48 『アンドリューの裏切』と『クラッスス』
クラウディアの執事アンドリューは、銀の盆にシルフィウムの種が入った小さな革袋を載せて、執務室に入ると主の前に跪いた。
「クラウディア様。ご命令の“加工されていないシルフィウムの種”を入手いたしました。薬屋では粉末しか扱っておりませんでしたので、香辛料商から購入しました。この薬材を、どのように扱われますか?」
クラウディアは袋を受け取り、静かに言う。
「アンドリュー。直ぐに、ローマ近郊のアペニン山脈にある氷室を一つ買い取りなさい」
アンドリューは疑念の表情を浮かべる。
「……氷室そのものを、でございますか?」
クラウディアは楽しそうに笑った。
「レンがシルフィウムの種を発芽させる方法を教えてくれたのよ」
アンドリューが眉を寄せる。
「レンとは、あの剣闘士のことでしょうか? 剣闘士がそのようなことを知っているとは思えませんが……」
「もし発芽しなければ死んで償うと言っていたわ、きっと本当のことよ。それに嘘だったとしても、種と氷室の値段なんて大したことはないわ」
クラウディアは一枚の紙をアンドリューに差し出した。
「これにはシルフィウムの種を発芽させるための注意事項が書いてあるわ。メモを取らず、頭に入れなさい」
アンドリューは紙を受け取り、目を通した。
そして鋭い目で一読したあと、クラウディアに返した。
「拝見しました。まさかこのような方法があるとは……」
「あとは頼みますね。シルフィウムの種の準備は、わたくしたちが握ります。そうすれば切り捨てられることはありません」
アンドリューが目を細めた。
「切り捨てられる?」
「レンは私の他にクラッスス様、ポンペイウス様、カエサル、マニウス叔父様をこの利権に加える気なのです。まずはわたくしがクラッスス様と直接会って、シルフィウムの栽培から販売までの準備を整えて頂けるよう話をつけます。直ぐにクラッスス様との面会をセッティングしなさい」
アンドリューは懸念の表情を浮かべる。
「……奥様、しかしそれで万一、芽が出なかった場合はどうなされるおつもりですか? クラッスス様のお怒りを買えば奥様でも、ただではすみません」
「大丈夫よ。芽がでなければそこまでの話として、賠償金を払うことで許して頂けるよう話をつけます」
「……承知しました。では種の準備はダリウスにさせましょう」
クラウディアは首を横に振った。
「いいえ。これは最重要事項です。あなたに準備を任せます。氷室の見張りはダリウスでも構いませんが、他はあなたがしなくてはなりません、わかりましたね」
アンドリューはクラウディアの信頼の証と受け取り、笑みを見せ頷いた。
「はい、奥様」
クラウディアの部屋を辞したアンドリューは、冷徹な仮面を崩さぬまま静かに自室へ戻った。
パタン、と扉が閉まった瞬間――その顔が激しい怒りに歪み、奥歯がギリィ……と嫌な音を立てて軋んだ。
(ドブネズミめが! クラウディア様を誑かしやがって……ッ!!)
アンドリューはレンが自分の魔の手から逃れ、さらにクラウディアを利用していることに、イラつきを隠せなかった。
怒りで視界が真っ赤に染まりそうなのを必死に堪えながら、アンドリューは銀の盆のシルフィウムの種に目をやった。
(この種が発芽すればヤツはローマを動かすほどの大物になってしまう……)
執務机の横では、炭を入れた火鉢が赤く灯り、その上の浅い鍋から湯気が静かに立ちのぼっていた。
(ヤツはこの種が発芽することに命を賭けた。ならば発芽しなければ、奴は奥様とクラッスス様に確実に殺される……)
彼は狂気染みた笑みを浮かべながら、シルフィウムの種を取り出した。
「……湯の温度が高すぎれば、中の種が腐るのだったな」
アンドリューは誰もいない暗い自室で、低くねっとりとした声を漏らした。
レンの指示書には種を氷室に入れる前に一度湯に付けることとあった。
ただし、『湯の温度が高すぎると種が死ぬため、絶対に一定のぬるま湯を保つこと』と注意書きが書かれていた。
レンの指示は、種皮の軟化と呼ばれる技法だった。
シルフィウムのような過酷な乾燥地帯に生える野生植物の種は、数年間も砂漠の中で生き延びるために、殻がコンクリートのようにカチカチに硬く作られている(硬実種子)。
これをそのまま冷やし、土に植えても、水が中に染み込めず発芽しない。
『一定の温度の湯に浸して殻を柔らかくほぐす』ことで、熱の力で殻に目に見えない微細なヒビが入り、水分を内部に吸収させることができる。
種に水分が染み込んだ状態にして初めて、次の工程である「氷室に入れて3ヶ月間冬を経験させる(休眠打破)」という技が効果を発揮するのだ。カラカラに乾いた種のままだと、いくら氷室で冷やしても、種は『まだ冬が来たわけじゃないな』と眠り続ける。湯に浸す工程は、休眠打破を発動させるための「必須のスイッチ」だったのだ。
(レン、お前の悪運もここまでだ……)
アンドリューは手にしたシルフィウムの種を、ぐつぐつと熱い湯気を立てる小鍋の中へ――ポチャリと落とした。
彼はこれまでクラウディアの命令には忠実に従って来た。
しかし、初めてクラウディアの命に背いた。彼は、レンを合法的に処刑台へと送り込むために、主すらも裏切ったのだ。
ーーーーーー
広大な邸宅に、冬の突き刺さるような冷たい北風が吹き寄せる。
大富豪マルクス・リキニウス・クラッスス(三頭政治の一人)は、大理石に囲まれた中庭の運動場に立ち、白い息を吐きながら息子たち二人を指導していた。
「――甘いぞ、プブリウス! 敵の懐へ入る時は、盾の角度を崩すな!」
「くっ……、はい、父上!」
十歳ほどの長男プブリウスが、かじかむ細い腕で木剣を握り直し、果敢に父へ突撃していく。
そのすぐ後ろでは、数歳年下の次男マルクスが冬着の外套に身を包み、「兄上、がんばれ!」と小さな拳を握りしめ応援していた。
息子の鋭い刺突を優雅に受け流すと、その肩をガシッと叩き、厳しくも愛情に満ちた父親の笑みを浮かべた。
「実に見事な踏み込みだ。防寒用の重い鎧を着てこれだけ動けるなら、お前は将来、ローマで最も有能な男になれるぞ。……よし、マルクスも来い。次は二人がかりでこの父を倒してみせよ」
「「はい!」」
息子たちが誇らしげに白い息を吐きながら木剣を構え直したその時――
老執事のヘルマスが、中庭を静かに横切ってきた。
銀の盆の上には、クラウディアのアントニウス家の家紋「香炉と獅子」の封蝋が施された最高級羊皮紙の手紙が載っている。
「旦那様。お忙しいところ恐れ入ります。アントニウス家のクラウディア様より面会予約を求めるお手紙が届いております」
「クラウディアだと……?」
クラッススは木剣をヘルマスへ渡し、白い息を整えながら手紙を取り上げた。
封蝋を割り、書面に目を走らせるにつれ、父としての柔らかな瞳が、冷徹な実業家の琥珀色へと鋭く変わっていく。
手紙には、社交辞令ではなく、自信に満ちた大胆な文言が踊っていた。
『クラッスス様。近いうちに、あなたに巨額の利益をもたらす“神の知恵”にまつわるお話がございます。どうか直接お会いするお時間を、わたくしに頂きたく存じます』
「ハッハッハ! 面白い……!」
クラッススは冬空に白い息を大きく吐きながら、野心に満ちた笑い声を響かせた。
クラウディア・アントニウス・バルバトゥス。
数か月前の叔父マニウスの興行で大穴に大金を賭け“百万デナリウスを稼ぎ出した”と噂された美しい未亡人だ。
「ヘルマス。小娘と面会してやる。明日の午後、俺の執務室へ来るよう手配をしておけ」
「……御意にございます、旦那様」
ヘルマスが深く一礼して去っていく。
クラッススは羊皮紙を軽く指で叩きながら呟いた。
「ふっ、俺に巨額の利益をもたらす話があるだと……。一晩で百万デナリウスを稼いだという評判の小娘が、この俺に一体どんな“利益”を提示しに来るのか、お手並みをみせて貰おうではないか!」
父親としての優しい顔から、一瞬にしてローマの経済を支配する“底知れない怪物の顔”へ戻ったクラッススは、再び息子たちへ振り返り、不敵な笑みを浮かべるのだった。




