43 貴族席の反応
「勝負あり! ドロミコスの降伏宣言を認める!! 勝者、ガリアのレン!!」
主審の叫びがアリーナに響き渡り、大歓声が闘技場全体を揺らした。
その熱狂のさなか、貴族専用席で、一人の少女が胸を躍らせていた。
レンの“仮初の恋人”であり、マニウスの娘でもある十二歳のルクレティアだ。
「……レン、凄い…っ!」
最前列の手すりから身を乗り出したルクレティアは、瞳を輝かせ、頬を赤く染めていた。
「クラウディアお姉様、見ました!? レンがひとりで、5人全員を倒しましたわ! 剣を奪われた時は、わたし生きた心地がしませんでしたけれど、レンは私の思いに応えてくれました!」
隣ではクラウディアが扇子で口元を隠していたが、興奮を隠しきれていない。
「ええ見たわ。素晴らしい試合だったわね。さすがわたくしと貴方が見込んだだけの男だわ。パトロンとして誇らしいわ!」
「はい、お姉様! レンは最高の男性ですから!!」
その時、艶やかな衣服をまとった二人の美女がやって来た。
「あらあら、随分と盛り上がっておられますね」
「クラウディア、お久しぶり」
ひとりは実家の政治力を背景に、ローマの社交界を影から支配するセルウィリア・カエピオニス。
もう一人は、天才将軍ポンペイウスの妻であり、社交界の女王ムキア・テルティア。
2人はクラウディアより、2歳年上の24歳。
この年齢で社交界を牛耳っているのは、その立場に加え、若くてエネルギッシュな彼女たちの元へは、流行や情報が自然と集まるからだった。
クラウディアが頭を下げる。
「セルウィリア様、ムキア様。ご無沙汰しております」
「クラウディア聞きましたよ。あなた、あの剣闘士のパトロンなのでしょう? 素晴らしい試合だったわね!」
ムキアが人懐っこい笑みを浮かべ、クラウディアの傍へ滑り込んできた。
「ええ、ムキア様。私もまさかこれほどの試合を見られるとは思いませんでしたわ」
すると、背後に立つセルウィリアが、すべてを見透かすような妖しい微笑みをクラウディアへと投げかけた。
「ふふ、驚いたなんて嘘をおっしゃい。あなたが金貨三千枚を賭けて100万デナリウスを稼いだという噂、社交界では持ち切りよ。ただの気まぐれなコレクションへの投資ではないのでしょ……」
セルウィリアの優雅な探りに合わせ、ムキアも扇子を顎に当てて面白そうに首を傾げた。
「そうよ、クラウディア。あの剣闘士とはもう遊んだの?」
クラウディアは扇で口元を隠しながら可笑しそうに笑う。
「まあ……お二人とも、わたくしのコレクションに随分とご興味がおありなのですね」
クラウディアは自分のプライベートだと牽制するが、ムキアは意に介さない。
「だってあれほどの剣闘士よ、気になるでしょ。どうなの?」
「ご想像にお任せしますわ」
セルウィリアが、からかうように言う。
「あら、やっぱりそうなのね。それで、あっちの方はどうだったの? よかった?」
三人のやり取りに、十二歳のルクレティアは顔面を湯気が出るほど真っ赤にして震えた。
(な、何の話をしてるのよ、お姉様たちは!! はしたないわっ……! ローマの淑女としての品位はどこへ行ったの……っ!)
同じ頃。
――興行主の特別席。
興行主フィリップスが招いた三十名ほどの大貴族たちのいる区画でも、レンの試合に大歓声が起こっていた。
だが――ひとりだけ違う反応をしている人物がいた。
ルクレティアの父、マニウスである。
彼だけは、手すりをきつく握りしめたまま、完全に凍りついていた。
(ば、ばかな……なぜだ……。
なぜ、あのような動きが出来るのだ……!?
たった2年でどうすればあそこまで強くなれるのだ!!)
マニウスの頭の中は激しい混乱と怒りで真っ白だった。
「三対五のハンデ戦」
レンのスタミナの弱点を突いた、死地を用意したはずだった。
それなのにあの男はかすり傷ひとつ負わず、スタミナが切れることもなく5人を倒した。
マニウスの激しいショックとは裏腹に、周囲は拍手でレンを称える。
ユリウス・カエサルは、優雅にトガを整えながら、黄金色の瞳を輝かせて口を開いた。
「フィリップス閣下、おめでとうございます。レンの戦いは、まさに歴史に残る名試合でしたな。観客も皆、心から満足しておりますぞ」
カエサルの言葉に、周囲の大富豪クラッススや弁論家キケロ、そしてメテッルスやカトゥルスといった元老院の重鎮たちも「うむ」「素晴らしかった」と深く頷いた。
すると、フィリップスのすぐ隣に座る、ローマの若き天才将軍ポンペイウスもまた、鋭い眼光を砂の上のレンに据えたまま、感嘆を隠しきれない声音で続けた。
「同感だ、カエサル。これほどの試合は私も初めて見た。まさか武器をすべて失った状態から、素手だけで二人も敵を倒すとは……」
ローマ元老院の重鎮たち、さらには軍事の天才ポンペイウス、後の英雄カエサルたちからの称賛。
いまやローマの現在と未来を担う重要人物たちの目が、レンに注がれていた。
「では私の興行で、歴史的な名試合をしてくれた剣闘士には、褒美を弾まねばならんな」
興行主ルキウス・マルキウス・フィリップスは、満面の笑みで大きく頷くと、ゆったりとした足取りでバルコニーの最前列へと進み出た。
高齢の身体を支えながらアリーナの群衆へ向けて優雅に右手を振ると、そのすぐ隣に控えていた肺活量自慢の伝令官が、ずいっと前へ出た。
伝令官は大きく息を吸い込み、凄まじい大声をアリーナ全体へ響かせた。
「――静粛に! 興行主フィリップス閣下の名において発表する! このローマに最高の熱狂をもたらしたガリアの若き英雄レンに対し、閣下より特別報酬『三万デナリウス』の授与をここに宣言する!!」
その破格の金額がアリーナを駆け巡った瞬間、数万人の観客席から大歓声が爆発した。
『おおおおおーーーっ!? 三万デナリウスだとぉぉ!!』
『さすがフィリップス閣下だ! 太っ腹だぜ!!』
「フィリップス閣下に栄光あれ!!」
「寛大なる閣下に神々の祝福を!!」
大衆はバルコニーのフィリップスへ惜しみない賛辞と拍手を送る。
その凄まじい熱狂を特等席で聞かされていたマニウスは、呼吸が困難になるほどの激しい怒りに襲われていた。
(さ、三万デナリウスだと……!?
おのれレン……!
ただの奴隷の分際で、どれほど私に屈辱を与えれば気が済むのだ……!)
レンを合法的に処刑するために用意したはずの試合が、ことごとく撃破され、いまや元老院の頂点に立つ男たちまでもがレンを称賛している。
この状況で、もしレンが解放されればどうなるか――
想像するだけで背筋が凍る。
レンは元老院の有力者に護衛として雇われ、その主を唆し、自分に害を与えるかもしれない。
なんとしてもそれだけは阻止しなくてはならない。
マニウスはバティアトゥスに『誰に頼まれても絶対にレンを奴隷から解放するな』と再度警告しようと心に決めた。
ユリウス・カエサルが、不敵な笑みを浮かべてフィリップスの元へ歩み寄った。
「フィリップス閣下、実に見事な演出でしたな。大衆の心を完全に掴んでおられる」
フィリップスは笑みを浮かべつつも、その目はカエサルを警戒していた。
「……時に閣下。慣例によれば、素晴らしい試合をした剣闘士には、アリーナに降りて閣下、もしくは代理人が直接称賛すべきです。もしお差し支えなければ──興行主の“名代”として私を行かせてもらえませんか?」
「ふむ、君が直々にかね」
「はい閣下。大衆をあれほど味方につける若き英雄が、どのような男なのか……この目で近くで見たいと存じます」
フィリップスは、満足げに目を細めた。
「ハッハッハ、さすがはカエサル。
よかろう! ならばお前に、私の名代として彼を讃える大役を任せよう。フィリップス家の名誉にふさわしい言葉を届けてくれ」
「――承りました。」
カエサルは深く一礼すると、ゆったりとした足取りで特別席をあとにし、アリーナへと降りていった。




