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59 レンの奴隷解放の条件

マニウスとの会談を終え、叔父の邸宅を後にしたクラウディアの足取りは重かった。

レンの奴隷解放後、すぐにローマ市民権を与える――その最初の目論見は、叔父マニウスの拒絶により打ち砕かれた。


(叔父様の説得は無理ね……)


揺れる馬車の中で、クラウディアは悔しげに扇子を強く握りしめる。

だが、胸の奥で燃え盛るレンへの愛の炎は、その程度の壁で消えるものではなかった。


(ならば段階を踏むまでよ。いきなり市民にするのが無理なら、まずはレンを奴隷の枷から外す。そのためには元老院に強い影響力を持つ男の元へ向かいましょう)


クラウディアが次に向かったのは、クラッススの邸宅だった。


「ほう。元老院への働きかけ、とな」


重厚な執務室で長椅子に腰掛けたクラッススは、冷徹な眼光をクラウディアへ向けた。


「ええ、クラッスス様」


クラウディアは優雅に微笑み、一歩前へ進む。

ドレスの内で豊かな双丘が小さく揺れ、甘く危険な香油の香りが執務室に広がった。


「今回のシルフィウム栽培を成功させたのは、他でもないレンの功績です。これほどの功績を上げた者を、いつまでも奴隷のままにしておくなど、可笑しな話ではございませんか。どうか、クラッスス様のお力で、レンを奴隷から解放するよう元老院に働きかけていただきたく存じます」


クラッススはふっと鼻で笑った。


「確かにシルフィウムは素晴らしい。だがクラウディア、勘違いするな。すでに結ばれた『六人同盟』によって、私はその利益の三割を手にする契約を済ませている。レンが奴隷のままであろうが、解放されようが、私の懐に入る金に変わらん」


冷酷な眼差しがクラウディアを射抜く。


「クラッスス様もレンを奴隷から解放したくないのですか?」


「違う。その提案には、私に何のメリットがある?」


ぴしゃりと言い放たれ、クラウディアの琥珀色の瞳が微かに揺れた。

しかしクラッススはそこで言葉を区切り、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべる。


「そこで、私とひとつ『賭け』をしないか?」


クラウディアが僅かに眉を寄せる。

「賭けですか?」


「そうだ。もしそなたが勝てば、私の名において元老院の老人どもを黙らせ、レンを奴隷から解放してやろう」


「……条件は、何でしょう?」


「数か月後、私が主催の興行を開くことにしよう。そこで、カプアの王者セウテスと、レンを戦わせる」


「無敗の王者と試合をしろと?」


「そうだ。だがただの試合ではない、デスマッチだ」


クラウディアの息が、一瞬止まる。

セウテスといえば、史上最強と言われる王者だ。

だがレンが必ず負けるとは限らない。いまやレンもセウテスを凌ぐスピードで名声と実力を付けて来ている。


クラッススはさらに条件を語る。


「もしレンが負ければ、シルフィウム栽培における奴の取り分は、すべて私が貰う。

だが、もしレンが勝ち、セウテスを屠ってみせたなら……彼を奴隷から解放し、以後は私も彼の公式なパトロンとなり、全力で彼を応援してやろう」


それはハイリスク・ハイリターンな提案だった。

だがレンを救い出すには、クラッススの提案を飲む以外にない。


クラウディアはパチンと扇子を閉じ、琥珀色の瞳に不屈の意志を宿して微笑んだ。


「分かりましたわ。クラッスス様、その条件、乗らせていただきます」


(レン……わたくしは貴方を信じるわ。どんな窮地も覆してきた貴方なら、必ずあの王者すらも切り伏せてみせるはずよ)


こうして、2カ月後の試合を待たず、クラウディアの手によってセウテスとの死闘が決まった。



ーーーーーー

2カ月後

紀元前76年6月


ガイウス・クラウディウス・グラベルの興行が始まってから6日目、レンはオエノマウスに呼ばれ教官用のテントを訪れた。


「オエノマウス教官、お呼びと聞き参りました」


「レンもう分かっているだろうが、明日がお前の試合だ」


「はい。俺はどんな試合に出るのでしょうか?」


レンはクラウディアから試合の内容は聞いていたが、知らないフリをした。


「アッリアの戦いの再現試合だ。お前はガリアの王ブレンヌスの役を演じ、ガリア兵の役の100人の三流剣闘士や死刑囚を率いて戦う」


レンはわざと驚いた顔をした。


「100人とは随分と多いですね! でもアッリシアの戦いと言えば、ローマがガリアに負けた戦争ですよね? 俺にローマ軍を倒せってことですか?」


オエノマウスが首を振った。


「すまない、そうではない。マルスの野での雪辱戦の方だ。

そのためガリア軍はローマ軍に負けるよう、寄せ集めの集団だ。

それに比べローマ軍の方は一流剣闘士とベテランの二流剣闘士40人で構成され、英雄カミッルス役を務めるのは、ポンペイの王者フェルロックスだ」


「でも試合だから勝ってもいいんですよね?」


「……勝てるならな。

一応言っておくが、これはデスマッチではない。無理せず、ある程度戦ってから降伏する方が賢明だぞ。お前のガリア軍役の100人は戦力にならないだろう。奴らは傷を負うか危険と思えばすぐに降伏する筈だ」


レンはイラっとして眉を寄せた。


「なんですかそれ!? 俺にやらせをやれってことですか!」


「そうではないが、ローマが関わった歴史再現の興行とはそんなものだ。これはローマが勝った戦だ。ローマが絶対に勝つように仕組まれている。お前が少し抵抗して降伏するだけで、民衆は喜ぶ」


「ぐぬぬ。

……だが、俺が40人を全員を倒してしまっても構わないのだろう?」


(クックック、言ってやったぜ。

このセリフも一度言ってみたかったんだよな。……あれ? これって倒せない場合のフラグだったっけ?)


「……倒しても構わん。だがローマ軍に勝てば、ローマの民衆からは相当嫌われることになるぞ」


(あ~それな)


「それって、なんとかなりませんか?」


「無理だな。適当に戦って負けるのが一番ダメージが少ない。

お前は花形剣闘士だ、価値が減るのはオーナーだって困る。だが、そのオーナーがこのような試合を組んだのだ、例の貴族からの圧力が相当強かったのだろう」


レンはため息をついた。


「はい、分かってます」



オエノマウスとの話が終わると、レンはテントを出た。

その顔には『名声がマイナスになるのは困るな』と言う思いが滲み出ていた。



ーーーーー

翌日。


レンがアリーナへ入場して、すぐに試合は始まらなかった。


入場後、興行主のグラベルがローマ市民に挨拶をしたあと、マルスの野の戦いの前哨戦となる、紀元前390年のアッリアの戦いの歴史再現が行われた。


レンが演じるガリア王のブレンヌスが、ローマ軍をアッリアの地で破り、ローマ市内に乱入した大事件だ。


ローマ市内を蹂躙したブレンヌス王は、カピトリヌスの丘に立て籠もった元老院たちを大軍で包囲した。 

そして元老院は、ガリア軍にローマから出て行ってもらう代償として金1000ポンド(約330kg)を支払うという屈辱的な条件を飲まされた。


その際、ブレンヌスレンは金を多く出させるために、天秤てんびんに不正な重りを乗せて“いかさま”をした。


これに対してローマ人が抗議すると、ブレンヌス王は自分の重い剣を秤の上に乗せ、『敗者に災いあれ!』と言ってさらに金を出すよう要求した。


元老院はそれ以上何も言えず、剣の重みの分だけ金を追加で払うと言うローマ史上最大の屈辱を与えられた。

この出来事はローマ人が『ローマが一度滅んだ日』と呼ぶほどの“民族的トラウマ”となった。


そのためアリーナの観衆はブレンヌス王役のレンに向かって憎しみを込めてヤジを浴びせる。


『ブレンヌス王なんか死んじまえぇ!』

『ガリアの野蛮人を引き裂け!』

『祖国を汚した豚に死を!!』


ローマの大闘技場アリーナを埋め尽くす数万人の観客から降り注ぐような大ブーイングがレンに飛び、ガリアの英雄と称えられたレンの名声が地に落ちる。

それをバルコニーの特等席で見ていたマニウスは、口元を緩めた。


「ふん、傑作だな」


状況はマニウスの計画した通りに動いていた。

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