50 『パキパサ・オトゥス』
ローマの興行から1週間後。
レンはカプアの養成所へ帰還し、馬車から降り立ったその足で、まっすぐセルギウスたちのいる大牢へと向かった。
囚人の檻のような男臭い汗の匂い、薄暗い藁のベッド──かつては地獄だと思ったその場所も、今は少しだけ懐かしい。
木格子の奥から、聞き慣れた声が響いた。
「レン! 無事に戻ったんだな!」
タルトが広間の奥から声を上げ、勢いよく駆け寄ってきた。
その後ろから、リクトスも小走りにやってくる。
二人の騒ぎを聞き、セルギウスも牢から出てきた。
「レンが帰って来て嬉しいよ!」
「よく生きて戻ったな、レン」
タルトが興味深々で聞く。
「お前、今度の試合もまた厳しい内容だったんだろ? どんな試合をさせられたんだよ?」
レンは頭を掻きながら、少し照れた。
「ああ、うん、5対3の集団戦でさ。敵は5人なのに味方もすぐに降参しちゃって、結局、俺が5人を倒したよ」
事も無げに言うレンに三人は驚愕した。
「ご、5人をたった1人で……!?」
タルトの目が完全に点になり、口が開きっぱなしになる。
「さ、さすが一流剣闘士は違うな……」
リクトスは驚きのあまり、一歩後ろに引いてレンの体を頭からつま先まで凝視した。いつも冷静なセルギウスさえも、驚きでレンを見つめている。
「……5人を相手に、味方は実質ゼロか。お前は本当に凄い奴だ」
「みんな、驚くのはまだ早いぞ。実は、みんなに重大発表があるんだ」
三人がごくりと息を呑み、レンの言葉を待つ。
「俺、今回の試合で報酬として1万デナリウスを貰ったんだけど、それでオーナーのバティアトゥス様にみんなの自由を買い取りたいって、直談判をしたんだ」
「え……レンじゃなくて俺たちの!?」
タルトの動きがピタリと止まる。リクトスは目を見開いたまま、瞬きすら忘れたようだった。
「俺を自由にするのはダメって言われたから、代わりにみんなを自由にしてくれって頼んだ。リクトスとタルト、それにセルギウス先輩。合計五千デナリウスで、解放の約束をしてもらったから、書類が処理され次第、みんなはもう奴隷じゃなくなる。これからは自由の身だ」
「じ、自由……? 俺たちが……?」
タルトが自分の手のひらを何度も裏返して見つめ、信じられないというように呟く。次の瞬間、リクトスが「うわああああん!」と大声を上げて泣き崩れ、レンの腕にしがみついた。
「レン、ありがとう……! 本当に、本当にありがとう……っ!」
タルトも涙目になりながら、リクトスの肩を叩いて笑っている。そんなお祭り騒ぎの中、セルギウスだけは驚きに目を見張りつつも、すぐに深く、静かな溜息をついた。
「……レン。二流の俺の相場は安くないはずだ。すまないな、どう恩を返せばいいのか分からん……」
セルギウスは近くの石柱に軽く背を預け、腕を組んだ。その表情はどこか気恥ずそうで、しかし瞳の奥にはレンへの深い敬意と、言葉にできないほどの感謝が静かに灯っていた。
「それで、ここからが本題なんだけどさ」
レンは二人の涙が少し落ち着いたのを見計らって、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「みんな、解放された後、何か予定はある? もし無いなら、俺と一緒に商売を始めてみないか?」
「商売?」
タルトが涙を拭いながら首を傾げる。
「俺たち、剣を振ることくらいしかできないぞ? 商売の元手だってないし……」
「元手は俺が用意するし、売る商品も既に考えてある。俺は外に出れないから、みんなには、『実行部隊』になってほしいんだ」
レンは話術スキルを発動し、大人の自信をのぞかせて語りかける。
「俺のパトロンのクラウディア様のことは、みんなも知ってるだろ。実はもう、クラウディア様には『俺の仲間が解放されたら、保護して欲しい』って頼んであって、了解も貰ってる。クラウディア様が後ろ盾にいるから、俺たちの商売は、誰にも邪魔されない筈だ」
セルギウスが鋭い目を光らせた。
「なるほど……。ただ自由の身になって放り出されるより、強力な貴族の庇護の元で仕事がある方が、俺たちにとっても圧倒的に安全だな。地獄の沙汰も金次第と言う。分かった、レン。俺のこの命、これからはお前のビジネスのために使わせてもらおう」
「俺も! レンについていくよ!」
タルトが力強く頷く。しかし、リクトスだけが、嬉しそうな表情の裏で、少しだけ申し訳なさそうに俯いていた。
「あの……レン」
「どうした?」
リクトスはおずおずと口を開いた。
「俺……自由になれたら、一度だけ、故郷の家族に会いに行ってもいいかな? 剣闘士として売られてから、ずっと安否も分からなくて……。死ぬ前に一目だけでも、みんなの顔が見たいんだ」
レンは優しく微笑み、リクトスの肩をポンと叩いた。
「当たり前だろ。むしろ、真っ先に会いに行ってやれよ。家族は何より大切だからな」
リクトスの顔が、パッと光が差し込んだように明るくなった。
「ありがとう、レン……っ! 一ヶ月、ううん、三週間で絶対にカプアに戻ってくる! 家族に『俺は自由になったんだ、これからは凄い英雄と一緒に大きな商売を始めるんだ』って報告して、すぐに戻ってくるから!」
「慌てなくても、数か月後でもいいよ。俺の計画してる商売が本格的に動き出すのは5月からなんだ」
「5月?」
リクトスが涙を拭きながら首を傾げる。
タルトもセルギウスも、レンの言葉に興味を深めていた。
レンは少し声を潜め、三人を手招きした。
「うん。……パキポサっていう蛾は知ってる?」
「パキポサ?」
タルトが眉をひそめる。
「聞いたことないな……」
セルギウスは腕を組んだまま、少し思い出すように目を細めた。
「俺は商人から聞いたことがある。ギリシャのコス島で取れる、絹になる繭を作る虫だ。だが絹になる量が少ない上、質は東の絹に遠く及ばない……」
リクトスが不安そうな顔をする。
「なら使い道が無いってこと?」
「いや、薄くて身体に張り付くから、娼婦や踊り子が好んで着ると聞いた。……まあ、“そういう用途しかない”ってことなんだが……」
リクトスは首をかしげた。
「じゃあ、あまりお金にならないってこと?」
「そう聞いている……」
レンはニヤリと笑った。
「いや、俺は品種改良すれば、数年で絹が十分取れるようになると踏んでいる。それに東の絹にすぐに質で及ばなくても10年後には、運がよければ同程度の絹が作れるかもしれないし、20年したら──東の絹を超えてるかもね」
レンには勝算があった。
蚕の歴史は長いが、この時代は体系的な品種改良がされていない。
そのため、この時代の蚕の質は、未来の蚕とは比べ物にならないほど低い。
だからこそ、パキポサの選抜を重ねれば蚕を追い抜く可能性があるとレンは踏んでいたのだ。
三人は一斉に息を呑んだ。
「品種改良? なにそれ? パキポサの絹で、東の国の絹よりいい絹が作れるの!?」
この時代、中国の絹は金と同じ価値を持っていた。質が高く、希少かためローマの貴族たちが競って買い求める。そのため、ただでさえ足りていない銀が、東方のパルティアやインドへと吸い取られ、莫大な量の銀がローマから出て行っていた。絹はローマにとって、大きな経済的弱点――アキレス腱だったのだ。
「そう。パキポサ蛾は、ローマでも手に入る“野生の絹”なんだ。
5月になればコス島の森で繭が大量に採れる。
そこで──俺たちがやるのは、まずはこの繭の選別だ」
レンは指を一本立てた。
「大きい繭だけを選んで、羽化させて、さらに飛ばない個体だけを繁殖に使う。これを繰り返せば、数世代で“飛ばない家畜化された蛾”の出来上がりって寸法さ」
3人がレンの言葉に呆然と立ち尽くす。
「飛ばない蛾……」
「その通り。これを品種改良って言うんだ。これですぐに繭も大きくなって、糸も長くなる。つまり質が向上するんだ。品種改良は楽して取れる『絹の量』が増える上に『品質』も上がる方法なんだ」
セルギウスが息を呑んだ。
「……レン。それは、ローマの商売どころか、国家の利権をひっくり返すぞ」
「だからクラウディア様の後ろ盾が必要なんだよ。あっ、パキポサの話はまだクラウディア様にも言ってないから、俺達だけの内緒でお願いね」
レンが笑いながら、人差し指を口につけて言った。
タルトは震える声で言う。
「レン……お前、本当にとんでもないことを考えるな……」
リクトスは涙の跡を残したまま、笑った。
「すごいよ……レン。僕、絶対戻ってくる。
こんな凄い商売聞いたことない、絶対にやりたい……!」
レンは三人を見渡し、静かに頷いた。
「そのために5月になったら、クラウディア様から金を借りてでも追加の軍資金を渡すから、コス島に行って欲しい。
そこでパキポサ蛾の繭を集めて──ローマ初の絹産業を始めるんだ。
みんなの自由は、ただの自由じゃない。俺に協力してくれれば豊かな自由にしてみせる!」
「「……レン」」
大牢の中に、三人の胸を震わせるような静かな熱気が満ちていった。
パキポサ――正式な学名は『パキパサ・オトゥス』。
この日、この世界で東方の『蚕』と並び立つことになる『パキパサ・オトゥス』の家畜化が始まろうとしていた。




