58 クラウディアとマニウスの会談
紀元前76年6月。ローマ。
クラウディアは叔父マニウスの邸宅に、クラッススの書状を携えて訪れた。
マニウスは執務室でその書状を受け取り、驚きで顔を歪めた。
「……ば、ばかな。本当に芽が出たというのか?」
前回の交渉のあと、マニウスは時間の経過とともに冷静に考えるようになっていた。
その結果、シルフィウムの栽培は不可能、レンが考えたホラだと思うようになっていた。
だが今、クラウディアから渡された羊皮紙がそれを全力で否定していた。その書状には“シルフィウムの発芽成功”と、翌年からの莫大な利益配分の試算が書かれていた。クラッススの直筆の署名でだ。
「シルフィウムの利益予想が5年後には1500万~2000万デナリウスに達する!? ……それだけあれば、10万の軍を1年近く養うことが出来るぞ……!?」
クラウディアは叔父の反応に、満足そうに頷いた。
「ええ、叔父様。先日お伝えした通り、レンの指示書に従って用意した種は発芽し、瑞々しい青葉を覗かせましたわ。これは紛れもない現実です」
長椅子に優雅に身を預け、扇子を揺らすクラウディア。その琥珀色の瞳からは、自信と余裕が伺える。
「これで信じて頂けますね?
シルフィウムの利権は、ローマの富を根底から塗り替えるほどの価値があります。叔父様。かねてお話した通り、『六人同盟』を締結したいと思います」
「……六人同盟……」
マニウスは乾いた唇を舌で湿らせ、羊皮紙を睨みつけた。
(この同盟は異様だ……)
紙にはクラッスス三割、ポンペイウス二割、クラウディア二割、カエサル一割。そして、自分に一割。最後の一割は、発案者であり技術を授けた張本人──『レン』の名が、当然の権利のように刻まれていた。
今回の出来事は、全てが常識外れだ。名簿に女性のクラウディアの名が入っていること、そしてよりによって奴隷の名があること……。
だがここでレンを除けと言えば、この輪から弾かれるのは間違いなくマニウスの方だった。
「ポンペイウス閣下も加わるのだな……」
「ええ。カエサル様が説得のためにスペインまで会いに行き、了承を取り付けました。これで軍事、財政、民衆の人気──すべてがわたくしたちの掌の上です。
叔父様は前回の交渉で『芽が出た時に考える』とおっしゃいました。
この契約書にはすでにクラッスス様たちの署名が済んでおりますわ。あとは叔父様の署名を頂くだけです」
クラウディアはパチンと扇子を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
ドレスの内で豊かな双丘が小さく揺れ、執務室に甘く危険な香りが広がる。
(この絵を書いたのはあの小僧だ……。だがこの同盟に加わらねば、私は大きな機会を失う……)
「……加わらない理由はなかろう。このマニウス・アントニウス・バルバトゥス、六人同盟への参加を正式に承諾する」
震える手でペンを執り、羊皮紙の自身の名の横に署名を走らせた。
「賢明なご判断ですわ」
クラウディアは満足そうに微笑み、署名済みの羊皮紙を優雅に回収した。
その琥珀色の瞳の奥には、政治的勝利の喜びだけでなく、愛するレンの役に立っているという女の喜びが宿っていた。
「これで同盟は完了です。……では叔父様。レンを『奴隷から解放』する手続きを進めてください。同盟の一員を奴隷のままにしておくなど、可笑しな話ですから」
「……それは出来ん」
マニウスは冷酷に言い放ち、首を振った。
「二ヶ月後に行われる、ガイウス・クラウディウス・グラベル殿の興行に、ヤツを使うことがすでに決まっている」
「……またですか。それなら、その興行が終われば解放してください。レンは叔父様に莫大な利益をもたらしましたわ。もう十分ではございませんか」
クラウディアの声音から、余裕が消えていた。ここでマニウスに了承させなければ今後の予定が狂う。
しかしマニウスは再度首を振った。
「それも出来ん。お前の魂胆は分かっている。ヤツが剣闘士から解放されば、お前はシルフィウム栽培の功績により、ヤツに『ローマ市民権』を与える気なのだろう」
クラウディアが僅かに眉を寄せる。
叔父に手の内が読まれていると悟ったからだ。
「アイツがローマ市民になれば、ルクレティアがヤツと結婚出来ると無駄な期待を抱く。
クラウディア、分かっているのだろう? 剣闘士は普通の奴隷とは違うのだ。普通ならば、奴隷解放後にはローマ市民権が与えられる。だが剣闘士はその権利が剥奪された最も卑しい職業なのだ。そのため剣闘士は、解放後には軍に所属することも認められていない」
クラウディアはなおも食らいつく。
「だからです! ローマ市民権があれば、レンは軍に入れます! 軍に入れれば出世の道が開けるのです! レンは誰よりも強いですわ! どうか彼の未来を奪わないでください!」
マニウスは激昂し机を叩いた。
「黙れ! お前までも現実が見えなくなっているのか! 奴に未来などない!!」
クラウディアは不愉快そうに眉を寄せた。
「いいか、ヤツが剣闘士だったという過去は、絶対に消えないのだ!
ローマには三つの階層がある。貴族階級、騎士階級、そして平民階級だ!
貴族階級は生まれながらの名誉ある地位だ!
だがローマは懐が広い──財産さえあれば平民階級からでも騎士階級に上がれる。そして騎士階級ならば要職に就き、最高権力者の執政官にだって成れる!」
「ならば――」
「――なぜわからん!! レンが騎士階級になることは、制度上は可能でも、政治的には絶対に認められんというのが」
クラウディアが怯えるようにマニウスを見た。
「叔父様……」
「クラウディア、剣闘士だった男が騎士階級になることを元老院の年寄りが許すと思うか?」
「ですがレンにはシルフィウム栽培を成功させた功績があります!」
マニウスは再度机を叩いた。
「だからこそだ! 栽培の功績でローマ市民権をヤツに与えれば、保守派の貴族は奴の能力を危険視し、騎士階級へ上ることを全力で阻止しようとする! 元剣闘士が自分たちの上に立つなど、保守派は死んでも認めぬ!!」
マニウスの叫びが執務室に響き渡る。
かつてゴミのように扱っていた奴隷が、自分の娘の心を奪い、さらにローマの最高権力構造(元老院)の階段を上ろうとすることへの拒絶、いや常識に捉われた考えだった。
クラウディアはマニウスの正論を聞いて、悔しさで唇を噛み締め、扇子を握る手に力を込めた。
だが同時に、どんな壁があろうとも、レンを必ず引き上げるという激しい「愛」の炎が、燃え上がった。
「……わかりましたわ。叔父様が、そこまでおっしゃるなら、二ヶ月後のグラベル様の興行を見届けると致しましょう。ですが今回も叔父様が負けることになるでしょうけどね」
クラウディアは艶やかに微笑むと、立ち上がり背を向けて執務室を去っていった。
一人残されたマニウスは、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべる。
(フン……確かにレンは容易く死なないだろう。だが今回の狙いはヤツの命だけではない……)
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2カ月後。クラウディア邸。
朝、クラウディアが大鏡の前で、侍女たちに髪をとかせていると、新たに雇った執事のダミアンがやって来た。
ダミアンは隙のない立ち振る舞いと冷徹な眼光を持つ、元軍人である。その彼の手にはバティアトゥスからの書状があった。
「バティアトゥス殿から書状が届きました」
「そう、きっと今度のレンの試合のことね。読んで内容を聞かせてちょうだい」
「はい」
ダミアンは書状の封を切って目を通した。
「次回のレン殿の試合は、300年以上前にローマ軍がガリアに勝利したマルス野の戦いの再現とのことです。この試合でレン殿は、ガリア王のブレンヌスの役を務めることになったと――」
「なんですって……っ!」
※マルス野の戦いは実際になく、ローマ人が作った創作の戦争である。
紀元前390年、ローマはアッリアの戦いでブレンヌス王に敗北した。そしてブレンヌス王にローマ市内に侵入され、多額の金を差し出すことでガリア軍を撤退させた屈辱の歴史がある。マルスの野での戦いは、ブレンヌス王に負けたまま終わった歴史を認めないローマ人が作った空想の雪辱戦だった。
※ローマ側はブレンヌスを“王”と呼ぶが、ガリア側の制度には王という概念はなく、彼はあくまで一部族の長にすぎない。
クラウディアの琥珀色の瞳が、みるみる鋭さを帯び、扇子を握る指先が怒りで微かに震える。
「……やられたわ! 叔父様はレンの名声を落とす気ね。よりによってガリア人のレンにブレンヌス王の役をさせるなんて!」
「ローマ市民はブレンヌス王が嫌いです。ガリア人のレン殿と、ブレンヌス王を重ね合わせ、憎しみを持つでしょう。この試合、勝っても負けてもレン殿には厳しものになるかと……」
クラウディアは忌々しげに唇を噛み、鏡台へ扇子を叩きつける。
「今回の叔父様の狙いは、レンを殺すことじゃなかった。レンが手に入れた名声を地に落とすことだったのね……」
「おっしゃる通りです、クラウディア様」
ダミアンは表情を動かさず頷いた。
「恐らく、レン殿の部隊は武器の扱いも知らぬ罪人や処分奴隷ばかりの寄せ集めでしょう。一方、ローマ軍役の剣闘士は精鋭の筈です。特に今回大将役にはポンペイの王者フェルロックスが据えられております」
「フェルロックスまで引っ張り出してきたの!?」
「はい、そう書かれております。私の考えではフェルロックスは前回セウテスとの試合に敗れ、今回の大舞台を名誉回復の機会と意気込んでいるでしょう。国を挙げた大舞台でローマの英雄カミッルスを演じることは、彼にとって願ってもない機会の筈です」
「そうね。本気でレンを殺しにくるでしょうね……」
クラウディアはため息をついた。
レンが勝つとは信じている。だが今回試合に勝っても、レンの名声が下がることは間違いなかった。
クラウディアは暗闇にようやく差し掛かった月明りが消え、未来が真っ暗になってゆくような不安を覚えた。




