。まあ、剣闘士のことについては殆ど知らなかったけどな」
リクトスがレンと出会った当時を思い出し、笑いながら応える。
「そうだね。剣闘士が本職なのにね」
三人は夜10時頃までランク付けの作業をし、89匹のメスのランク付けをした。
内訳は、
Bランク 5匹
Cランク 18匹
Dランク 25匹
Eランク 34匹
そして死体が7匹だった。
メスの方が総じてランクが高くなった。
これはオスはメスを求めて飛び回るため行動的なの対し、
メスはあまり飛ばないためである。
メスは壁や枝にじっと留まり、フェロモンを出してオスを呼ぶ。
そして体力を産卵に回すため、行動が控えめなのである。
セルギウスはBランクに入ったメスの籠を見つめた。
リクトスがその籠に顔を近づけて覗き込む。
「このBランクのメスを、あのAランクのオスと交尾させるんだね!」
「そうだ」
セルギウスはオスのランク付けのメモ帳を開いた。
Aランク 1匹
Bランク 3匹
Cランク 11匹
Dランク 18匹
Eランク 79匹
「Aランク~Dランクまでのオスが33匹か……。よし、Dランクまでのオスは配合に使おう。Eランクのオスは必要ない」
タルトが頷く。
「そうですね。オスは3回くらい交尾できますから」
「ランクの高いオスにはランクの高いメスをあてがう。明日の選別で状況が変わるかも知れないが、オスにはランクが同じか、ワンランク下のメスと交尾させる」
「ワンランク落ちちゃうの?」
「今の状況ではそうなる。ランクの高いオスを優先して、ランクの高いメスをあてがうんだ。それと注意すべきは、Aランクのオス以外と交尾したメスが産んだ卵で、卵の数が少ない場合は処分する」
「え、捨てちゃうの!?」
「そうだ。卵を産む数は遺伝するらしい。だから少ししか卵を産まないメスの卵は処分するよう、指示書に書いてある」
タルトが付け足す。
「あと、処分って捨てることじゃないからな。他所で繁殖して、それを利用して絹を作られたら俺達の品種改良の成果が台無しになるだろ。だから卵は焼いて処分するんだ」
「なるほど……」
その後、セルギウスたちはあらかじめ用意した小籠に、パキポサの番を入れた。
小籠の中には卵を回収しやすいよう、メスが卵を産み付けるための、小枝と、ボロい布切れが入れられてあった。
ーーーーー
5日後、全てのパキポサが羽化し、ランク付けが終わった。
最終的な内訳。
★オス384匹
Aランク 1匹
Bランク 9匹
Cランク 28匹
Dランク 54匹
Eランク 223匹
★メス377匹
Aランク 2匹
Bランク 21匹
Cランク 72匹
Dランク 115匹
Eランク 167匹
こうしてローマで初めての品種改良が始まり、優秀なパキポサだけを残すための仕組みが整いつつあった。
投降は偶数日のため、次回は9月2日を予定してます。




