49 クラウディアの交渉(クラッスス)
紀元前76年1月
冬の凍てつく午後。
外の冷たい寒風とは対照的に、大富豪クラッススの大きな執務室は、暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てて燃え、部屋全体を温もりで満たしていた。
クラッススは卓上に用意させた温かい最高級の蜂蜜入りの葡萄酒を優雅に傾けながら、対面に座る赤毛の若き未亡人を見据えた。
「この私に面会とはな。賭けで百万デナリウスを稼いだと評判の小娘が、この私に一体どんな“巨額の利益”をもたらしてくれるというのだ?」
クラッススは含み笑いを浮かべ、まずは軽く牽制の一手を放った。
相手は二十二歳の若き未亡人。
どれほど社交界で名を馳せていようとも、ローマ経済を牛耳る自分から見れば、まだ尻の青い小娘にすぎないという余裕の表れだった。
しかしクラウディアは、上品に扇で口元を隠したまま、その琥珀色の瞳を妖しく細め、クスクスと低く笑った。
「ふふ。クラッスス様、そんなに警戒なさらないでください。わたくしが持ってきたのは──クラッスス様にしか頼めない、“一国を買い取れるほどの巨大な利権”なのですから」
もったいぶることなく、クラウディアはトガの奥から小さな革袋を取り出し、大理石の卓上へ静かに滑らせた。
「これは……何の種だ?」
「シルフィウムの種です」
クラッススが怪訝そうに眉をひそめる。
金貨と同重量で取引され、元老院の国庫にも保管される貴重な植物。
ローマ中のいかなる大富豪や学者が挑んでも、人工栽培は一度も成功していない。
クラウディアは身を乗り出し、確信に満ちた声音で言い放った。
「この種を発芽させる方法が分かりましたの。ローマの誰も届かなかった“神の領域の栽培方法”を、わたくしは手に入れました」
「なんだと……!?」
クラッススの手の中で、葡萄酒の杯がぴたりと止まった。
奴隷の妄言なら即座に切り捨てるはずの荒唐無稽な話。
だが、一晩で百万デナリウスを得たクラウディアが、あまりにも堂々と、そして傲慢なほど不敵な笑みで語る姿に──
卓越した実業家としての本能が、あり得ないと切り捨てるのは『危険』だと告げていた。
クラウディアは続けた。
「この種はまだ発芽の準備が出来ていません。ですが4月末までには、発芽可能な状態にした種をお渡しいたしますわ」
「4月末……。まだ三ヶ月以上も先ではないか。ずいぶんと焦らすのだな」
「ふふ、仕方のないことですわ。これまでローマの学者たちが栽培に挑んでも発芽しなかったのには、ちゃんと理由がありましてよ。少しばかり時間が掛かりますの」
「ふむ、時間がかかるか。それがシルフィウムの栽培が成功しなかった理由なのか……?」
「はい、それも要因の一つです」
クラッススは身を乗り出した。
「それで、君は私になにを望むのだ」
「わたくしはクラッスス様に発芽する種を提供します。クラッスス様は農地の確保、栽培から販売までを──その強大な商業ネットワークで他の貴族に介入させず独占販売を実現して頂きたいのです」
クラッススは短く息を吐き、杯を置いた。
「なるほどシルフィウム事業の“実行役”として私を選んだのか……。それで私と君の実入りの配分はどうするつもりだ?」
クラッススは、試すような視線をクラウディアへ向けた。
「利益の配分はわたくしが三割、クラッスス様が三割。そして残りの四割は──種の開発者に一割、ポンペイウス様に一割、カエサル様に一割、最後にマニウス叔父様に一割を配分するつもりです」
「何……?」
レンが描いた政治ポートフォリオがクラウディアの口から紡がれた瞬間、利益の全てを二人で山分けするつもりだったクラッススは、即座にその意味を理解し、目を光らせた。
自分を実行役に据えつつ、軍事の英雄ポンペイウスと民衆派の若手カエサルを加えて天秤を取る。
(この小娘やるではないか……。商業資本を私で、政治と武力の両翼をポンペイウスとカエサルで固めるというのか。なんという政治センスだ、女にしておくのが勿体無い……)
クラッススの背筋に、未だかつてない甘美な戦慄が駆け巡った。
レンの仕掛けた戦略は、クラッススの深読みによって“ローマの権力を裏から支配する巨大政治プロット”へと昇華されていく。
クラウディアは、クラッススが自分の計画に呑み込まれたのを見届けると、最後の楔を打ち込んだ。
「そしてクラッスス様、これが最後の条件です。誰かが発芽方法を見つけても、この“利益配分”は双方が納得しなければ変わらない契約を結んでください。勿論、発芽方法を知った者と手を結ぶなどは論外です、市場は我々が支配しなくてはなりません。如何でしょう。わたくしの計画に、乗ってくださいますか?」
クラッススは激しく上下する胸を抑え、葡萄酒の杯を卓上へ置くと、対等なビジネスパートナーとして完全に魅了された眼差しで不敵に笑った。
「いいだろう乗ってやろう。約束通り『発芽する種』を持ってくるがいい。その種はどれほどの量を用意するつもりだ?」
「初めてのことですので、まずは2千粒ほど用意し、様子をみようかと思います。そして発芽が確認されれば……我々で密かに種を買い占めます」
「そうだな、まずは2千粒でお試しの栽培がよいだろう。本当に芽が出れば、一国を買い取れる『神の利権』になる。喜んで三割の席に座らせてもらおうではないか。来年以降の、ローマ全土を巻き込む大農園と流通の準備は私が整えてやる」
クラッススは豪快な笑みを浮かべてクラウディアと力強く握手を交わすと、卓上に広げられた彼女の用意した契約書へと、一切の迷いなく自身のサインを記した。
「実はもう一つお願いがあるのですが……」
「うむ、なんだ?」
クラウディアはそっと席を立つと、クラッススに近づき耳元で告げる。
「……ふむ。そこまで私を信用してもよいのか?」
「クラッスス様は契約を守る方と信じております。それにレンの知恵はシルフィウム栽培だけでは終わりませぬ。裏切った場合に、後悔されるのはクラッスス様の方です」
「ハッハッハ、大した自信だ。良かろう。そなたの頼みを引き受けてやろう」
クラウディアは頭を下げる。
「ありがとうございます」
ーーーーーー
翌日、クラウディア邸。
ユリウス・カエサルは目を大きく開けた。
「驚いた。……君は、そんな途方もない事を考えていたのかっ!」
二ヶ月ぶりにクラウディアから「家に来てちょうだい」と甘い誘いを受け、「僕の魅力にまた溺れたのかな」と上機嫌でやってきたカエサルだったが──その背筋に、冬の風よりも冷たいものを感じていた。
カエサルは、余裕に満ちたプレイボーイの顔を完全に喪失し、手にした革袋の中のシルフィウムの種を凝視したまま、掠れた声を絞り出した。
「……冗談ではないのだな?」
「いやね、わたくしが貴方にこんな冗談を言ったことがある?」
「何事にも初めてはあるからね」
「いいこと、わたくしが用意するシルフィウムの種は、土へ植えれば、確実に芽吹くわ。ローマの誰も知らなかった栽培方法を、わたくしは手に入れたの。……そして昨日は、あのクラッススとも正式に契約書を交わしてきたわ」
クラウディアは扇で上品に口元を隠したまま、その琥珀色の瞳を妖しく細め、クスクスと低く笑った。
「そこでカエサル。あなたには利権の“一割”を差し上げます。その代わり──あなたの持つ民衆派の派閥を総動員して、この事業を政治的な攻撃から守って欲しいの」
「クラッススが三割、そして僕に一割か……」
カエサルの身体が完全に硬直した。
まだ二十四歳で、大した実績もない自分を、シルフィウムの独占利権に加えるという。
それも──あの冷徹なクラッススを既に丸め込んだ上での申し出だ。
(クラッススの商業ネットワークで市場を独占して、金を生み出す。そして政治的脅威からはポンペイウスの政治力、マニウスの貴族層の支持、そして僕の民衆派の支持を利用して守る。まさか僕を選んだのは、元恋人への情けじゃないだろうな? まあ、どちらにせよ断る理由はない)
「ハッハッハ! 降参だ。こんなに凶悪で魅力的なビジネスを仕掛けられて、断れる男がいるものか。いいだろう、クラウディア。君の事業に、一割で協力しよう。民衆派にはこの事業には手出しはさせない。残るはポンペイウスだが、君では説得は役不足だろう。僕が説得をしよう」
「いいわ。あなたに任せましょう」
「だが条件がある。分かっていると思うが、ポンペイウスの力は強大だ。1割では彼は動かない。特に君が3割というのがまずい。君が2割、ポンペイウスも2割なら応じるだろう。もっとも始めは1割で交渉してみるけどね」
「……分かったわ。私の1割を譲りましょう」
クラウディアは上品に扇の影で琥珀色の瞳を冷徹に細めながらも、一切の迷いなくそう言い切った。
(ふふ、さすがはカエサルね。男たちの強欲と権力のパワーバランスを、僅かな時間で完璧に読み切っているわ)
ローマ第一の軍功を誇る大英雄ポンペイウスが、発起人とはいえ、まだ若い未亡人にすぎないクラウディアの「三割」という最大配分を素直に認め、自分はたった「一割」で甘んじるはずがない。
カエサルの言う通り──必ず彼女の取り分を削ってでも「二割」の席を要求してくるのは火を見るより明らかだった。
「では、ポンペイウス様の説得は、あなたに任せるわ。彼を必ず味方に引き込んでちょうだい。……ただし、発芽する種の作り方が分かっても、利益配分は変わらないよう契約してね。それだけは絶対に譲ってはダメ、分かっているでしょ?」
「ああ、分かっているさ。それがこの巨大利権の、一番重要な部分だからね。だけど、ポンペイウスとの交渉は実際に芽が出てからの方がいいだろう。彼まで巻き込むんで芽が出なかったら君の身が危ないからね」
カエサルは不敵に笑い、自分の取り分である一割、そしてポンペイウスの二割という完璧な「政治の盾」を完成させるべく、その天才的な頭脳をさらに巡らせていた。




