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65 クラウディアの夫候補

レンがローマからカプアの養成所へ帰還して数日後、バティアトゥスからの呼び出しを受けた。


レンは執務室の重厚なドアへと手を伸ばす。


――コンコン


「レンです。お呼びと聞き参りました」


一呼吸置いて、中からバティアトゥスの声が響く。


「入れ」


レンが静かにドアを開けて中に入ると部屋の空気が張り詰めていた。


奥の机にはバティアトゥス。

そして、手前にはセウテスが奥の方を向いて立っていた。


(……セウテス)


レンの黒い瞳が、わずかに細くなる。


セウテスはレンが入室しても振り返らない。

バティアトゥスは机の上の書類をパシャリと叩くと、酷く歪んだ笑みを浮かべて口を開く。


「レン。お前が前回の興行を生き残ったことで、次の試合が正式に決まった」


(セウテスとのデスマッチだな……)


レンは試合の内容を知らない振りをする。


「それはどのような?」


「三カ月後、ローマ有数の大富豪のクラッスス様が興行を主催される。その試合の最大の目玉試合で、セウテスとレンの二人に戦ってもらう」


セウテスがチラリとレンを見る。


「……俺が、コイツとですか?」


「そうだ。セウテスも聞いていると思うが、レンは短期間で無茶な試合を繰り返して来た。その結果、2年足らずでカプア、いや全ローマの王者たるお前と同等の名声を手に入れたのだ」


セウテスの眉がピクリと動く。


「ふっ。それでクラッスス様は、王者の俺と、コイツを戦わせてローマ市民の関心を得ようということですか」


「セウテス。これはただの頂上決戦ではない。クラッスス様は本気の試合を望まれている。つまり――デスマッチだ」


セウテスの目の色が変わる。

彼はレンに負けるとは思っていない。この半年、レンの勢いを警戒し、本気で修練を重ねて来たのだ。


「デスマッチ……。クラッスス様は、さぞ大金を積んだのでしょうな」


セウテスであろうとデスマッチを断ることは出来ない。そのため、見返りを求め圧力をかける。


「そうだ。二人の貸出料だけで20万デナリウス。試合の賞金額は10万デナリウス、良い試合をすればさらに賞金を弾むと仰せだ」


「……」


セウテスが圧倒的なクラッススの財力に息を呑んだ。


「クラッススはセウテスが勝てば、自由を与えると仰せだ。良かったな、お前の自由を買い取ってくださるそうだ」


セウテスが勝った場合、クラッススが追加で10万デナリウスを払うことで、自由にする契約となっていた。


「お、俺が自由に……」


セウテスが自由と言う言葉に、息を呑んだ。

これまでセウテスが、自分で稼いだ賞金で自由を買おうとしても、がめついバティアトゥスが認めず、決して自由を与えようとはしなかった。

そのため、セウテスの目に自由への希望が宿った。


バティアトゥスはセウテスから、レンの方に視線を変える。


「ただし、レン。お前はダメだ。あのお方の許可が必要だと、お断りした」


「はい、分かっています」


(ふん、そうだろうな。だけど、裏では俺が自由になる計画が進んでるんだよ。まあ、お前みたい雑魚は知らないだろうけどな! いつまでも簡単に殺せる奴隷だと思うなよ!)


セウテスが軽く頷く。


「分かりました。最後の試合、必ず勝ちます」


「……」


レンとセウテスの二人はバティアトゥスに挨拶をし、執務室を出た。廊下で、互いの顔を見る。


「レン、運が悪かったな。お前では俺には勝てん」


(セウテスから声をかけるのは初めてだな)


「そうですか。

だけど、勝敗は時の運ともいうでしょ。一応、子供や嫁にお別れの挨拶をしておくことをお勧めします」


レンは対セウテス用のスキルを得た余裕から、セウテスに情けのつもりで悔いのないようにしろと忠告する。


だがセウテスは、レンが既に自分が勝つことが分かっているような口ぶりに、怒りを覚えた。


「お前こそ、友人たちに別れの挨拶をしておくことだな。死ぬのはお前の方だ」


そう言うとセウテスはレンから視線を外し、歩き始める。


(俺は忠告したぞ……)




ーーーーーーー

1か月後。

紀元前76年7月


ローマの一等地にあるクラウディア邸の広大な執務室。

初夏の柔らかな陽光が大理石の床を白く照らし、静謐な空気を満たしていた。


部屋の中央の豪奢な長椅子には、純白のトガをまとったクラウディアが優雅に身を預けている。


その背後には、新執事ダミアンが控え、対面にはセクストスという若い男が座っている。


セクストスはパトリキ(貴族)の血筋だが、没落した弱小家系の三男坊。

目の前の金持ちの未亡人の存在に、下心を隠しきれずにいた。


「お初にお目に掛かります、クラウディア様。……いやはや、今をときめく貴婦人から直々に使いを寄越されるとは。先の興行では、莫大な賭け金を投じて大儲けされたとか。ローマ中の貴族があなたの手腕を噂しておりますよ」


セクストスは香油で固めた髪をいじりながら、いかにも自信ありげな笑みを浮かべた。

女好き特有のねっとりとした視線が、クラウディアの胸元へと流れる。


「それで……そんなお美しいクラウディア様が、この僕に一体何の御用でしょうか? もしかして、僕の噂をお聞きになって、個人的に見初められた……とか?」


白い歯を見せて甘い笑顔を振りまく男を、クラウディアは手にした極上の絹の扇をパッと広げ、口元を隠してクスクスと低く笑う。


「まさか。……セクストス、貴方はわたくしが特別な興味を抱いて、わざわざここに呼び寄せたとでも思っていらっしゃるの?」


冷ややかな響きを含んだ声に、セクストスの笑みがわずかに引きつる。


「ち、違うのですか? 家を通さずに、わざわざお抱えの奴隷を僕の元へ寄越された。これは周囲には聞かせられない、内密の“お話”があるからだと……」


「ええ、確かに内密の話ですわ。ただし、貴方の期待しているようなものではなくてよ」


クラウディアは扇をそっと下ろし、冷徹な琥珀色の瞳でセクストスを射抜いた。


「セクストス。貴方の素行の悪さは、この界隈のパトリキの間でも有名だと聞きました。夜な夜な賭け事に興じ、下品な女遊びを繰り返し、膨れ上がった借金のせいで、実家からは勘当寸前の状態だとか?」


「っ……!」


図星を突かれたセクストスは、みるみる顔を赤くし、椅子から腰を浮かせかけた。


「僕に興味がないのなら、なぜ僕を呼んだ!」


クラウディアは一呼吸置き、残酷なまでに美しい笑みを浮かべた。


「──セクストス。貴方、わたくしに“身売り”をする気はなくて?」


「み……身売り……!?」


セクストスは次の瞬間、下衆な笑みを浮かべた。


「なんだ、やはり僕に興味があるんじゃないですか。いいですよ、クラウディア様なら、喜んでお相手をしましょう」



クラウディアはくすりと笑う。


「勘違いしないで。わたくしが貴方に抱かれることはありません。貴方には表向きの夫になって貰い、わたくしに子供が生まれれば、子供の父親として認知して貰いたいのです」


「……は? お、夫? 認知……!?」


セクストスは唖然として声を漏らした。


「まさか……僕を他人の子供の父親にしようと言うのか!」


クラウディアは動じず、唇の口角を吊り上げる。


「そうよ。貴方は実際に子供を育てる必要はないわ。ただ、私と結婚して認知してくれればいいだけ。もし、条件を呑むと言うのなら貴方の抱える膨大な借金は、わたくしが支払って差し上げます。その上で、さらに貴方が住む屋敷と、毎月『一千デナリウス』の小遣いをあげましょう」


「い、一千……デナリウス……!? 小遣い!?」


セクストスの瞳の奥に、金の亡者としての光が宿った。毎月、遊ぶためだけに手に入る大金。


「それは本当か!? 僕は認知さえすればいいのか?」


「ええ、そうよ。ただし、わたくしに迷惑をかけないこと。犯罪などは論外よ。女や賭け事は好きなだけおやりなさい。……もし、わたくしの名を出し、他所で借金を作ったり、名誉を大きく損なうような真似をすれば──その時は貴方の命を持って償ってもらうわ」


セクストスはゴクリと喉を鳴らした。


「……わかった」



ふた月後。

セクストスは、クラウディアを連れて実家を訪れた。


クラウディアが妊娠した責任を取り、彼女と結婚すると父のルキウス・コルネリウスに報告した。


父のルキウスは、クラウディアのお腹の子がセクストスの子供ではないと察した。しかし、放蕩息子を引き取ってくれるだけでなく、多額の心づけ(10万デナリウス)を持って来たクラウディアに笑顔を振りまいた。


ルキウスの一家は、こうしてクラウディアと腹の子供を喜んで家に迎え入れた。


ストックがゼロになりました。

今後、投稿が遅れることもあるかも知れません。その時は、書けなかったのだとご理解頂けると幸いです。なお、今後は偶数日の投稿になります。

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