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53 ヴォルカスとの契約

レンの唇に柔らかく、温かいものが触れる。仄かに甘い果実の香りが鼻腔をくすぐった。


「……ん……」


「……おはよう、わたくしの英雄レン


差し込んできた柔らかな朝日の眩しさに、レンはゆっくりと意識を浮上させ目を開ける。


上質なベッドで深く眠ったおかげで、身体は驚くほど軽い。


隣を見ると、

朝日に照らされて輝く栗色の髪、そして愛おしそうにこちらを見つめるディアナの顔があった。


彼女の頬はほんのりと赤く染まり、その唇は満足感に満ちた、穏やかな笑みを浮かべている。


「わたくし、生まれて初めてこんなに温かくて幸せな朝を迎えたわ。レン、ありがとう」


ディアナはレンの胸にそっと頬を預け、腕の力を強めた。


レンの『感情伝播』に屈しなかった強い想いは、結果として貴族社会で不幸な夫婦生活を過ごす彼女の凍てついた心を溶かし、安らぎを与えることになった。


(……意外といい人だったな)


レンは腕の中のディアナの頭を優しく撫でた。


「ディアナ様、残念ですが、俺はもう行かなければなりません」


「ええ、分かっているわ。

今日の試合、絶対に勝ってね。応援しているわ」


ディアナはベッドから起き上がると、

いつもの気高き貴族の令嬢の表情に戻り、力強く頷いた。


「レン生きて帰って来て、約束よ」


「はい、必ず。では行ってきます」


(あ、違った。行ってきますじゃなかった……)


ディアナに見送られ、特設テントを後にしたレンの心には、ファビアの時とは違う後ろめたさが沸き起こった。


(なんかイオと会いたくないな。浮気して朝帰りした男ってこんな気分なのかな?

いやいや、これは違う! 立派な仕事だし、イオはハーレムOKって言ってたんだから浮気じゃない!)


レンは必死で自分に言い訳をしながら、イオの待つテントへと帰った。


「い、イオ。今帰ったよ」

「……旦那さま」


元気のないイオの姿に、レンは慌てて駆け寄った。


「ど、ど、どうしたのかな?」


イオは暗い顔のまま、両手で小瓶を差し出した。


「先ほど……ダリウスお兄様が、クラウディア様の命だと……強壮薬を届けに来ました……」


その瞬間、レンはイオの表情の意味を理解した。


前回の試合後──

クラウディアとシルフィウムの話をしたあとに、レンは別れ際に強壮薬の礼を言った。

その時クラウディアは「そんなものは届けていないわ」と首を振った。


レンはドロミコスが犯人だと思っていたが、クラウディアの使いの者が犯人の可能性もあるなと考えた。


そこでレンはクラウディアに、何者かに毒を盛られたことを伝えた。その結果、この件はしばらく様子を見ることにしていたのだ。


その話をした時、イオも傍にいたため、薬を届けた幼馴染のダリウスが疑われていることは知っていた。


だからこそ──

今、手の中の小瓶が恐ろしくて仕方がなかった。


レンは小瓶を受け取り★毒検知 Lv.50を発動した。


(……危険な毒は含まれていないな。やっぱりドロミコスが朝食に毒を混ぜたのか? もしそうならクラウディア様に余計なことを言ってしまったな……)


「……あの、旦那様……」


「これには毒は含まれてなさそう。一応、犬にでも与えて様子を見て」


イオはぱっと目を輝かせた。

「ではダリウスお兄様は、旦那様に毒を盛った犯人ではないのですね!」


レンは首を振った。


「いや、それは分からない。クラウディア様の命だと偽っているんだから、今回は毒を入れなかっただけかもしれないし……」


イオはしゅんと肩を落とした。

「……そうですね……」


今回ダリウスが犯人と言う可能性は低くなったが、未だ容疑者であることに変わりはなかった。



ーーーーー

昼過ぎ。

レンたちは試合に出場するため、ローマ郊外の剣闘士テントから、市内にある大闘技場の裏手の広場に移動した。


そこには既にベスス教官が腕を組んで待ち構えていた。


「ベスス教官、ただいま到着しました」


レンが声をかけると、ベススはギラリとした目を向け、不敵な笑みを浮かべた。


「おう、レン。待っていたぞ。今日の目玉試合、最高の試合を期待しているぞ。……ほら、お前の仲間も、すでに奥の控室テントに入っている。早く行ってやれ」


(それ、仲間じゃないからね? 敵だよ? この人知ってて言ってんのかな?)


ベススに顎で促され、レンは控えテントの幕をくぐった。


「──ちっ。やっと来やがったか、この死に神野郎が!」


金髪の若いガリア人ヴェルコが木椅子に座り、げっそりした顔でレンを睨みつけた。


いきなり文句を言われたレンは眉を寄せ、睨み返した。


(はあ、何コイツ!?)


「悪いなコイツ、気が立っているんだ」


ヴェルコの隣の椅子に座る、黒髪で長身のヴォルカスが謝罪した。


だがヴェルコは椅子から立ち上がり、血走った目でレンに近づくと、胸ぐらを強引に掴み、激しい怒りを爆発させた。


「お前のせいだ! 全部、お前が悪いんだ! 貴族に狙われてるから、俺たちまで巻き込まれたじゃねえか!!」


「ヴェルコ、落ち着け──」


「これが落ち着いてられるか!! デスマッチで、敵は20人だぞ! お前もミズーリ教官に聞いただろ。今回の死刑囚20人は軍人上がりの精鋭集団だって! 運が悪かったな、諦めろって言われたんだぞ!!」


(ふ~ん、コイツらも敵が軍人って、知ってるんだ……。ベススはそんなこと教えくれなかった。アイツも俺の敵だな)


ヴェルコはレンの胸ぐらを掴んだ手をさらに強く締め上げ、怒声をテントに響かせた。


「今回はデスマッチだぞ!? 前回みたいに、やばくなったら『降伏』して逃げるなんて許されねえんだ! 死ぬならこいつ一人で十分だろ!」


奥に座っていたヴォルカスも、静かに、だが絶望に染まった声を絞り出した。


「……すまないレン。こいつも俺も、もうすぐ金が貯まって、自由になる筈だったんだ。だから諦め切れてない……わかってやってくれ」


(天国から地獄か……。まあ、気持ちは分かるけど、それを言うなら狙われてる俺が一番可哀想だよな?)


「分かった。だが、いい加減に手を離さないとぶん殴るぞ」


「おう! やれるものならやってみろ!」


「そうか……、お前は既に死んでいる」


(ウ~ン、このセリフ言ってみたかったけど何か違うな。場面的に無理があったか?)


「はあ? そうだよ、もう死んだも同然だよ。だが先に死ぬのはテメェだ!」


ヴォルカスは左でレンの首を締め上げたまま、右肘を引いて顔を殴ろう構えた。


(スキル『筋力強化』発動!)


レンは素早く、力づくでヴェルコの左手を払い除け、そのままカンフーで強化された拳を、下顎に叩き込んだ。


「ホワチャーッ!!」


小気味良い肉撃音と共に、カンフーLv.30の強烈なアッパーカットがヴェルコの顎を完璧に捉えた。


「ぶふぇっ!?」


ヴェルコの身体が文字通り宙を舞い、そのまま後方に転がる。


ヴォルカスが口を開けて一瞬、茫然とした。だが次の瞬間には立ち上がり、ヴェルコを抱き起しに走った。


「おいヴェルコ! 大丈夫か! しっかりしろ! 生きてるか!?」


呼びかけられたヴェルコは、完全に白目を剥いて「あう……」と小さく呻いたきり、ピクリとも動かなくなった。


(……死んでないよな? けっこう手加減したつもりだけど?)


ヴェルコはカンフーで強化されたマッハの拳により脳を揺らし、一撃で気絶してしまったのだ。


「……っ! おいレン、お前なんてことをするんだ!!」


ヴォルカスは気絶したヴェルコを抱えたまま、血の気が引いた顔でレンを怒鳴りつけた。


「デスマッチ直前だぞ!? これから三人で二十人の元軍人を相手にしなきゃいけないって時に、仲間を戦闘不能にしてどうするんだよ!!」


「いや、俺は仲間だなんて思ってないし、そもそもお前らが死ぬのを待ってから戦うつもりだからな」


「はあ!? お前なに言ってんだ? 今回は協力しないと絶対に生き残れない戦いだろうが!!」


「お前らはそうだけど、俺は軍人が20人いても、一人で勝てるから問題ないんだよ。お前らがいると試合後の報酬が減るだろ。だからお前らが死んでから戦うんだよ。理解したか?」


「はぁ……!?」


ヴォルカスは言葉を失い、喉を鳴らした。


目の前にいる冷酷な黒色の瞳をした男は、協力して二十人を倒そうなどとはまったく思っていなかった。

それどころか自身の勝利を確信し、ヴォルカスたちが生き残って『試合の報酬』が減ることの方を気にしていたのだ。


前回の試合で自分たちが裏切った不義理があるとはいえ、あまりに冷酷で、圧倒的な「強者の威圧感」に、ヴォルカスの全身に鳥肌が立った。


(こいつ……本気だ。本気で俺たちが邪魔だと思ってやがる……)


「待ってくれ! なら報酬は全部譲る! だから俺達を助けてくれないか! 頼むお願いだ!」


ヴォルカスは気絶したヴェルコを抱えたまま、なりふり構わずレンに向かって頭を下げた。プライドも何もかも投げ捨てた、本気の懇願だった。


(待て待て待て! そんなに頼まれて断ったら、俺が悪者みたいになるじゃないか。殴ったのだって、そいつが俺の胸倉を掴んだからだし、偽善ぶって正義の道を歩む気も無いけど、大学の時に気に食わないからと言う理由だけで、人を虐めてたサッカー部の知豊先輩みたいになる気も無いんだよな……)


「仕方ない。じゃあ契約書を書け、俺に報酬を全額譲るって……」


「分かった! ……あ、いや、紙とペンがない! ちょっと待ってくれ、今すぐ借りてくるから!!」


ヴォルカスはテントを出た。そして、しばらくしてから息を激しく切らしながら、インク瓶と羊皮紙を両手に抱えて戻ってきた。


「はぁ、はぁ……! 持ってきたぞ! これにレンに譲るって書けばいいんだな!?」


レンはふと考えた。

(待てよ、奴隷同士の直接契約はローマじゃ無効だったな。だったら……パトロンであるクラウディア様の名義にすれば確実に回収できるな)


「俺の名じゃなく、クラウディア・アントニウス・バルバトゥス様に譲ると書いてくれ。もしお前達が払わなかったら役所に訴えれるようにな」


「く、クラウディア・アントニウス・バルバトゥス様だな! 分かった、すぐ書く!」


ヴォルカスは床に羊皮紙を広げると、震える手で羽ペンを握り、正式なフルネームと報酬の全額譲渡を必死に書き殴った。

さらに、自らの指を剣先で傷つけて血判を押し、気絶しているヴェルコの指からも強引に血を取って並んで押しつけ、レンに差し出した。


レンは名前と血判が記された羊皮紙を検分し、ふと思った。


(特別報酬は多分、俺しか貰えない。基本報酬は3000くらいらしいから、大した額じゃない。そんな端金のために俺は何をやってんだろ……)

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