39 強壮薬
早朝。
レンはようやくファビアの腕から抜け出し、守衛の許可を得てテントを出た。
(……やっと終わった……)
テントを出たレンの肌に、冬の冷たい空気が突き刺さる。
だが燃え尽きてしまったレンの心には、寒さを感じるゆとりなど無かった。
髪は乱れ、衣服はところどころ引きちぎれ、体にはファビアの香油の匂いがびっしりと染みついていた。
レンは足元をふらつかせながら、イオの待つテントへと半泣きで歩く。
(早くイオに会いたい……)
やがて自分のテントに帰り着くと、入口の布をゆっくりと押し上げた。
すると入り口の近くで、体を小さくしてレンの帰りを待っていたイオが、顔を輝かせて立ち上がった。
「旦那様!」
だがレンの表情を見た瞬間、息を呑んだ。
「だ、旦那様!? 目の下が真っ黒です! お顔の色も悪いですよ、大丈夫ですか!?」
レンは震える声で応える。
「……寝てない……ずっと……求められて……怖かった……」
イオは震えるレンの言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「……旦那様……」
小さく呟くと、イオはゆっくりとレンに近づいた。
そしてそっと両腕を伸ばし、優しくレンの身体を抱きしめた。
その動きには、確かな愛情が籠もっていた。
「……大丈夫ですよ……もう大丈夫ですからね」
イオはレンの頭を胸元へ引き寄せ、片手でそっと髪を撫でた。
その温もりは、夜じゅう追い詰められたレンの心をゆっくりと溶かし始める。
レンは、イオの胸元に顔を埋めたまま、かすれた声で呟いた。
「……イオ……もう少しだけ……そばにいてほしい……」
イオは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「はい。わたくしは……ずっと旦那様のそばにおります」
その言葉に、レンの中で何かが決壊した。
イオの肩に手を添え、そっと顔を上げる。
「……イオ……」
イオの黒い瞳が揺れた。
レンは吸い寄せられるように、イオの唇へと顔を近づけた。
イオは頬を赤く染めながら小さく囁く。
「だ、旦那様……まだ朝です……」
その声は拒絶ではなく、ただ恥じらいを含んだものだった。
レンはそのままイオの手を取り、ベッドへと導いた。
ーーー
数時間後、
イオはそっとレンの肩に触れた。
「……旦那様、お昼前です。
そろそろ……起きてくださいませ」
レンは目を閉じたまま応える。
「もうちょっと……あと5分だけ……」
「ダメです、さっきもそのように仰いました。起きて下さい」
レンは小さく唸り、ゆっくりと目を開けた。
「……もう時間?」
「はい。もうすぐ試合に出場する剣闘士様たちが移動する時間です」
通常は興行の御前中は、罪人の処刑や動物の狩りなどの前座が行われる。
そのため剣闘士たちが出る試合は午後から始まるのが一般的だった。
(ただし、冬は日没が早いため、少し予定が早くなる)
試合に出場する剣闘士たちは、守衛によって見張られ、隊列を組んでローマ郊外のテントを出て、ローマ市内の控えテントへ向かう。その集合の時刻が迫っていた。
イオは心配そうにレンの顔を覗き込む。
「……目の下……まだ少しだけ黒いです。大丈夫ですか?」
レンは苦笑しながら上体を起こした。
「……うん、かなりよくなった……」
(これも回復術の効果だな。まあ回復術のレベルが上がっても、睡眠時間はなぜか変わらないけど……)
レンの現在の回復術のレベルは 51。そのため回復力は通常の6倍あり、この数時間の睡眠で体調自体は全快していた。
イオは起き上がったレンの衣服をすぐに整えた。
「ありがとう、じゃあ行ってくる」
「あっ、旦那様、お待ちください。これを……」
イオは小さな瓶を大切そうに両手で抱え、差し出した。その瓶の中では、淡い緑色の液体が揺れていた。
「これは?」
「……クラウディア様が旦那様のために手に入れてくださった、貴重な強壮薬です。試合で力が出るように、とのことです」
レンは驚いたように目を瞬かせた。
「クラウディア様が……?」
強壮薬は養成所でも普通に売られている。
だが中身が怪しいと思って手を出したことはない。
「はい。中身はシルフィウムと胡椒、蜂蜜と葡萄酒に、生姜とニンニク、それに香草などを加えているそうです」
(おいおい、シルフィウムってこの時代にしかない、幻の薬草じゃねえか! 確か僅かな量でも500デナリウスはくだらない超高級品だぞ! さすがクラウディア様だな!)
何も知らないイオは疑いもなく、ただ純粋にレンのためを思って差し出していた。
レンはシルフィウムと聞いて興味を持ち、瓶を受け取って中身を光に透かしてみた。
「……なるほど。これなら確かに効きそうだ」
イオは小さく微笑んだ。
「はい。旦那様が試合でお力を発揮出来ますよう、どうかお飲みください」
瓶の蓋を開けると、ふわりと、
蜂蜜と葡萄酒の甘い香りに混じって、
生姜と香草の刺激が鼻をかすめる。
レンは瓶の口を唇に当て、一気に喉へ流し込んだ。
液体は思ったよりも濃く、舌に触れた瞬間に蜂蜜の甘さと香草の苦味が広がる。
さらに喉を通ると、生姜の熱がじわりと広がり、胸の奥が温かくなった。
「ごほ……っ。思ったより濃い味だ……」
レンは軽く咳をしながら瓶を下ろした。
イオはレンの背中を擦りながら、心配そうな顔をした。
「だ、大丈夫ですか旦那様……?」
「うん、確かに……体が温まって、元気が出てきた気がする…かな?」
イオはほっと息をついた。
「よかったです」
レンは瓶をイオに返し、深く息を吸った。
「……よし行ってくるよ。無事に帰ってくるから、安心して待ってって!」
「はい、どうかお気をつけて!」
イオに笑顔で見送られ、レンはテントを出た。
ーー
剣闘士たちが集団で闘技場の裏手の広場に移動したあと、レンはベスス教官に挨拶をし、控えのテントに入った。
そこには、既に今日の【3対5】の試合で味方となる、二人の男の姿があった。
金髪の若いガリア人──ヴェルコ。
黒髪で長身の男──ヴォルカス。
レンが入ると、二人は同時に顔を上げた。
(こいつらが今日の味方か、どうせ本当は敵なんだろうな……)
「……レンだ。今日の試合では隊長を務める、よろしく頼む」
ヴェルコはわずかに顎を上げ、どこか見下すような目つきでレンを見た。彼はガリアの貴族階級の出身で、お高く止まっていたのだ。
「……レン殿だな。カプアのテオドロス養成所のヴェルコだ。よろしく頼む」
ヴォルカスも静かに頭を下げた。
「ヴェルコと同じ養成所のヴォルカスだ。よろしくな」
形式としては丁寧。
だがレンは、二人の視線の奥に“どこか距離を置く気配”を感じ取った。
(……やっぱりこいつら信用できないな。となると、今回も敵を全員、俺が倒さないといけないのか? 普通だったら無理ゲーもいいとこだぞ……)
レンは一歩前に出て、淡々と告げる。
「配置は俺が決める。俺は右翼に入る。中央はヴェルコ、左翼はヴォルカス以上だ」
ヴェルコがわずかに眉を上げた。
「俺が中央か……悪くない、了解した」
ヴォルカスも短く頷く。
「異論はない」
二人とも一応従う姿勢は見せた。
だがレンの胸の奥の警戒は消えない。
(……俺が中央だと、左右が降伏して囲まれたらヤバいからな。まあ端っこなら、何とかなるだろ……)
レンはニヤリと笑った。
「じゃあ質問が無ければこれで打ち合わせは終わりにしたい。試合までは好きに待機してくれ」
2人が頷くのを見て、レンは静かに息を吐き、控えテントの隅っこに座った。
(全員が敵でも今の俺なら多分勝てるだろう……)
レンが回復術のスキルを取ってから約二ヵ月が経った。
超回復のお陰でレンのスキル訓練は、これまでにないほど順調に進んだ。
そのため今回の試合は、余裕で勝てると踏んでいたのだ。
(ステータスオープン)
■名前: レン
■年齢: 16歳
紀元前92年9月産まれ
■出身地:ガリア
■家族なし 孤児
■容姿:黒髪黒目の美形。戦闘適性の高い体格。
■所持金 銀貨3枚、銅貨12枚
■称号:ガリアの新星(全能力値補正+10%)
New↓
■加護
★ファビア(全能力値補正-20%)
効果時間3日
★イオ(全能力値補正+10%)
効果時間1日
★レベル: 47
(最大レベル999)
★HP(体力): 434 /434
(+5上昇)
★SP: 161/ 161
(+3上昇)
★MP: 265/265
(+93上昇)
(いやちょっと待て! なんだこれ!
ファビアの加護-20%って何だよ! あの女、ふざけやがって。何やってくれてんだよ!!)
レンはファビアの加護の呪いに、怒りで頭を搔きむしった。
■【能力値】(平均的な剣闘士400)
★筋力:310
(+6上昇)
★敏捷: 424
(+5上昇)
★耐久: 256
(+5上昇)
レンは次にスキルに目をやった。だが、使ってない盾のスキルなどが表示されてることに眉を寄せた。
(スキルが多くなったから整理しないと分かりにくいな。見なくてもよさそうなのは重要度底に移そう)
レンはスキルをせっせと移動させる。
(うん、だいぶスッキリした)
■【スキル】(最大レベル100)
■非発動型
★二刀流術 Lv.5(攻撃力&防御力+50%)
(レベル+1上昇)
★回復術 Lv.51
(レベル+31上昇)
★カンフー Lv.10
★毒抵抗 Lv.10
(スキル訓練で24時間MPが足りてないからら回復術がめちゃくちゃあがったな。後半は上がり難いけど2年以内にはカンストできそうだ)
■発動型(必要MP 10)
★筋力強化 Lv.40(筋力+400%)
(レベル+30上昇)
★スタミナ強化 Lv.40(スタミナ+400%)
(レベル+39上昇)
★敏捷強化 Lv.40(敏捷+400%)
(レベル+30上昇)
★集中力強化 Lv.40(集中力+400%)
(レベル+30上昇)
★耐久力強化 Lv.40(耐久力+400%)
(レベル+39上昇)
★『敵攻撃の先読み Lv.71』
(レベル+9上昇)
★話術 Lv.20
(レベル+19上昇)
(ふふふ。基礎能力を結構鍛えたからな。スキル発動すると実質5倍。
正直、一流剣闘士相手でも下位の奴ならもう倒せそうなんだよな。まあ、急に強くなったら変だから、手を抜いてやってるけど……)
レンは弱点はスキル使用時間くらいだった。
6つのスキルを全て発動した場合の使用可能時間は10分。
筋力、敏捷、先読みの3つに限定した場合でも20分ほどが限界だった。
(個々に発動はめんどくさいから、グループ別に登録しておこう。
筋力、敏捷、先読みの3つはグループAに登録と……。6つ発動はグループBに登録。よし、これで試合直後は、グループAを発動して様子見だな……)
■重要度低スキル
★短刀術 Lv.11(攻撃力&防御力+110%)
★盾術 Lv.5(防御力+50%)
★言語理解(ラテン語/ガリア語) Lv.Max ※憑依転生特典
★気力枯渇耐性Lv.91。ダメージ91%カット。気絶無効。
(レベル+9上昇)
★地獄耳強化 Lv.10
(対象の音量レベル+100%増加)
(レベル+9上昇)
★隠密強化 Lv.10
(気配値-10%)
(レベル+9上昇)
★跳力強化Lv10
(跳力+100%)
(レベル+9上昇)
■ポイント残高1000
レンが全ての確認を終えたその時、
控えの入口がわずかに揺れ、息を切らした伝令奴隷がテントに駆け込んできた。
「2つ前の試合が終了しました! 皆さま、ゲート裏の控えテントへ移動をお願いします!」
「「わかった」」
ヴェルコとヴォルカスが同時に立ち上がり、レンも続こうと手を地面についた――
(――ん?)
その瞬間、レンは右腕に“ビリッ”と微かな痺れが走るのを感じた。
掌を見つめ、グーパーしてみる。
指先には、じんわりとした痺れがあった。
(なんか痺れてるな……。ベッドで変な態勢でもとったか?)
腕を軽く振ってみても、痺れは完全には消えない。
(……まあいい。試合に集中しないと……)
レンは軽く腕を振って痺れを振り払うと、二人の後を追うようにテントを出た。




