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45 シルフィウムの栽培

「レン! その女は誰なの!!」


鋭い声が宿営地に響いた。

レンは声の方へ振り返ると、驚愕で目を見開いた。


「ルクレティア様……!?」


レンが完全に思考をフリーズさせている間にも、ルクレティアの青い瞳には夕日に照らされて大粒の涙がみるみる溜まっていった。レンが浮気していると思ったのだ。

アリーナでレンが勝利した瞬間、泣き崩れるほど彼の無事を祈っていたルクレティアにとって──

生還したレンが真っ先に自分を求めるのではなく、見知らぬ年上の女と抱き合っている現実は、あまりにも残酷な裏切りだった。


だが隣では、クラウディアが扇で口元を隠し、目を笑わせていた。


彼女は、夢見がちなルクレティアに、剣闘士が沢山の女性たちを相手にする生き物だと教えることにした。これでレンへの恋心が冷めてくれれば、レンは晴れてフリーになる。


ルクレティアは激しい足取りでイオに詰め寄った。


「ちょっと……あなたは誰なの! なんでレンに抱きついているのよ! レンは……レンはわたくしの思いに応えて、試合に勝ってくれたのよ!!」


クラウディアはすぐさま護衛に、周囲から人を遠ざけるよう命じた。この分ではルクレティアが何を言い出すか分からないからだ。


イオはそんなクラウディアの姿をチラリと見て、ルクレティアが貴族だと思った。そのため深く頭を下げる。


「初めまして! わたくしはレン様にお仕えする奴隷のイオにございます!」


「……奴隷? レンにお仕えする?」


イオの慇懃な挨拶を聞いた瞬間、ルクレティアは一瞬だけ呆然としたようにその言葉を繰り返し、レンを見た。


「はい、そうなんです! イオはクラウディア様が俺にくださった奴隷なんですよ!」


レンがチラリとクラウディアを見たのにつられ、ルクレティアも後ろを振り返り彼女を見た。その青い瞳には、信じられないという疑念が浮かんでいた。


「クラウディアお姉さま、……本当ですか?」


顔をくしゃりと歪める従妹からの真っ直ぐな視線を正面から受け止めたクラウディアは、扇を口元から外し、「大人の余裕」で応える。


「ルクレティア、確かにイオはわたくしが与えました。そして、イオには求められれば夜の相手にも応じるよう命じてあります。勿論、イオを抱くか抱かないかはレンの自由です……」


そこでクラウディアはレンをチラリと見た。


(何でそんなこと言うんですか!? それじゃあ、俺が悪者じゃないですか!)


クラウディアはレンが目で必死に訴えているのを無視して続ける。


「……イオ、夜の相手はしているのですか?」


イオは戸惑いながら応える。


「……はい、クラウディア様」

「「っ……!」」


レンは『マズイことになった』と顔を青くし、ルクレティアは絶望で目から涙が零れ落ちた。


「ルクレティア、貴方が信じた男はこの程度だったのです。ですが、イオだけではありません。剣闘士は望まれれば、貴族女性や金持ちの女たちの相手をしなくてはならないの」

「そんな……」

「ローマの女なら浮気に寛容でなくちゃいけないわ。まして相手が剣闘士なら尚更です。女の百人や二百人は我慢することになるでしょうね。それが無理なら諦めなさい……」

「……二百人……」


十二歳のルクレティアにとって、それは残酷な現実だった。


とはいえクラウディアの言葉はあながち間違いではない。剣闘士が金で買われ、女の相手をする必要があるのも事実。またローマ人の貴族の正妻が、夫が奴隷や娼婦などの「身分の低い相手」と浮気をすることに対して、嫉妬して騒ぎ立てるのは『教養がなく、みっともないこと(淑女の恥)』とされていた。


「……お姉さま、何でそんな酷いことを言うの!  諦めなさいだなんて、そんなの、そんなの絶対に嫌!!」


ルクレティアは激しく首を振ると、涙に濡れた青い瞳で真っ直ぐにレンを見つめた。


「レン誓って! レンに何人女がいても構わない! だけど一番大切なのは私だって! 私を絶対に妻にするって!」

「……妻!?」

「誓ってくれるなら、浮気は許してあげるから!」


彼女の目からは大粒の涙が次々と溢れ落ちており、その重い純情を正面からぶつけられたレンは、今すぐこの場から全力で逃げ出したい気持ちになっていた。


(ローマで、妻ってひとりだけだろ? ここで正妻決めるのは……。あ、でも女が何人居ても構わないっていうのはポイント高いな!)


レンはクラウディアの顔色をうかがった。だが彼女は、扇で上品に口元を隠したまま、面白そうにレンの反応を見ているだけだった。


(これって好きにしていいってことかな……?。貴族と奴隷じゃ結婚は出来ないし、ここは適当に応えるか?)


レンは聞かれるとマズイので周囲を見渡した。幸いなことにクラウディアの命により、近くには人影はなかった。


「分かりました、誓いますから。だからもう泣かないでください」

「……ちゃんと妻にするって誓って!」

「ルクレティア様を、俺の妻にすると誓います」

「ありがとうレン! 約束よ!」


ルクレティアはレンの胸に飛び込んだ。

その瞬間、視界にトースト通知が流れた。


『運命の乙女』が発生しました。


(……ん? 運命の乙女。なにそれ? これ、あとで確認しないといけないヤツだな……)


クラウディアがつまらなさそうな表情で声をかけた。


「ルクレティア、もう十分でしょう。帰りますよ」


「……はい、クラウディアお姉さま。レンまた応援に来るね!」


胸にしがみついていたルクレティアが、名残惜しそうに、けれど先ほどまでの涙が嘘のように、満面の笑みを輝かせて身体を離した。


2人が去ろうとした時、レンは思い出した。


(そうだ忘れてた!)


「お待ちくださいクラウディア様! お話があります!」


レンが放ったその呼びかけに、優雅にトガの裾を翻して、歩き始めていたクラウディアが足を止めた。


「あら、レン。わたくしに一体何の用かしら? また何か欲しい物でもあるの?」


上品で色香のある微笑みでレンを見つめる。


(はあ……相変わらずいい女だよな……。

って違う、そうじゃない! ここはまずスキル発動だ!)


★話術 Lv.20発動

――その瞬間、小心者のレンの心に正体不明の自信が宿った。


「実は今回、俺の友達をバティアトゥス様に解放して貰うのですが、俺は彼らと商いをするつもりなのです。なので彼らを保護して頂けませんか?」


「そうなの……だけどパトロンのわたくしに何の得があるというのです? レン、わたくしは貴方のパトロンですが、そのような雑務を頼むなど図々しいにもほどがありますよ」


「いえ、損はさせません、得はあります! 俺と組んで商売を始めませんか!!」


レンがハッタリの効いた不敵な笑みを浮かべながらそう言い放った瞬間、それまで「大人の余裕」を崩さなかったクラウディアの美しい顔が、初めて驚愕に固まった。


(……は? 商売……? この子がわたくしと……?)


クラウディアは持っていた上品な扇の手を止め、信じられないものを見るかのようにその琥珀色の瞳を大きく見開いた。パトロンである自分に対し、おねだりや泣きつきではなく、まさか対等なビジネスの「提携」を持ちかけてくるなど、ローマのいかなる大貴族の男たちからも経験したことのない、あまりにも突拍子もない提案だった。


だがすぐに驚愕から一転、貴族としての冷徹な怒りが沸きあがり、クラウディアは扇をパチンと閉じる。


「レン、よく聞きなさい。わたくしはあなたのパトロンよ。そしてあなたはただの奴隷。そのわたくしを相手に一緒に商売をしようなどど分を超えています、身の程をわきまえなさい。それに――わたくしは商売などに一切興味はないわ」


上品な声音の奥に貴族の特権意識を漂わせながら、クラウディアはそう言ってフッと憐れむようにレンを見下ろした。クラウディアの中でのレンへの評価が大きく下がる。


どれほどアリーナで英雄になろうとも、奴隷の小遣い稼ぎなどに乗るつもりはない、鉄壁の拒絶だった。


「本当にそうですか?」


だが、レンはそこで怯むどころか、さらに深く、傲慢なほどにニヤリと笑ってみせた。


「俺は薬などに使われるシルフィウムの栽培方法を知っています。ローマ人の誰も知らない知識です。これはローマ共和国に対しても、これ以上にない貢献であり、巨万の富が手に入る一石二鳥の話の筈ですが。本当にご興味はありませんか?」


パサリ、と力なく白砂の上へ、クラウディアの手から最高級の扇子がこぼれ落ちた。

その琥珀色の瞳は信じられないものを見るかのように見開かれ、驚愕のあまり呼吸をすることすら忘れたようにレンを凝視していた。


シルフィウムという植物には途方もない価値があった。

その価値は、かつて中国の清帝国の国家財政を揺るがした経済兵器アヘンと同等か、それ以上である。ただしアヘンと違い、シルフィウムは依存性を持つ毒ではなく、医薬・香料・避妊薬として古代世界を支えた“本物の薬”である。


だが栽培が出来ないため、シルフィウムは今や金以上の価格で取引される高級品。北アフリカのキレナイカ地方にしか存在せず、絶滅が危惧されて久しい植物だった。


ローマの大富豪や高名な学者たちが全財産を投じて挑んでも、ただの一度として成功していない『栽培不可能な植物』だった。


そのため史実ではこの約百年後──

ネロ皇帝に献上された、たった一本を最後に、その名を文献から完全に消すことになる植物である。


レンのシルフィウム栽培の話に驚愕したのはクラウディアだけではなかった――サポートAIもだ。


《ポーン――レンさん! シルフィウムの栽培方法を知ってるってどういうことですか!? 私、そんな知識は教えてないですよね!?》


(おいバカ、今出て来るなよ! あとで呼ぶから引っ込んでろ!)


《……くっ、絶対ですよ!!》


「レン……っ、あなた今、何と言ったの……?」


クラウディアの美しい顔からは、大人の余裕もパトロンとしての威厳も、完全に消え失せていた。


レンは勝利の笑みを浮かべる。


「クラウディア様! 俺はシルフィウムの栽培方法を知っています! 俺に力を貸してください!

一緒に国を動かす大きな商いをしましょう!!」

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