表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

51/55

51 クラウディアとマニウス

紀元前76年2月

ローマ──マニウスの邸宅。


冷たい雨が石畳を濡らす二月。

クラウディアは、叔父マニウスの執務室を訪れていた。

暖炉では薪がパチパチと爆ぜ、上質な葡萄酒の香りが漂っている。だが、二人の間に流れる空気は、肉親の温もりとは程遠いほど張り詰めていた。


「信じられん……あのシルフィウムの栽培方法が分かったというのか?」


「はい」


クラウディアは、赤毛の髪を揺らし気品に満ちた笑みを返した。


「叔父様、すでに計画は動いております。あとは実際に芽が出るのを待ち、ポンペイウス様が加われば、この計画の成功は間違いありませんわ」


マニウスは鋭い青い瞳を姪に向け、険しい顔をした。


「確かにクラッススが商人たちに生産から販売までを指示し、我々がそれを保護するというのは話としては面白い。だが問題はシルフィウムの種が、これまで世界中の高名な学者や富豪が挑んでも、誰一人として発芽させられなかったことだ……」


マニウスは目を細めジッとクラウディアの目を見た。


「クラウディア、本当に芽は出るのか? このように大ごとにして、もし失敗すれば、お前は莫大な違約金を払わなければならん。そなたが小僧で儲けた100万デナリウスは全て失うぞ」


クラウディアは扇で口元を隠し艶やかに笑う。


「そのレンがシルフィウムの栽培方法を教えてくれましたのよ」

「何だと!? あやつが栽培方法を知っている訳がないではないか! あやつはただの奴隷だぞ!」


クラウディアは首を振る。

「ただの奴隷なら既に叔父様の手によりこの世にはおりませんわ。

それにこの連合を計画し、その輪に叔父様を加えようと言ったのもレンです。叔父様はレンの実力を見誤っております」

「……」


マニウスの眉が跳ね上がり、額にピキリと青筋が浮かんだ。自分の娘を唆し、何度も自分の罠を乗り越え、その都度名声を高める憎き奴隷。


(あやつ、あろうことかローマを揺るがす巨大な利権を操り、その手のひらの上でこの私を転がそうというのか……)


「叔父様。この計画が成功すれば、レンを許してあげてください」

「……っ」


沈黙が執務室を支配する中、マニウスはゆっくりと背もたれに体を預け、冷酷な笑みをその唇に刻んだ。


「ふっ……。実際に芽が出てからでないと、話にならんな」


マニウスは葡萄酒の杯を煽り、冷たく言い放った。


「それにだ――既に賽は投げられている」


クラウディアは目を細めた。


「叔父様、それはどういう意味でしょうか?」


マニウスは口角を上げ、満足げに葡萄酒の杯を一口味わう。


「元老院で三本の指に入る重鎮クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス閣下が、先日行われたフィリップス閣下の大興行の歴史的成功を目の当たりにされ、自身も四月に大興行を催すと決められた。

本来ならば、その月にはキケロが興行を予定していたが、カトゥルス閣下はその“開催権”を買い取ってまで準備を進めておられるのだ。その試合にレンの出場が決まっている、今さら変更は出来まい」


クラウディアは即座に叔父の意図を察し、美しくも鋭い琥珀色の瞳を細めた。


「カトゥルス様が興行権を買い取ってまで……。叔父様、その興行にレンを出すよう仕向けたのですね。一体どのような試合を計画しているのか、お聞かせ願えます?」


マニウスは喉の奥でクククと笑い、葡萄酒の杯を指先で弄んだ。


「バティアトゥスが、カトゥルス殿に提案したレンの試合内容は、最終日の目玉試合――集団デスマッチだ」


マニウスは邪悪な笑みを浮かべ続ける。


「レン側は3人、先日5人の剣闘士を倒した時と同じ仲間2人を率いて戦う。そして敵は死刑囚20人だ。剣闘士5人を倒したメンバーなら楽勝で勝てる『ボーナスマッチ』であろう?」


クラウディアの表情が険しく引き締まる。

確かに一般的には剣闘士5人の方が死刑囚20人よりも強い。だが『賽は投げられた』と言ったマニウスが、レンが簡単に勝てる試合を組むはずがないと瞬時に見抜いた。


「なにかあるのですね?」


マニウスは肩をすくめ、わざとらしいほど白々しく両手を広げてみせた。


「何があるというのだ? 数の暴力こそあれ、死刑囚などまともな訓練も受けていない烏合の衆だ。最高峰の剣闘士たちがその数の暴力を蹂躙する、ローマ市民に圧倒的な『虐殺の快感』を与えるための、極めて簡単な見せ物だ。そうだろ?」


「叔父上、ご冗談はおやめください……」


クラウディアは一歩も引かず、その琥珀色の瞳で叔父を真っ直ぐに見据えた。


「その死刑囚……傭兵と軍人あがりなのですね……」


部屋の空気が一瞬で凍りつく。マニウスは弄んでいた杯の動きを止め、口角を吊り上げて満足げに息を吐いた。


「ふっ、そこまで見抜いているなら話は早い。数の暴力にヤツが耐えられるか見せて貰おう」


マニウスは立ち上がり、窓の外の冷たい雨を見つめながら、愉悦を隠しきれない声で続けた。


「閣下は元兵士の精鋭どもを集めている。あの小僧も、鉄の規律を持った20人もの軍勢に囲まれればただの肉塊になるだろうな……」


「そんな……」


マニウスは振り返り、姪に向けて冷酷極まりない視線を投げかけた。


「栽培法はもう分かっているのだろう。ならばレンは必要あるまい?

その連合とやらも春に本当に芽が出たなら、その時に改めて参加させて貰おう」


「……叔父上は何も分かっておりません」


クラウディアは深く息を吸い込み、動揺を打ち消すように毅然と前を見据えた。


「レンにはシルフィウム以上の価値があります。それに叔父上が20人の軍を用意しようとも、レンならきっと生き残ります」


マニウスは深く眉を寄せた。

その琥珀色の瞳の奥にある揺るぎない確信を不気味に思い、値踏みするように彼女を見つめる。


「なぜそこまで奴を信じる。いや、お前はまだ、自分で気が付いていないのか?」


「なんのことでしょう?」


「お前はレンに心を寄せている。お前の行動は男に惚れ、現実が見えなくなった女の行動そのものだ。レンが死ぬことも失敗することも何一つ考えておらぬ」


「……わたくしが……っ」


クラウディアの思考が一瞬、真っ白に染まった。


(わたくしがレンに……)


扇を握る指先がかすかに震える。

レンへの感情は、ただの「面白いおもちゃ」の筈だった。

だが、叔父の言葉は容赦なく彼女の心の奥底を暴き立てる。


クラウディアは、自分がレンに向けている感情が異常だと薄々気付いていた。

だが叔父の言葉で、気づかぬうちに、少しずつ心を奪われていたのだと、はっきり自覚した。


「……いいえ叔父上。わたくしは利益と現実に対して盲目になっているだけですわ。四月の競技場でどちらが肉塊になるか、今から楽しみにしております」


叔父に向けて、クラウディアは静かに一礼し、執務室を出る。冷たい石造りの長い廊下を歩きながら、彼女の心臓は激しく警鐘を鳴らしていた。


(死刑囚の皮を被った、20人の軍人……。想像以上に最悪の罠だわ。急いでレンにこの事実を伝えて、対策を練らせなくては……。レン……)


赤毛の髪を揺らしながら歩く彼女の胸には、最悪の罠への恐怖と、レンへの感情が、複雑に火花を散らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ